第46話 権限委譲の型
七月。
信忠が坂本に来て、五月が過ぎていた。
三月の約束は、とうに過ぎている。
だが、安土から呼び戻しの沙汰は来なかった。
俺は、その意味を測りかねていた。
その頃、俺はようやく、あの宿題に手をつけていた。
――誰が、どこまで決めてよいか。
正月の視察で、信長が「それを書け」と言った件だ。
半年、手が止まっていた。
難しいのだ。
「利三。この六月、俺はこれを七度書き直した」
「存じております」
「なぜ書けぬか、分かるか」
利三は、腕を組んだ。
「決めてよい事が、多すぎるゆえでは」
「それもある」
俺は言った。
「だが、もっと厄介なことがある」
俺は、書きかけの紙を指した。
「『どこまで』を、どう書けばよいか分からぬ」
◇
これは、前世でも同じだった。
権限規程を作るとき、必ずぶつかる壁がある。
金額で切ると、金額の小さい重大事が漏れる。
案件の種類で切ると、種類の数だけ条文が要る。
結局、細かく書けば書くほど、抜け穴が増える。
俺は、七度書いて、七度捨てた。
その日、俺は信忠に相談した。
――これは、自分でも意外な行動だった。
「城介様。お知恵を借りとうございます」
信忠は、驚いた顔をした。
「わしに、か」
「はい」
俺は、書きかけの紙を出した。
「上様より、『誰がどこまで決めてよいかを書け』と仰せつかっております」
「ああ、聞いておる」
「半年、書けませぬ」
俺は、正直に言った。
信忠は、紙を読んだ。
長いこと、読んでいた。
そして、こう言った。
「日向守。これは、決めてよいことを書いておるな」
「さようにございます」
「逆はどうだ」
俺は、顔を上げた。
「逆、と申されますと」
「決めてはならぬことを、書く」
◇
俺は、しばらく動けなかった。
(――ああ)
(――そうか)
俺は、紙を見た。
七度書いて、七度捨てた紙。
全部、「これは決めてよい」を列挙しようとしていた。
――列挙は、必ず漏れる。
だが、逆なら。
「城介様」
「うむ」
「なぜ、そうお考えになりました」
信忠は、少し考えて、言った。
「父上の命が、そうだからだ」
俺は、身を乗り出した。
「父上は、細かい指図をなさらぬ」
信忠は、続けた。
「『丹波を片付けよ』とだけ仰せられる。どう片付けるかは、仰せられぬ」
「さようにございます」
「だが、してはならぬことは、はっきり仰せられる」
信忠は、言った。
「『上洛の道を塞ぐな』『銭を勝手に鋳るな』『他家と勝手に盟を結ぶな』」
俺は、筆を取った。
手が、少し震えていた。
「城介様。それは、いくつございましょう」
信忠は、少し考えた。
「多くはない」
「十でございますか。二十でございますか」
「十ほどか」
俺は、紙に書いた。
――決めてよいことは、書かぬ。
――決めてはならぬことだけを、書く。
――それ以外は、全て決めてよい。
俺は、その三行を見て、震えた。
(――これだ)
◇
この発想の転換は、決定的だった。
「決めてよいこと」を列挙する方式は、必ず漏れる。漏れたものは、誰も決められない。
だから判断が上に集まる。
だが「決めてはならぬこと」だけを列挙すれば、逆になる。
書いていないことは、全部決めてよい。
――現場が、動ける。
「城介様。これは、大きゅうございます」
「そうか」
信忠は、あまりピンと来ていない顔をした。
俺は、説明した。
「今の織田家では、家臣が迷えば上様に伺いまする」
「うむ」
「なぜ迷うかと申せば、決めてよいかどうか分からぬゆえにございます」
「そうだな」
「されど、『これだけはするな』と定めておけば」
俺は、続けた。
「それ以外は、迷わず決められまする」
信忠が、目を見開いた。
「伺わずに、済むのか」
「はい」
俺は言った。
「そして――伺いが減れば、上様のお手が空きまする」
◇
俺たちは、三日かけて草案を作った。
題は、こうした。
――家中、決めてはならぬ事の覚。
条は、十二になった。
一、他家と、勝手に盟を結ばぬこと。
二、上様の御名にて、命を下さぬこと。
三、銭を、勝手に鋳らぬこと。
