第49話 父とは違う速度
十月。
信忠が坂本に来て、八月が過ぎた。
そして、安土から沙汰が来た。
――勘九郎、戻れ。
その報せが届いた夜、信忠は書院に来た。
いつもより、遅い時刻だった。
「日向守」
「は」
「戻ることになった」
「伺っております」
信忠は、座った。
そして、しばらく黙っていた。
やがて、言った。
「日向守。わしは、変わったか」
俺は、その問いを待っていた。
俺は、書付を出した。
三月に、信忠が最初に書いた案。村の田の境の裁き。
そして、九月に書いた案。丹波の国衆の書付の様式。
二つを並べた。
「ご自身で、お比べくださいませ」
信忠は、二つを読んだ。
長いこと、読んでいた。
そして、少し笑った。
「三月のものは、拙いな」
「さようでございましょうか」
「うむ。長い」
信忠は、続けた。
「そして、言い訳が多い」
俺は、頷いた。
「お気づきになりましたか」
「今、気づいた」
信忠は、紙を置いた。
「三月のわしは、『もし違うておれば』と何度も書いておる」
「はい」
「九月のものには、書いておらぬ」
俺は、頭を下げた。
「それが、変わられたところにございます」
◇
「日向守」
「は」
「だが、わしは、まだ父上のようにはできぬ」
俺は、顔を上げた。
信忠は、正直な顔をしていた。
「評定で、父上なら三分で決められる。わしは、半刻かかる」
「さようでございましょう」
「追いつけるか」
俺は、しばらく考えた。
そして、言った。
「追いつけませぬ」
信忠が、動きを止めた。
俺は、続けた。
「上様のお速さは、天のものにございます」
俺は、はっきり言った。
「あれは、学んで身につくものではございませぬ」
信忠は、しばらく黙っていた。
俺は、待った。
やがて、この男は言った。
「日向守。それは、慰めではないな」
「はい」
「正直に申しておるな」
「さようにございます」
信忠は、少し笑った。
「そなたは、時々、残酷だ」
俺は、頭を下げた。
「申し訳ございませぬ」
「いや」
信忠は、首を振った。
「有難い」
◇
俺は、そこから本題に入った。
「城介様。追いつけぬからと申して、劣っておるのではございませぬ」
「どういうことだ」
俺は、紙を出した。
そして、二本の線を引いた。
「上様は、ご自身で決められます。速うございます」
「うむ」
「城介様は、皆に話をさせてから決められます。遅うございます」
俺は、続けた。
「では、上様と城介様が、同じ数の判断をなさったとして」
俺は、線の先に、丸を描いた。
「どちらの家臣が、育ちましょうか」
信忠が、動きを止めた。
「上様が三分で決められると、家臣は考えませぬ」
「なぜだ」
「考えても、間に合わぬゆえにございます」
俺は言った。
「上様が決められた後で、家臣が『それがしは、こう考えました』と申しても、遅うございます」
「ああ」
信忠が、小さく声を漏らした。
「ゆえに、家臣は考えるのをやめまする」
俺は、続けた。
「上様のお言葉を待つようになりまする」
俺は、紙を指した。
「これが、今の織田家にございます」
◇
「されど、城介様が半刻かけられると」
「その半刻の間、家臣は考えねばなりませぬ」
「そうだな」
「考えた家臣は、育ちまする」
俺は、頭を下げた。
「城介様。二十年後を考えてくださいませ」
「二十年後」
「はい」
俺は、言った。
「上様のやり方で二十年経つと、天才が一人と、命を待つ家臣が万人残りまする」
「城介様のやり方で二十年経つと――」
俺は、言葉を切った。
「考える家臣が、万人残りまする」
信忠は、長いこと黙っていた。
やがて、言った。
「日向守」
「は」
「それは、父上を否定しておるか」
俺は、首を振った。
「しておりませぬ」
「なぜだ」
俺は、答えた。
「上様のお速さがなければ、織田家はここまで来ておりませぬ」
「二十年前、織田は尾張一国にございました。今は、畿内を制しております」
