第45話 失敗報告演習
六月の終わり、信忠が失敗した。
しかも、大きな失敗だった。
事の起こりは、丹波の道普請の割り振りだった。
信忠が決めた通り、北の道を先にした。
だが、人足の割り振りで手違いが出た。
北の道に人を集めすぎて、坂本の普請が止まったのだ。
しかも、その坂本の普請は、湖の岸の護岸だった。
六月は、雨が多い。
――岸が、崩れた。
報せが来たのは、朝だった。
三沢が、飛び込んできた。
「殿ッ! 北の岸が!」
俺は、立ち上がった。
「被害は」
「舟着き場が、半ば」
「人は」
「怪我人が二人。死人はござらぬ」
俺は、息を吐いた。
「良い。すぐに人を出せ」
そこへ、信忠が来た。
顔が、真っ白だった。
「日向守」
「城介様」
「わしが、決めた」
信忠は、そう言った。
「北を先にせよと、わしが決めた」
◇
俺は、この日のことを、たぶん一生忘れないだろう。
信忠は、その場で平伏した。
俺の前に、だ。
織田家の当主が、家臣の前に頭を下げた。
「城介様ッ!」
利三が、悲鳴を上げた。
「日向守。すまぬ」
信忠は、額を畳につけたまま言った。
「わしの落ち度だ」
俺は、しばらく動けなかった。
そして、言った。
「城介様。お顔を上げてくださいませ」
「いや」
「上げてくださいませ」
俺は、少し強く言った。
「今は、それどころではございませぬ」
信忠が、顔を上げた。
「怪我人が二人おります。舟着き場が壊れております。雨は、まだ降っております」
俺は、立ち上がった。
「謝るのは、後でよろしゅうございます」
◇
三日かかった。
俺と信忠は、現場に出た。
護岸の修理。舟着き場の仮設。怪我人の手当て。
信忠は、よく働いた。
驚いたのは、この男が自分で土を運んだことだ。
「城介様。それは、人足の仕事にございます」
「知っておる」
信忠は、泥だらけになりながら言った。
「だが、わしが決めた」
二日目、俺は妙なことに気づいた。
人足の動きが、変わっている。
初日は、誰もこの人に近づかなかった。当たり前だ。織田家の当主が土を運んでいる。声をかけられる者はいない。
だが二日目の昼、年配の人足が、信忠の持ち方を直した。
「そのように担がれては、腰を痛めまする」
俺は、息を呑んだ。
信忠は、素直に持ち方を変えた。そして、こう言った。
「どこで覚えた」
「親に、でございます」
「親は、どこにおる」
「三年前に、死に申した」
信忠は、しばらく黙っていた。
それから、また土を運んだ。
その日の夕、人足たちが、この人に湯を持ってきた。誰も命じていない。
(――これは、書付では作れぬ)
俺は、そう思った。
役目書を二百三項目作った。誰が何をするかを定めた。だが、「一緒に泥をかぶった者を、人は覚えている」ということは、どこにも書けない。
書けないが、効く。
そして、たぶん、これが最も効く。
◇
三日目の夜。
仮の舟着き場ができて、俺たちは城に戻った。
信忠は、泥のまま座り込んでいた。
俺は、湯を持ってこさせた。
「城介様」
「うむ」
「今から、大事なことをいたします」
信忠が、顔を上げた。
「なんだ」
俺は、紙と筆を出した。
「何が起きたかを、書きまする」
俺たちは、その夜、四刻かけて書いた。
俺は、質問し続けた。
信忠が、答えた。
――いつ、誰が、何を決めたか。
――そのとき、何を知っていたか。
――何を知らなかったか。
――なぜ、知らなかったか。
最後の問いで、信忠が詰まった。
「なぜ、知らなかったか」
俺は、繰り返した。
「城介様は、坂本の護岸の普請があることを、ご存じでしたか」
「知らなんだ」
「なぜでございましょう」
「誰も、申さなんだ」
俺は、筆を止めた。
「では、なぜ誰も申さなかったのでしょうか」
信忠は、しばらく考えた。
そして、言った。
「わしが、聞かなんだゆえか」
「それも、ございます」
俺は、頷いた。
「されど、それだけでございましょうか」
信忠は、また考えた。
俺は、待った。
やがて、信忠が言った。
「日向守」
「は」
「評定に、坂本の普請の者がおらなんだ」
俺は、深く息を吐いた。
(――辿り着いた)
「さようにございます」
俺は、言った。
「あの評定は、丹波の道普請の評定にございました。ゆえに、丹波に関わる者だけを呼びました」
「呼んだのは、それがしにございます」
信忠が、顔を上げた。
「城介様は、その場にある話しか、聞くことができませぬ」
俺は、頭を下げた。
