第41話 信忠、坂本より来る
――坂本は回るようになった。役目書は二百三項目。
――そして、書類の上だけの当主が、坂本へ来る。
――十九。父の顔色を見て、何も決めない若者だ。
天正八年、二月。
織田信忠は、行列を組んで来た。
供は、三百を超えていた。
俺は、門の外でそれを迎えながら、内心で唸っていた。
(――多い)
父親は三十人で来た。
息子は三百人で来る。
これは、ただの好みの違いではない。
◇
信忠は、二十三歳になっていた。
背は高い。姿勢が良い。所作は、驚くほど整っている。
俺の前に立って、まず名乗った。
「――織田城介信忠である」
声も、良い。
だが。
視界の隅で、あの板が浮かんだ。
織田信忠 二十三歳 織田家当主
統率55 │ 戦術65 │ 政務実務60
学習適応88 │ 制度理解30
◆特記事項
記録 95
独自判断 22
父からの自立 15
俺は、その三行を見て、しばらく動けなかった。
独自判断、二十二。
父からの自立、十五。
(――名ばかり当主だ)
これは、俺が四年前に予想していた通りだった。
だが、実際に数字で見ると、重い。
◇
最初の三日、信忠は何もしなかった。
いや、正確には――見ていた。
俺が家臣と話すのを、後ろで見ている。
書付を検分するのを、横で見ている。
そして、絶えず何かを書いている。
三日目の夜、俺は聞いた。
「――城介様。何を書いておられます」
信忠は、矢立を止めた。
「――日向守の申したことだ」
「それがしの、でございますか」
「うむ」
信忠は、懐から冊子を出した。
俺は、それを見せてもらった。
そして、絶句した。
――全部、書いてある。
俺が家臣に言った言葉が、一言一句、日付と刻付きで書き取られていた。
「――城介様」
「なんだ」
「――これを、いつも」
「父上のお言葉も、こうしている」
信忠は、当然のように言った。
「十四の頃からだ」
俺は、その冊子を返した。
(――九年分)
この男は、九年間、父の言葉を全部書き取っている。
だが、返しながら、俺は妙な引っかかりを覚えていた。
(――何かが、足りぬ)
その夜、思い出して、もう一度見せてもらった。
二度目は、中身ではなく、形を見た。
――全部、同じ大きさの字で書いてある。
それだけのことだ。だが、それが引っかかりの正体だった。
父が三月かけて考えた命も、その日の思いつきも、同じ大きさで、同じ丁寧さで並んでいる。どれが重いのかが、書いた本人にも分からなくなっている。
(――写しているだけだ)
俺は、前世の新人研修を思い出した。会議の議事録を、一言一句書き起こしてくる若手がいた。二十ページになる。読む者はいない。俺は「要点だけでいい」と言った。若手は「どれが要点か分かりません」と答えた。
あれは、正しい返事だった。
要点が分かるのは、その会議の目的を知っている者だけだ。目的を教えずに要点だけ書けと言うのは、無理を言っている。
(――中将様も、同じか)
この人は、父の言葉のどれが重いかを、教わっていない。
だから、全部を同じ重さで持っている。
◇
その夜、俺は書院で考えていた。
利三が、茶を持ってきた。
「殿。城介様は、いかがでござる」
「――真面目だ」
「良きことでござろう」
「――そうだな」
俺は、少し黙った。
そして、言った。
「利三。おぬし、俺の言うことを全部書き取るか」
「――書き申さぬ」
「なぜだ」
利三は、当然のように答えた。
「――全部は要らぬゆえ」
俺は、顔を上げた。
「要るところと、要らぬところがござる」
利三は、続けた。
「それを分けるのが、それがしの役目にて」
俺は、しばらくこの男を見ていた。
(――そうだ)
これだ。
信忠に足りないのは、これだ。
◇
四日目、俺は信忠に、ある実験をした。
朝、書院に呼んだ。
そして、書付を三枚渡した。
「城介様。これを読んでいただきたい」
「うむ」
信忠は、丁寧に読んだ。
三枚とも、村からの訴えだった。
田の境。水の使い方。山の木の伐採。
どれも、坂本周辺でよくある争いだ。
読み終えた信忠は、顔を上げた。
「――読んだ」
「いかがでございましょう」
「――何が、だ」
俺は、少し驚いた。
「どう裁くべきかを、伺いたく」
信忠の顔に、初めて戸惑いが浮かんだ。
「――わしが、決めるのか」
「はい」
「――日向守の領のことであろう」
「さようにございます」
俺は言った。
「されど、もし城介様がこの領の主なら、いかがなさいますか」
信忠は、書付を見た。
長いこと、見ていた。
やがて、言った。
「――日向守は、どうする」
俺は、答えなかった。
「――日向守」
「――は」
「わしは、そなたの考えを聞いておる」
「――それがしは、城介様のお考えを伺っております」
沈黙が落ちた。
信忠の顔が、少し赤くなった。
◇
半刻、二人とも黙っていた。
俺は、待った。
これは、意地悪をしているのではない。
この男は、二十三年間、一度も「自分で決めろ」と言われたことがないのだ。
――いや。
言われたことは、あるかもしれない。