「うむ」
「これは、上様のお速さゆえにございます」
俺は、頭を下げた。
「速さは、伸びるときに要るものにございます」
俺は、顔を上げた。
「されど――保つときには、別のものが要りまする」
◇
信忠は、その言葉を、しばらく反芻していた。
やがて、こう言った。
「日向守。ならば、わしの役目は」
俺は、答えた。
「保つことにございます」
信忠は、動きを止めた。
「地味だな」
俺は、思わず笑った。
「さようにございます」
「誰も、褒めぬ」
「褒めませぬ」
俺は、正直に言った。
「百年後の者が、褒めるかもしれませぬ」
「百年後か」
信忠は、少し笑った。
「そのときには、わしはおらぬ」
「おられませぬ」
俺は、頷いた。
「ゆえに、書きまする」
その夜、俺たちは遅くまで話した。
信忠が、これまで書いた冊子を持ってきた。
九年分の、父の言葉。
そして、この八月に書き足した「なぜそう申したか」の推し量り。
「日向守。これを、読んでくれぬか」
俺は、受け取った。
そして、読んだ。
――驚いた。
この八月で書き足された「推し量り」は、恐ろしく鋭かった。
――父上が『遅い』と仰せられたのは、遅いからではない。
――決めておらぬからだと思う。
――父上は、決めた上で遅いのは、たぶん咎めぬ。
俺は、その一行を三度読んだ。
「城介様」
「うむ」
「これは、当たっております」
信忠が、顔を上げた。
「そう思うか」
「はい」
俺は言った。
「上様は、丹波で三年待ってくださいました」
「そうだな」
「その間、一度だけ『遅し』と仰せられました」
俺は、続けた。
「あれは、それがしが何も決めておらぬ時期にございました」
◇
信忠は、冊子を閉じた。
そして、こう言った。
「日向守。ひとつ、頼みがある」
「なんなりと」
「この冊子を、写してくれぬか」
俺は、顔を上げた。
「写して、そなたが持っておってくれ」
俺は、動きを止めた。
「城介様。これは」
「わしが死んだら、消える」
信忠は、静かに言った。
「そなたが、いつも申しておることだ」
俺は、しばらく答えられなかった。
(――そうだ)
俺は、ずっとそう言ってきた。
だが、この男が自分でそれを言うとは、思っていなかった。
「承りました」
俺は、深く頭を下げた。
三日後。
信忠は、坂本を発った。
行列は、来たときと同じ三百だった。
だが、内容が違った。
――書付を積んだ荷が、五駄あった。
俺は、門でそれを見送った。
信忠は、馬上から振り返った。
「日向守」
「は」
「また来る」
俺は、平伏した。
「お待ちしております」
信忠は、少し笑った。
そして、こう言った。
「今度は、供を三十にする」
俺は、顔を上げた。
信忠は、既に前を向いていた。
◇
その夜。
俺は、書院で一人になった。
そして、あの板を思い出していた。
最初に見たときの数字。
――独自判断、二十二。
――父からの自立、十五。
今は、どうなっているだろう。
(――見ておけばよかった)
俺は、少し後悔した。
最後に会ったとき、板を確かめなかった。
いや。
俺は、筆を取った。
――数字を見なくても、分かることがある。
あの男は、自分の失敗を書いて父に出した。
弟に教えることを引き受けた。
自分の記録を写せと言った。
(――育っている)
俺は、そう思った。
そして、その夜、もうひとつのことに気づいた。
(――俺は、あの男が好きだ)
俺は、筆を止めた。
これは、計算ではない。
この二年半、俺は「信忠を育てねばならぬ」と考えてきた。本能寺を防ぐための、組織の駒として。
だが今、俺が思っているのは、そういうことではない。
(――あの男に、続いてほしい)
俺は、その感情に、少し戸惑った。
そして――
(――危ないな)
そう思った。
情が入れば、判断が鈍る。
だが。
俺は、筆を置いた。
(――情がなければ、そもそも人は動かぬ)




