第48話 信孝の誇り
九月。
今度は、三男が来た。
織田信孝。神戸家を継いでいる。
こちらは、信雄とは正反対だった。
信孝は、二十二歳。信雄と同い年だ。
背筋が伸びている。所作が硬い。言葉遣いが、異様に丁寧だった。
「明智日向守どのにおかれては、ご機嫌うるわしく」
俺は、少し戸惑った。
織田の子が、家臣にこんな挨拶をするのは、珍しい。
視界の隅で、板が浮かんだ。
織田信孝 二十二歳 神戸家当主
統率58 │ 戦術65 │ 制度理解35
◆特記事項
面目への敏感さ 92
序列意識 90
忍耐 25
俺は、その数字を見て、内心で身構えた。
(――厄介だ)
面目への敏感さ、九十二。
この数字が高い人間は、丁寧に扱わないと、必ず爆発する。
◇
最初の二日は、穏やかだった。
信孝は、兄と型どおりの挨拶を交わし、坂本の城を見て、丁寧に感想を述べた。
だが三日目の夕、俺は妙なことに気づいた。
――信孝が、食事の席で一度も口を開かない。
信忠と信雄がいたときは、三人で話していた。
だが今、信忠と信孝の二人だと、会話が途切れる。
俺は、その夜、信孝を庭に誘った。
「神戸様。湖をご覧になりますか」
「かたじけない」
二人で、縁側に座った。
しばらく、黙っていた。
俺は、待った。
これは、丹波で覚えたやり方だ。
半刻ほど経って、信孝が言った。
「日向守どの」
「は」
「ひとつ、伺うてもよろしいか」
「なんなりと」
信孝は、湖を見たまま言った。
「兄上と、信雄と、それがし。この三人の中で、いちばん先に生まれたのは、誰でございましょう」
俺は、動きを止めた。
(――何だ、この質問は)
答えは、明らかだ。
信忠が長男で、信雄が次男で、信孝が三男。
だが、この男は今、それを聞いた。
――ということは、答えが違うのだ。
「お聞かせいただけませぬか」
俺は、そう言った。
信孝は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「それがしにございます」
◇
俺は、しばらく言葉が出なかった。
「信雄より、二十日ばかり早う生まれたと聞いております」
信孝は、湖を見たまま言った。
「されど、生まれの届けが遅れました」
「届け、でございますか」
「母の身分が、低うございましたゆえ」
俺は、目を閉じた。
(――ああ)
この時代、生年の順と、家中での序列は、必ずしも一致しない。
母の身分。届け出の順。家中の政治。
そういうもので、決まる。
「ゆえに、それがしは三男でございます」
信孝は、そう言った。
「二十日早う生まれて、三男でございます」
俺は、この話をどう扱うべきか、必死に考えた。
(――慰めるのは、下策だ)
「そんなことは関係ない」と言えば、この男は「関係あるのだ」と思う。
「気にするな」と言えば、「お前は気にしなくていい立場だ」と思う。
俺は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「神戸様。それは、変わりませぬ」
信孝が、こちらを見た。
「変わらぬ、と申されるか」
「はい」
俺は言った。
「生まれの順は、変わりませぬ。届けも、今さら直せませぬ」
信孝の顔が、強張った。
「ならば、それがしは」
「変わらぬものは、変わりませぬ」
俺は、繰り返した。
「されど――変わるものも、ございます」
◇
信孝は、しばらく黙っていた。
やがて、掠れた声で言った。
「何が、変わりまする」
俺は、答えた。
「信孝様が何をなさったか、でございます」
「順は、生まれた時に決まります。されど、何をしたかは、これから決まりまする」
「そのようなこと」
信孝は、少し声を荒らげた。
「そのようなことは、皆が申す」
俺は、頷いた。
「さようでございましょう」
「それがしが欲しいのは、そういう慰めではない」
「慰めておりませぬ」
俺は、はっきり言った。
信孝が、動きを止めた。
「では、何を申しておる」
俺は、答えた。
「記録の話をしております」
◇
俺は、その場で信孝を書院に連れて行った。
そして、書付の山を見せた。
「神戸様。これが何か、お分かりになりますか」
「書付でございましょう」
「はい」
俺は、一枚を取った。
「これは、明智家の『功の書』にございます」
俺は、それを信孝に渡した。
信孝は、読んだ。
そして、眉を寄せた。
「日向守どの。これは、戦の功ではございませぬな」
