第50話 信忠の第一決裁
天正八年、十一月。
安土で、軍議があった。
諸将が集められた。柴田勝家。丹羽長秀。滝川一益。村井貞勝。そして俺。
羽柴秀吉は、播磨で三木城を落とした直後で、来ていない。
議題は、来年の方針だった。
大広間に、信長が座った。
その隣に――信忠が座った。
俺は、その配置に気づいて、息を呑んだ。
(――隣だ)
これまで、信忠は諸将と同じ列に座っていた。
当主とはいえ、実務は父が握っている。だから席次も、そうなっていた。
だが今日は、違う。
諸将も、気づいていた。
空気が、わずかに動いた。
◇
軍議は、いつも通り進んだ。
信長が問い、諸将が答える。
速い。
柴田が北陸の状況を述べた。三分。
丹羽が畿内の普請を述べた。二分。
滝川が伊勢の様子を述べた。三分。
俺は、丹波を述べた。
「丹波、国衆四十二家のうち、服属三十八。残り四家のうち、二家は交渉中にございます」
「残り二家は」
「赤井の残党にございます。山に籠っております」
「落とせるか」
「落とせまする」
俺は、少し言葉を選んだ。
「されど、落とすより、降らせるほうが安うございます」
「時はかかるな」
「半年かと」
信長は、少し考えた。
そして、こう言った。
「勘九郎」
部屋が、静まり返った。
信忠が、動きを止めた。
「は」
「どうする」
◇
俺は、息を呑んだ。
(――来た)
これは、試験だ。
しかも、諸将全員の前でだ。
柴田が、こちらを見た。丹羽も。滝川も。
全員が、信忠を見ていた。
信忠は、しばらく黙っていた。
俺は、平伏したまま、動けなかった。
(――半刻かかる)
この男は、半刻かかる。
だが、ここは軍議の場だ。半刻は、待ってもらえない。
信忠が、口を開いた。
「日向守」
「は」
「半年で降らせるとして、その半年の間、丹波の兵はどうなる」
俺は、顔を上げた。
(――質問だ)
この男は、決めなかった。
――先に、問うた。
「丹波に、二千を置くことになりまする」
「その二千は、他へ回せぬか」
「山を囲んでおる兵にございますゆえ、回せませぬ」
「落とせば、回せるか」
「回せまする」
信忠は、頷いた。
そして、次の問いを出した。
「落とすとして、こちらの損は」
「五百は、失いまする」
俺は、正直に答えた。
「山城にございますゆえ」
信忠は、しばらく黙っていた。
◇
そのとき、柴田勝家が口を挟んだ。
「城介様」
太い声だった。
「五百で落ちるなら、落とすべきかと存ずる」
俺は、身を固くした。
柴田は、続けた。
「兵二千を半年遊ばせるなら、五百失うても落としたほうが、算が合い申す」
――これは、正論だ。
軍事的には、完全に正しい。
信忠は、柴田を見た。
そして、こう言った。
「修理どの」
「は」
「その五百は、どこの兵か」
柴田が、動きを止めた。
「は?」
「丹波を攻める五百だ。どこから出す」
柴田は、少し戸惑った。
「明智の兵にござろう」
信忠は、頷いた。
そして、俺を見た。
「日向守。そなたの兵は、いま何人だ」
俺は、答えた。
「八千にございます」
「五百は、いくらだ」
「十六人に一人にございます」
信忠は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「修理どの。もし北陸で、そなたの兵の十六人に一人を失えと言われたら、どうする」
柴田が、口を開いて、閉じた。
部屋が、静かになった。
◇
信忠は、続けた。
「算は、合っておる。修理どのの申されることは、正しい」
柴田が、頭を下げた。
「だが」
信忠は、言った。
「五百は、数ではない」
俺は、平伏したまま、目を閉じた。
「五百の家がある。五百の親がある」
信忠は、続けた。
「それを、半年の時と引き換えにするかどうかだ」
長い沈黙があった。
やがて、信忠が言った。
「日向守」
「は」
「半年で降らせよ」
俺は、顔を上げた。
「ただし」
信忠は、続けた。
「半年で降らなんだら、そのときは落とせ」
俺は、平伏した。
「承りましてございます」
◇
信忠は、そこで信長のほうを向いた。
そして、頭を下げた。
「父上。以上でございます」
俺は、その所作を見ていた。
(――伺っていない)
この男は、「これでよろしいか」と聞かなかった。
――決めて、報告した。
信長は、しばらく黙っていた。
部屋の全員が、息を詰めていた。
やがて、信長は言った。
「で、あるか」
それだけだった。
だが、部屋の空気が、変わった。
俺は、脇の下に汗をかいていた。
(――通った)
信長は、上書きしなかった。
――信忠の決めが、そのまま織田家の決定になった。
軍議の後。
俺は、廊下で丹羽長秀に呼び止められた。
「日向守どの」
「丹羽様」
丹羽は、少し笑っていた。
「今日のあれは、そなたの仕込みか」
俺は、首を振った。
「それがしは、何も」
「まことか」
「まことにございます」
俺は、正直に言った。
「それがしは、平伏しておっただけにございます」
丹羽は、しばらく俺を見ていた。
そして、言った。
「城介様は、良い問いをなされた」
「さようでございますな」
「『その五百はどこの兵か』――あれは、米で申せば」
丹羽は、少し考えた。
「『その米は、誰の田から出るか』でござるな」
俺は、思わず笑った。
この人は、本当に何でも米に例える。
「丹羽様。仰せの通りにございます」
「日向守どの」