四、他の方面軍の領に、兵を入れぬこと。
五、朝廷、寺社と、勝手に約さぬこと。
六、所領を、勝手に他家へ渡さぬこと。
七、上様より預かりし城を、勝手に捨てぬこと。
八、一度定めし約を、独りで反故にせぬこと。
九、家中の者を、理由なく死罪にせぬこと。
十、上様への報せを、留めぬこと。
十一、右の事につき、迷いたるときは、必ず伺うこと。
十二、右に書かれておらぬ事は、すべて、その役の者が決めてよい。
最後の一条を書いたとき、信忠が言った。
「日向守。これは、恐ろしい条だな」
「さようにございます」
俺は、頷いた。
「皆が、勝手に決めるようになる」
「はい」
「良いのか」
俺は、答えた。
「良うございます」
「勝手に決めた結果、間違いも出まする。されど、間違いは直せまする」
「うむ」
「決められぬのは、直せませぬ」
◇
だが、問題があった。
この十二条を、誰が定めるかだ。
明智家の中でなら、俺が定められる。
だが、織田家全体でとなれば――
「上様しか、定められませぬ」
俺は、言った。
信忠は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「日向守。ひとつ、思うたことがある」
「は」
「これは、父上がお嫌いになる」
俺は、顔を上げた。
「なぜ、そうお思いになります」
「父上を、縛るゆえだ」
俺は、動きを止めた。
(――そこか)
この男は、そこを見ていた。
俺は、この十二条を「家臣を自由にするもの」として書いた。
だが、逆から見れば――
「上様が、家臣の判断を後から覆せなくなる」ということだ。
十二条目がある限り、家臣が決めたことを、信長は「勝手に決めるな」とは言えない。
――決めてよいと、書いてあるからだ。
「城介様。仰せの通りにございます」
俺は、認めた。
「これは、家臣を縛る決まりではございませぬ」
俺は、続けた。
「上様を縛る決まりにございます」
◇
その夜、俺は一人で考えていた。
信長は、これを受けるだろうか。
(――受けぬ)
俺は、そう思った。
あの人は、新しい仕組みが好きだ。
だが、自分を縛る仕組みだけは、たぶん嫌う。
(――どう出すか)
俺は、紙を睨んだ。
そして、あることを思いついた。
(――出さなければいい)
翌朝、俺は信忠に言った。
「城介様。この十二条、上様には出しませぬ」
信忠が、目を丸くした。
「出さぬのか」
「はい」
「ならば、何のために書いた」
俺は、答えた。
「明智の家で、使いまする」
信忠は、まだ理解していない顔だった。
「城介様。上様は、正月にこう仰せられました」
「『誰がどこまで決めてよいかを書け』と」
「そうだな」
「それがしは、書きまする。そして、明智の家で使いまする」
俺は、書付を掲げた。
「一年、使いまする」
信忠が、はっとした顔をした。
「一年使うて、うまくいったら」
「はい」
俺は、頷いた。
「そのときは、『こう使うております』と申し上げまする」
俺は、続けた。
「『これを織田家でも定めてくださいませ』とは、申しませぬ」
信忠は、しばらく黙っていた。
そして、少し笑った。
「日向守。そなたは、狡い」
「恐れ入ります」
「父上は、良いものを見れば、必ず奪われる」
「さようにございます」
俺は、頭を下げた。
「奪っていただくのが、いちばん早うございます」
◇
その日、俺は明智家中に十二条を配った。
最初の反応は、混乱だった。
「殿。これは……何を決めてよいのでござる」
「書いていないことは、全部だ」
「全部、でござるか」
「そうだ」
家臣たちは、しばらく固まっていた。
やがて、一人が恐る恐る言った。
「殿に、伺わずともよろしいので」
「よい」
俺は言った。
「ただし、決めたことは書け。そして、俺に見せろ」
「伺うのと、同じでは」
「違う」
俺は、はっきり言った。
「伺うのは、決める前だ。見せるのは、決めた後だ」
俺は、続けた。
「決めた後に俺が見て、間違っていれば、そのとき直す」
俺は、家中を見回した。
「だが、決めるのは、おぬしらだ」