「その場に何を置くかを決めたのは、それがしにございます」
◇
俺は、書き終えた紙を、信忠に渡した。
全部で、七枚あった。
「城介様。これを、どうなさいますか」
信忠は、紙を見ていた。
「どう、とは」
「これは、城介様の失敗の記録にございます」
俺は言った。
「お捨てになることもできまする」
信忠は、しばらく紙を見ていた。
そして、言った。
「捨てぬ」
「は」
「父上に、見せる」
俺は、動きを止めた。
「城介様」
「うむ」
「上様に、でございますか」
「そうだ」
信忠は、紙を畳んだ。
「日向守。そなたは、丹波のしくじりを上様に出したそうだな」
俺は、顔を上げた。
「は」
「利三から聞いた」
信忠は、続けた。
「なぜ、出した」
俺は、答えた。
「真似る者が、同じ失敗をせぬようにでございます」
「それだけか」
俺は、少し考えた。
そして、正直に言った。
「もうひとつ、ございます」
「申せ」
「隠せば、いつか露見いたします」
俺は言った。
「露見したときのほうが、はるかに悪うございます」
信忠は、頷いた。
「そうだな」
そして、こう言った。
「だが、わしには、もうひとつある」
俺は、顔を上げた。
「父上は、わしが失敗せぬと思うておられる」
信忠は、紙を握った。
「いや、違うな。――失敗するかどうかを、考えたこともないと思う」
俺は、その言葉を聞いていた。
「父上にとって、わしは……」
信忠は、言葉を探した。
「まだ、判じておられぬ」
◇
俺は、その言葉に、心臓を掴まれた。
(――ああ)
この男は、父に評価されていないのではない。
――評価されていないことが、いちばん苦しいのだ。
叱られるほうが、まだいい。
叱られるということは、見られているということだ。
だが、この男は、見られてすらいない。
「わしに似ておらぬ」と、父は言った。
あれは、評価ではない。
――観察の放棄だ。
「城介様」
「うむ」
「お出しなさいませ」
俺は、言った。
「そして、こう書き添えてくださいませ」
俺は、筆を取った。
「『これは、わしが決めた。わしの落ち度である』と」
信忠は、俺を見た。
「それだけか」
「はい」
俺は、言った。
「言い訳を書いてはなりませぬ。理由も書いてはなりませぬ」
「なぜだ」
「上様は、言い訳をお嫌いになります」
俺は言った。
「そして――言い訳のない失敗の報告を、上様は、たぶん見たことがございませぬ」
◇
七月。
安土から、返事が来た。
俺は、その場に立ち会った。
信忠が、書状を開いた。
中には、たった一行だった。
――で、次はどうする。
信忠は、しばらくその一行を見ていた。
そして、顔を上げた。
目が、赤かった。
「日向守」
「は」
「父上は、これだけしか書いておられぬ」
「はい」
「叱られると思うておった」
俺は、頭を下げた。
「城介様」
「うむ」
「これは、叱っておられませぬ」
俺は、言った。
「続けよ、と仰せられております」
信忠は、書状を握った。
そして、しばらく動かなかった。
やがて、掠れた声で言った。
「日向守」
「は」
「次は、どうすればよい」
俺は、答えた。
「評定に、誰を呼ぶかを、城介様がお決めになってくださいませ」
◇
その夜、俺は書付に書いた。
――上様は、なにゆえ、この失敗を叱られなかったか。
答えは、たぶん一つだ。
(――叱る場面ではなかったゆえだ)
前の世で、俺は似た話を聞いた。ある大きな会社が、若い者に、潰れかけた部門をわざと預けた。誰がやっても損が出る場所だ。上の者は、こう言ったという。
――「この件で汚れていない者がよい」
その若い者は、後にその会社の頭になった。
(――泳ぐか、沈むか)
あれは、罰ではない。試しだ。難しい場所に置いて、どう振る舞うかを見る。うまくいけば育つ。うまくいかなくても、その者の底が見える。
上様は、道普請を信忠に任せた。
(――道普請は、うまくいっても手柄にならぬ)
城を落とせば褒められる。道を直しても、誰も褒めない。だから、成果ではなく振る舞いだけが見える。
(――そういう仕事を、わざと選んでおられる)
俺は、そこまで書いて、一つ思い出した。
同じ会社の話で、こういう言葉があったはずだ。
――「しくじってよい。ただし、同じしくじりを二度はさせぬ」
俺は、その一行を書き取った。そして、明日、信忠に渡すことに決めた。
一度目の失敗は、月謝だ。二度目の失敗は、月謝を払わなかった証だ。




