第47話 信雄の不満
八月。
坂本に、思わぬ客が来た。
織田信雄。
信長の次男であり、信忠の弟だ。伊勢の北畠家を継いでいる。
名目は、兄への挨拶だった。
だが、俺は門で出迎えながら、嫌な予感がしていた。
信雄は、二十二歳。
兄より一つ下だ。
顔立ちは、信忠に似ている。だが、印象がまるで違う。
――落ち着きがない。
視界の隅で、板が浮かんだ。
織田信雄 二十二歳 北畠家当主
統率50 │ 戦術58 │ 制度理解20
◆特記事項
焦り 88
独断力 82
自己評価の正確さ 12
俺は、その三行を見て、内心で唸った。
(――危ない)
焦り八十八。独断力八十二。
この二つが揃うと、必ず動く。
そして、自己評価の正確さ十二。
――自分が何をしているか、分かっていない。
◇
最初の三日は、何事もなかった。
信雄は、兄と食事をし、坂本の城を見物し、湖で舟に乗った。
だが四日目の夜、俺は書院で信雄と二人になった。
向こうから来た。
「日向守」
「これは、北畠様」
「その呼び方は、やめよ」
信雄は、座るなり言った。
「は」
「わしは、織田の子だ」
俺は、この男を見た。
(――そこか)
北畠家を継いだことを、この男は誇りに思っていない。
――織田の家から出されたと、思っている。
「日向守」
「は」
「兄上は、ここで何をしておる」
俺は、答えを選んだ。
「家の治め方を、学んでおられます」
「治め方」
信雄は、鼻で笑った。
「紙のことか」
「さようにございます」
「ふん」
信雄は、脇息にもたれた。
「兄上は、昔から書きものが好きであった」
俺は、黙っていた。
「わしは、嫌いだ」
信雄は、続けた。
「日向守。武士は、戦で立つものであろう」
「多くは、さようにございます」
「多くは、とは」
「それ以外もある、ということにございます」
信雄の眉が、動いた。
「たとえば」
俺は、少し考えた。
そして、言った。
「北畠様。伊勢の国は、何石にございましょうか」
信雄は、動きを止めた。
答えられなかった。
俺は、待った。
「五十万か、六十万か」
俺は、頭を下げた。
「それがしも、存じませぬ」
信雄が、少し安心した顔をした。
俺は、続けた。
「されど――それがしは、丹波の石高を存じております」
◇
沈黙が、落ちた。
信雄の顔が、赤くなった。
「日向守。わしを愚弄しておるか」
「滅相もございませぬ」
俺は、平伏した。
「ならば、なぜそのようなことを申す」
俺は、顔を上げた。
そして、正直に言った。
「北畠様に、伊勢を治めていただきたいゆえにございます」
信雄は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「治めておる」
「さようにございましょう」
「だが、誰も見ておらぬ」
俺は、動きを止めた。
(――出た)
この男の本音だ。
「兄上は、家督を継いだ」
信雄は、続けた。
「三男の三七郎は、神戸を継いだ。だが、あれはまだ若い」
信雄は、拳を握った。
「わしは、北畠を継いだ。伊勢を任された。それは有難いことだ」
俺は、黙って聞いていた。
「だが、父上は、一度も伊勢に来ておられぬ」
◇
俺は、その言葉を、腹の底で受けた。
(――これは)
これは、危険な兆候だ。
前世で、俺は何度も見た。
地方の子会社に出された若手役員。成果を出しても、本社は見に来ない。
そういう人間が、何をするか。
――本社が驚くようなことを、やる。
良い意味でも、悪い意味でも。
「北畠様」
「うむ」
「伊勢で、何をなさっておられますか」
信雄は、少し身を乗り出した。
そして、話し始めた。
止まらなくなった。
城の普請。港の整備。伊勢の国衆の掌握。それから――
「伊賀のことだ」
俺は、動きを止めた。
(――来た)
◇
伊賀。
伊勢の隣にある、山がちの国だ。
この国には、大名がいない。
国衆が、寄り合いで治めている。
そして――織田家に、服属していない。
「日向守。あれは、目障りだ」
信雄は、言った。
「伊勢の隣に、従わぬ国がある。これは、恥だ」
俺は、慎重に言葉を選んだ。
「上様は、なんと仰せでございますか」
信雄の動きが、止まった。
そして、少し目を逸らした。
「父上は、まだ何も」
「伺っておられませぬか」
「伺うほどのことではない」
俺は、平伏したくなった。
(――やる気だ)
この男は、伊賀を攻める気だ。
――独断で。
◇
俺は、この日、必死に考えた。
止めねばならない。
俺は知っている。
史実では、信雄は伊賀に攻め込み、大敗する。しかも、重臣が討ち死にする。
そして信長から、激烈な叱責を受ける。
(――だが)
どう止めるか。
「やめろ」と言えば、この男は反発する。
「上様に伺え」と言えば、「伺うほどのことではない」と返される。
俺は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「北畠様。ひとつ、お願いがございます」
「なんだ」
「伊賀の絵図を、お見せいただけませぬか」
信雄が、目を瞬いた。
「絵図」
「はい」
「なぜだ」
俺は、答えた。
「丹波と、似ておるゆえにございます」
◇
これは、方便ではなかった。
伊賀と丹波は、確かに似ている。
山が多い。国衆が多い。大名の支配が及んでいない。