丹羽は、少し声を落とした。
「柴田どのは、腹を立てておられるかな」
俺は、少し考えた。
そして、言った。
「分かりませぬ」
◇
その夜、俺は柴田勝家に会いに行った。
これは、賭けだった。
柴田は、酒を飲んでいた。
俺を見ると、太い声で言った。
「日向守か」
「夜分に、失礼つかまつります」
「座れ」
俺は、座った。
柴田は、俺に杯を寄越した。
しばらく、二人とも黙って飲んだ。
やがて、柴田が言った。
「今日のことか」
「はい」
「わしが、恥をかいたと思うておるか」
俺は、首を振った。
「いえ」
「ならば、なぜ来た」
俺は、答えた。
「お礼を申し上げに参りました」
柴田が、杯を止めた。
「礼、だと」
「はい」
俺は、頭を下げた。
「柴田様が、正論を仰せくださったゆえ、城介様は考えることができました」
◇
柴田は、しばらく黙っていた。
そして、大きく息を吐いた。
「日向守」
「は」
「わしは、あの若様が嫌いではない」
俺は、顔を上げた。
「ただ、な」
柴田は、杯を置いた。
「遅い」
俺は、頷いた。
「さようにございます」
「上様なら、三分で決められる」
「はい」
「あれでは、戦場では死ぬ」
俺は、その言葉を、真剣に受け止めた。
(――これは、正しい)
戦場では、速さが命だ。
半刻考える指揮官は、負ける。
「柴田様」
「うむ」
「仰せの通りにございます」
俺は、言った。
「戦場では、城介様は上様に及びませぬ」
柴田が、少し驚いた顔をした。
「そなた、あっさり認めるな」
「事実にございますゆえ」
「ゆえに、戦場は、柴田様がおられます」
柴田が、動きを止めた。
◇
「日向守」
「は」
「何が言いたい」
俺は、答えた。
「城介様お一人で、全部をなさる必要はございませぬ」
「上様は、全部をお一人でなさいます。戦も、政も、金も」
「そうだな」
「あれは、上様ゆえにできることにございます」
俺は、頭を下げた。
「城介様には、できませぬ」
柴田は、俺を見ていた。
「ゆえに、分けねばなりませぬ」
俺は、言った。
「戦は、柴田様が。畿内の普請は、丹羽様が。京は、村井様が」
「そして、城介様は、それを繋ぐ役にございます」
柴田は、長いこと黙っていた。
やがて、こう言った。
「日向守」
「は」
「そなた、それを上様に申したか」
俺は、答えた。
「申しておりませぬ」
「なぜだ」
「上様は、お認めにならぬゆえにございます」
俺は、正直に言った。
「上様は、ご自身で全部をなさる方にございます。ゆえに、分けるという考えを、お嫌いになります」
柴田は、杯を取った。
そして、一気に飲んだ。
そして、こう言った。
「そうか」
柴田は、杯を置いた。
「わしも、そう思うておった」
俺は、顔を上げた。
「北陸を任されて、六年になる」
柴田は、続けた。
「上様は、一度も来ておられぬ」
俺は、息を呑んだ。
(――この人も)
信雄と、同じことを言っている。
「日向守」
「は」
「今日、城介様は、わしの兵のことを聞かれた」
柴田は、少し目を伏せた。
「『北陸で十六人に一人を失えと言われたら、どうする』と」
俺は、黙っていた。
「上様は、そういうことを聞かれぬ」
柴田は、言った。
「『やれ』と仰せられる。それだけだ」
俺は、しばらく答えられなかった。
やがて、柴田が言った。
「日向守。ひとつ、頼みがある」
「なんなりと」
柴田は、俺を見た。
その目に、初めて、感情らしきものがあった。
「あの若様に、伝えてくれ」
柴田は、言った。
「『修理は、遅くても待つ』と」
◇
坂本へ戻る舟の上で、俺は数えていた。
転生して、四年半。
――丹波、服属三十八。統合の物差しを三つ以上満たす家、二十六。
――煕子、生きている。四年半、生きている。
――役目書、二百三項目。荷の覚、毎月配布。
――中将様、独自判断二十二から四十五へ。父からの自立、十五から三十へ。
そして、七つの形を数えた。
――説明されぬまま、動かされる。半分、崩れた。丹波では崩れた。織田家では、まだだ。
――疲れを、言えない。崩れていない。
――約束が、記録されていない。半分、崩れた。丹波の書付は残るようになった。
――方針の変更を、当人が最後に知る。崩れていない。
――誰が何を決めてよいか、書いていない。崩れていない。
――主君と後継者が、同じ場所で無防備になる。崩れていない。
――諸将が、互いを知らない。崩れかけている。柴田様が、俺に頼みごとをした。
(――七つのうち、崩れたのが〇。半分が二つ。崩れかけが一つ)
板が、勝手に出た。
織田家 一人依存度 七十六%
(――十三、下がった)
四年半で、十三。
(――残り一年半で、あと何%下げられる)
俺は、湖を見た。
(――間に合わぬ)
四年半かけて、まだ七十六だ。あと一年半では、六十を切るのが精一杯だろう。
六十%の家は、上様が消えれば割れる。
(――足りぬ)
三度目だ。この言葉を思うのは。
舟が、坂本に近づいていた。
――――――――――
【あとがき】
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
一人依存度は、八十九から七十六まで下がりました。四年半で、十三。
七つの形は、まだ一つも完全には崩れていません。
次章、光秀は播磨へ行きます。この家にはもう一人、恐ろしく速い男がいるからです。