「はい」
「『荷を遅らせなかった功』とございます」
「はい」
俺は、続けた。
「明智の家では、これも功として書きまする」
信孝は、しばらくその紙を見ていた。
そして、言った。
「なにゆえ」
「書かねば、消えるゆえにございます」
◇
俺は、続けた。
「神戸様。伊勢の神戸家は、いつからございますか」
信孝は、少し考えた。
「古うございます。鎌倉の頃より」
「その間、何代続かれましたか」
「十を超えましょう」
「では、三代前のご当主が、何をなされたかご存じですか」
信孝は、答えられなかった。
「戦の記録は、ございましょう」
俺は、続けた。
「されど、その方が国をどう治めたかは、たぶん残っておりませぬ」
俺は、書付を指した。
「治めた記録は、残らぬのでございます」
信孝は、その書付を見ていた。
「なぜ、残らぬ」
「誰も、書かぬゆえにございます」
俺は言った。
「戦は、書きまする。勝ったか負けたか、はっきりしておるゆえ」
「うむ」
「されど、治めたことは、はっきりいたしませぬ」
俺は、続けた。
「今年、村で一揆が起きなかった。これは、功でございましょうか」
信孝は、しばらく考えた。
そして、言った。
「起きぬのが当たり前でございましょう」
「さようでございます」
俺は、頷いた。
「当たり前のことは、書かれませぬ」
俺は、書付を掲げた。
「ゆえに、書くのでございます」
◇
信孝は、その夜、遅くまで書付を読んでいた。
俺は、付き合った。
やがて、この男が言った。
「日向守どの」
「は」
「これを、神戸家でもやりとうございます」
俺は、頭を下げた。
「お教えいたします」
信孝は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「ひとつ、条件がございます」
「なんでございましょう」
信孝は、真っ直ぐ俺を見た。
「兄上には、申されるな」
俺は、その言葉を聞いて、しばらく動けなかった。
(――ああ)
この男は、兄より先に、これを身につけたいのだ。
(――だが)
俺は、少し考えた。
そして、言った。
「神戸様。それは、お受けできませぬ」
信孝の顔が、強張った。
「なぜでございます」
「隠すのは、良うないゆえにございます」
俺は、言った。
「そして――隠せば、いつか露見いたします」
「露見して、何が悪い」
「そのとき、城介様は、こうお思いになります」
「『弟は、わしに隠して何かをしておった』と」
信孝が、動きを止めた。
「それは、神戸様が望まれることでございましょうか」
◇
長い沈黙があった。
やがて、信孝が言った。
「日向守どの」
「は」
「それがしは、兄上が嫌いではございませぬ」
俺は、頷いた。
「存じております」
「ただ」
信孝は、言葉を探した。
「兄上は、何もせずとも、家督を継がれました」
俺は、黙っていた。
「それがしは、何をしても、三男でございます」
俺は、答えなかった。
答えられなかった。
――事実だからだ。
やがて、俺は言った。
「神戸様。ひとつ、申し上げてよろしゅうございますか」
「申されよ」
俺は、頭を下げた。
「城介様は、何もせずに継がれたのではございませぬ」
信孝が、顔を上げた。
「城介様は、九年、上様のお言葉を書き取っておられます」
俺は、続けた。
「一言一句、日付と刻付きで」
信孝の目が、動いた。
「そして、この夏、ご自身の失敗を書いて、上様にお出しになりました」
「言い訳を、一言も書かずに」
◇
信孝は、しばらく動かなかった。
やがて、こう言った。
「知らなんだ」
「はい」
「兄上は、そのようなことを申されぬ」
「さようでございましょう」
俺は、頷いた。
「ゆえに、書くのでございます」
俺は、書付を掲げた。
「書けば、伝わりまする」
翌朝、信孝は信忠のところへ行った。
俺は、同席しなかった。
二人が何を話したかは、知らない。
だが夕方、信忠が書院に来て、こう言った。
「日向守」
「は」
「三七郎が、書付のやり方を教えてほしいと申しておる」
俺は、顔を上げた。
「そなたに聞け、と申したが」
信忠は、少し困った顔をした。
「『兄上から聞きたい』と申す」
俺は、思わず笑った。
「城介様。お教えなさいませ」
「わしは、まだ半分も分かっておらぬ」
「半分で、よろしゅうございます」
俺は言った。
「教えると、残りの半分が分かりまする」