そして――外から攻めると、必ず苦戦する。
「北畠様。丹波は、それがしが三年かかっております」
「三年か」
「はい」
「長いな」
「長うございます」
俺は、頷いた。
「そして、去年、一度大敗しております」
信雄が、少し身を乗り出した。
「負けたのか」
「はい」
俺は、正直に言った。
「なぜ負けた」
「山を、甘く見たゆえにございます」
俺は、続けた。
「山の国は、道が少のうございます。道が少なければ、大軍は伸びまする」
「伸びる」
「一列になりまする」
俺は、紙に線を引いた。
「一列になった軍は、頭と尻が離れまする。そこを、横から突かれまする」
信雄は、その線を見ていた。
「伊賀も、そうか」
「おそらくは」
俺は言った。
「そして、伊賀には、それを心得た者が多いと聞いております」
◇
信雄は、しばらく絵図を見ていた。
俺は、押さなかった。
ここで「やめろ」と言えば、全部台無しになる。
やがて、信雄が言った。
「日向守」
「は」
「そなたは、丹波をどう攻めた」
俺は、答えた。
「攻めておりませぬ」
信雄が、顔を上げた。
「攻めておらぬ、とは」
「道を直しました」
「井戸を掘りました。降った村の損を書き留めました」
信雄は、まったく理解していない顔をした。
「それで、国が取れるのか」
「取れまする」
俺は言った。
「そして――それがいちばん安うございます」
その夜、信雄は帰らなかった。
書院に居座って、俺に丹波の話をさせ続けた。
俺は、全部話した。
五つの物差し。担当割り。書付。道普請。乱取り禁止。
そして――失敗も。
波多野秀治のこと。文を出したこと。三人が斬られたこと。
信雄は、黙って聞いていた。
やがて、こう言った。
「日向守」
「は」
「そなたは、なぜ失敗を話す」
俺は、答えた。
「そのほうが、役に立つゆえにございます」
「役に立つ、とは」
「うまくいった話は、真似られませぬ」
俺は言った。
「事情が違うゆえにございます」
「うむ」
「されど、しくじりは、真似られまする」
俺は、続けた。
「同じ穴に落ちぬよう、避けられまする」
◇
信雄は、五日後に帰った。
帰る前、俺にこう言った。
「日向守」
「は」
「伊賀のことは、しばらく置く」
俺は、平伏した。
「ただし」
信雄は、続けた。
「伊賀の絵図を、作る」
俺は、顔を上げた。
「道と、村と、国衆の名を、全部だ」
信雄は、少し照れくさそうに言った。
「そなたの真似だ」
俺は、深く頭を下げた。
「お見事にございます」
信雄が去った後、信忠が言った。
「日向守。弟は、何を申しておった」
俺は、少し迷った。
そして、言った。
「伊賀を攻めたいと」
信忠の顔が、強張った。
「父上には」
「伺っておられませぬ」
信忠は、しばらく黙っていた。
やがて、言った。
「止めたか」
「止めておりませぬ」
俺は、正直に言った。
「絵図を作れと、申し上げました」
信忠は、俺を見た。
そして、少し笑った。
「時を稼いだか」
「さようにございます」
俺は、頭を下げた。
「一年は、稼げるかと」
信忠は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「日向守」
「は」
「弟は、なぜ焦る」
俺は、答えを選んだ。
そして、言った。
「誰も、見ておらぬゆえにございます」
信忠が、動きを止めた。
「見られておらぬ者は、大きなことをして、見せようといたします」
俺は、続けた。
「そして、大きなことは、たいてい失敗いたします」
信忠は、長いこと黙っていた。
やがて、小さな声で言った。
「わしも、同じか」
俺は、顔を上げた。
この男は、いま、自分のことを言った。
「城介様」
「うむ」
「違います」
俺は、はっきり言った。
「なぜだ」
「城介様は、失敗を書いて、上様にお出しになりました」
俺は、頭を下げた。
「見られておらぬと嘆く者は、失敗を隠しまする」
◇
その夜、俺は書付に、少し危ういことを書いた。
――上様は、三人の子を、それぞれ違う場所に置いておられる。
――中将様は、家督の座。信雄様は、伊勢の北畠。信孝様は、伊勢の神戸。
――これは、分け与えたのではないかもしれぬ。
筆を止めた。
(――試しておられるのではないか)
前の世で、俺は似た話を読んだことがある。大きな会社が、次の社長を決めるときに、候補を三人選んで、それぞれ違う事業を任せる。一人には立て直しの難しい古い工場。一人には伸びている新しい商売。一人には海の向こう。
同じ課題を三人に与えても、比べられない。違う課題を与えて、そこでの振る舞いを見る。そのために、事業を選ぶ。
そして最後に、勝った一人が社長になり、負けた二人は会社を去る。
(――去る)
その二文字で、背筋が冷えた。
会社なら、去るで済む。他の会社の社長になる者もいる。
だが、この時代の「去る」は、そういう意味ではない。
俺は、書付にもう一行足した。
――候補が三人おって、席が一つしかない場合。負けた二人を、どこに置くか。
――これを決めておらぬ家は、必ず割れる。
書きながら、思った。
(――上様は、決めておられるだろうか)
たぶん、決めていない。この人は、勝った者を使う。負けた者のことは、考えない。考える必要がなかったのだ。今までは。




