第42話 父を見る家臣たち
五日目、俺は信忠を村へ連れて行った。
訴えを聞くためだ。
供は、十人に絞った。
「城介様。三百は、置いてまいります」
「なぜだ」
「村の者が、話さぬゆえにございます」
信忠は、少し不服そうだった。
だが、俺は譲らなかった。
村に着くと、案の定、村人は震え上がった。
十人でも、多かったらしい。
俺は、五人を離れた場所に待たせた。
そして、信忠と、利三と、書き役の三人だけで、村の寺に入った。
訴えている二つの村の年寄りが、来た。
最初、彼らは何も話さなかった。
当然だ。織田家の当主が座っている。
俺は、いつも通りにやった。
まず、茶を出す。それから、相手が話し始めるまで待つ。
半刻、待った。
信忠が、途中で身じろぎした。
「日向守」
「お待ちくださいませ」
俺は、小声で言った。
さらに、四半刻。
やがて、片方の年寄りが、ぽつりと言った。
「田の境が、動いており申す」
◇
話は、一刻半かかった。
複雑だった。
二十年前の洪水で、川の流れが変わった。それで田の境が曖昧になった。
当時、両方の村が話し合って、新しい境を決めた。
だが、その取り決めを書いたものが、ない。
当時の当事者は、片方の村では既に全員死んでいる。もう片方には、一人だけ生きている。
その一人が、「境はこうだった」と言う。
もう片方は、「そんなことは聞いていない」と言う。
俺は、書き役に全部書かせた。
信忠も、書いていた。
城に戻る道すがら、信忠が言った。
「日向守」
「は」
「あれは、どちらが正しい」
「分かりませぬ」
俺は、正直に言った。
「分からぬのか」
「はい。書いたものがございませぬゆえ」
「ならば、どう裁く」
俺は、少し考えた。
「城介様。ひとつ、伺ってもよろしゅうございますか」
「申せ」
「あの二つの村は、この先も隣り合うております」
「そうだな」
「百年後も、隣り合うております」
俺は、続けた。
「ならば、どちらかを勝たせるのが、良い裁きでございましょうか」
信忠は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「負けたほうが、恨む」
「はい」
「恨めば、また争う」
「さようにございます」
信忠は、馬の上で考えていた。
やがて、言った。
「両方が、少しずつ損をする裁きはあるか」
俺は、この男を見た。
(――出た)
「ございます」
俺は言った。
「そして、それがいちばん難しゅうございます」
◇
城に戻ってから、俺は信忠に案を出させた。
これも、時間がかかった。
信忠は、何度も「日向守はどうする」と聞きたがった。
俺は、答えなかった。
三日目、信忠が案を持ってきた。
「日向守。これでどうか」
俺は、読んだ。
案は、こうだった。
――境を、両村の主張の中間に引く。
――ただし、それだけでは両方が不満を持つ。
――ゆえに、境の土地を「共の田」とする。両村が共同で耕し、収穫を折半する。
――そして、この取り決めを紙に書き、両村と城で三通持つ。
俺は、読み終えて、しばらく黙っていた。
「どうだ」
信忠が、少し不安そうに言った。
「城介様」
「うむ」
「これは、良い案にございます」
信忠の顔が、動いた。
「特に、三つ目が」
俺は、書付を指した。
「共の田にすれば、両村は共に働かねばなりませぬ。共に働けば、争いにくうなりまする」
俺は、続けた。
「そして四つ目。三通に分けて持つのは、まことに良い」
信忠は、少し赤くなった。
そして、言った。
「四つ目は、そなたの真似だ」
「は」
「そなたが、国衆に書付を配っておると聞いた」
俺は、頭を下げた。
「よく調べておられます」
「父上が、そなたのやり方を見てこいと仰せられた」
俺は、顔を上げた。
「上様が」
「うむ」
信忠は、書付を置いた。
「『日向守のやり方を、盗んでこい』と」
◇
その夜、俺は一人で考えていた。
(――盗んでこい、か)
信長は、信忠をただ預けたのではない。
目的を持たせている。
(――だが)
俺は、書付を見た。
問題は、そこではない。
信忠は今日、自分で案を出した。
良い案だった。しかも、俺のやり方を取り入れつつ、自分の工夫を加えていた。
――能力は、ある。
この男は、無能ではない。
では、なぜ「独自判断二十二」なのか。
俺は、答えを探した。
そして、思い当たった。
(――案は出せる。だが、決められない)
案を出すことと、決めることは、違う。
案は、間違っていても「案でしたから」で済む。
決めれば、責任が生じる。
この男は、決める練習をしたことがない。
◇
翌朝、俺は信忠に言った。
「城介様。あの案を、実行なさいますか」
信忠が、顔を上げた。
「実行、とは」
「村へ行って、両村の年寄りに、そう申し渡すのでございます」
信忠の動きが、止まった。
「わしがか」
「はい」
「日向守の領であろう」
「さようにございます」
「ならば、日向守が」
「城介様」
俺は、言葉を遮った。
「これは、城介様のお案にございます」
信忠は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「もし、うまくいかなんだら」
俺は、答えた。
「そのときは、それがしが責を負いまする」
信忠が、顔を上げた。
「なぜだ」
「それがしの領にございますゆえ」
「城介様に案を出させたのは、それがしにございます。それを用いると決めたのも、それがしにございます」
俺は、頭を下げた。
「ゆえに、責はそれがしにございます」
◇
信忠は、その日、村へ行った。
俺は、同行した。
だが、一言も喋らなかった。
信忠が、年寄りたちに案を説明した。
声が、少し震えていた。
最初、年寄りたちは戸惑っていた。
当然だ。この若い男が誰か、彼らはよく分かっていない。
だが、案の中身が説明されるにつれて、顔つきが変わった。
「共の田、と申されますか」
「うむ」
「収穫は、折半で」
「そうだ」
年寄りたちは、顔を見合わせた。
そして、片方が言った。
「お待ちくだされ。共に耕すとなれば、いつ誰が出るかを決めねば」
信忠が、動きを止めた。
俺は、口を出さなかった。
信忠は、しばらく考えた。
そして、言った。
「それは、両村で決めよ」
年寄りが、目を瞬いた。
「われらで、でございますか」
「うむ」
信忠は、続けた。
「わしが決めても、実際に耕すのはそなたらだ。都合はそなたらが知っておる」
俺は、後ろで息を呑んだ。
「ただし」
信忠は、言った。
「決めたことは、書け。そして、城に一通出せ」
◇
帰り道、俺は信忠に言った。
「城介様」
「うむ」
「見事にございました」
信忠は、馬の上で前を向いたまま言った。
「日向守」
「は」
「手が、震えておった」
俺は、少し笑った。
「存じております」
「見えておったか」
「はい」
信忠は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「父上なら、震えぬ」
俺は、その言葉を聞いた。
そして、答えた。
「上様は、震えぬのではございませぬ」
信忠が、こちらを見た。
「どういうことだ」
「上様は、震える前に決めておられます」
俺は言った。
「速すぎて、震える暇がないのでございます」
信忠は、しばらく考えていた。
やがて、言った。
「それは、良いことか」
俺は、答えを選んだ。
そして、正直に言った。
「速いのは、良いことにございます」
「うむ」
「されど、震えるのも、悪いことではございませぬ」
俺は、続けた。
「震えるのは、その決めが人に及ぶと分かっておられるゆえにございます」
信忠は、前を向いたまま、何も言わなかった。
だが、しばらくして、こう言った。
「日向守」
「は」
「今日のことは、書かぬ」
俺は、顔を上げた。
「覚えておるゆえ」