だが、決めた後に必ず、父親が上書きしてきた。
だから学習した。
自分で決めるより、父の考えを推測するほうが安全だと。
やがて、信忠が言った。
「――日向守」
「は」
「――わしは、これを裁いたことがない」
「はい」
「――どう決めればよいか、分からぬ」
俺は、その言葉を待っていた。
「――ありがとうございます」
俺が言うと、信忠は驚いた顔をした。
「――なぜ、礼を申す」
「分からぬと仰せになるのは、難しゅうございます」
俺は言った。
「多くの者は、分からぬまま、分かった顔をいたします」
◇
俺は、そこから始めた。
「城介様。この三つの訴え、決めるために足りぬものがございます」
「――足りぬもの」
「はい。何が足りぬか、お分かりになりますか」
信忠は、書付をもう一度読んだ。
そして、少し考えて、言った。
「――訴えた者の言い分しか、書いておらぬ」
俺は、思わず膝を打ちそうになった。
「――仰せの通りにございます」
「相手の言い分は」
「聞いておりませぬ」
「――なぜだ」
「まだ聞いておらぬからにございます」
俺は、書付を指した。
「これは、訴えが来た段階のものにございます」
信忠は、頷いた。
「――ならば、聞かねばならぬ」
「はい」
「――聞いてから、決める」
「さようにございます」
俺は、頭を下げた。
「――城介様は、いま、お決めになりました」
信忠が、顔を上げた。
「――何をだ」
「『聞いてから決める』とお決めになりました」
俺は言った。
「それが、最初の裁きにございます」
◇
信忠は、しばらく動かなかった。
そして、矢立を出した。
書こうとして――止まった。
「――日向守」
「は」
「――わしは今、これを書こうとした」
「はい」
「――書けば、覚える」
信忠は、矢立を握ったまま言った。
「だが、そなたは今、わしに考えさせた」
俺は、この男を見た。
「――書けば、考えぬようになるか」
俺は、しばらく答えを選んだ。
そして、言った。
「――半分は、そうかと存じます」
「半分か」
「はい」
俺は、続けた。
「書くのは、良いことにございます。書かねば忘れまする」
「うむ」
「されど――」
俺は、信忠の冊子を見た。
「書いた瞬間に安心してしまえば、そこで止まりまする」
信忠は、冊子を見た。
九年分の、父の言葉。
「――城介様。ひとつ、伺ってもよろしゅうございますか」
「申せ」
「――その冊子を、読み返されたことは」
信忠は、動きを止めた。
長い沈黙があった。
やがて、小さな声で言った。
「――ない」
◇
その夜、俺は紙に書いた。
――記録は、二つに分かれる。
――残すための記録と、使うための記録。
書きながら、俺は自分のことも考えていた。
俺も、書き続けてきた。
棚卸し。役目書。しくじりの覚。
――全部、読み返しているか。
(――読み返している)
俺は、そう答えた。
だが、正直に言えば、書いた量に比べれば、読み返す量は少ない。
書くことに、満足していないか。
俺は、筆を止めた。
(――信忠様のことを、言えた義理か)
三度目だ。
この癖は、たぶん一生続く。
◇
もう一つ、聞いておきたいことがあった。
「城介様。一つ、伺ってよろしゅうございますか。――前の当主が始められて、途中で止まったものは、この家にございますか」
信忠は、少し考えた。
「ある」
「――伺いとうございます」
「祖父の代に、家中の者を一つずつ見て回るという決まりがあったと聞く。年に一度、当主が全部の者と話す。父上は、やめられた」
「なにゆえ、でございましょうか」
「――時が足りぬゆえだ。尾張一国なら、できた。今は、できぬ」
俺は、書き取った。
(――違う)
時が足りないのは事実だ。だが、それは理由の半分にすぎない。
前の世で、俺は同じ話を何度も見た。前の社長が始めた三年がかりの取り組みが、社長が代わった途端に止まる。新しい社長は、業績が悪いことと、自分がそれを始めた者ではないことを理由に挙げる。どちらも正しい。正しくて、そして止まる。
止まった取り組みの中身が悪かったのではない。始めた者が消えたから、止まった。それだけだ。
「城介様。それは、惜しゅうございます」
「なぜだ」
「――やめた理由が、『時がない』であれば、時ができれば戻せまする。ですが、たいてい戻りませぬ」
「なぜだ」
「戻す者が、おらぬゆえにございます。始めた者はおらぬ。今の当主は、始めた者ではない。ゆえに、誰も戻さぬ」
信忠は、しばらく黙っていた。
「日向守。ならば、どうする」
「――始めた者の名を、書き残しておくことにございます」
俺は、続けた。
「そして、やめるときも、なにゆえやめたかを書き残すことにございます。そうすれば、十年後の誰かが、読んで判じられまする」
信忠は、その場で紙を取った。
そして、初めて、俺に何も聞かずに書いた。
――祖父の代の、家中巡りの儀。父上の代にて止む。理由、時が足りざるゆえ。
書き終えて、この人は言った。
「――これが、使うための記録か」
俺は、深く頭を下げた。




