第40話 信長の視察
買い占めの件は、七日で片付いた。
坂本の米屋三軒が、丹波への軍需を見越して米を抱えていた。
俺は、彼らを罰しなかった。
商人が値の上がるものを買うのは、商いだ。それを罪にすれば、坂本に商人が来なくなる。
代わりに、こうした。
――城の蔵から、米を市に出した。
三日間、相場より安く売った。
買い占めた三軒は、抱えた米を吐き出した。値は、元に戻った。
「――殿。あれは、見事でござった」
利三が、感心していた。
俺は、少し笑った。
「見事ではない。ただの引き算だ」
「引き算、でござるか」
「うむ」
俺は言った。
「買い占めは、物が足りぬと思うから起きる。足りていると分かれば、抱える意味がなくなる」
俺は、続けた。
「だから、足りていると見せた。それだけだ」
◇
だが、この一件には、後日談があった。
二月ほど経った、天正八年の正月。
安土から、使者が来た。
――上様が、坂本へお越しになる。
俺は、書付を落とした。
◇
「――利三。何日後だ」
「――五日後にござる」
俺は、立ち上がった。
そして、座った。
また立ち上がった。
「殿。落ち着かれませ」
「落ち着いている」
「――座ったり立ったりしておられます」
俺は、深く息を吸った。
「――何をしに来られる」
「使者は、『見に行く』とだけ」
俺は、頭を抱えた。
◇
五日間、家中は大騒ぎになった。
当然だ。天下人が来る。
通常なら、城中を磨き上げ、料理を整え、行列の道を清め、家中の者に作法を叩き込む。
だが、俺は途中で止めた。
「――やめだ」
利三が、目を剥いた。
「殿ッ! なにを仰せられます!」
「掃除は、いつも通りにしろ」
俺は言った。
「料理も、いつも通りだ」
「上様が来られるのでござるぞ!」
「――だからだ」
俺は、書院の窓から城を見た。
「あの人は、『見に行く』と言った」
「――は」
「飾った城を見に来るなら、そうは言わぬ」
俺は、続けた。
「見たいのは、ふだんの坂本だ」
利三は、しばらく黙っていた。
そして、絞り出すように言った。
「――殿。それが外れておりましたら」
「そのときは、叱られる」
俺は言った。
「だが、飾って見せて、後で嘘だとばれるほうが悪い」
◇
信長は、正月の八日に来た。
供は、驚くほど少なかった。
三十人ほど。ほとんど身一つだ。
俺は、門で出迎えた。
「日向守」
「――は」
「案内せよ」
それだけだった。
◇
信長は、まず蔵へ行った。
俺が案内する前に、自分で歩き出した。
蔵役が、慌てて帳面を出した。
信長は、それを受け取り、めくった。
早い。
そして、指が止まった。
「――これは」
「は」
「――日付が、毎日入っておるな」
「はい」
「毎日、数えておるのか」
蔵役が、震えながら答えた。
「――五日に一度、確かめており申す」
「毎日ではないのか」
「――は。五日に一度にて」
俺は、口を挟んだ。
「上様。毎日数えると、手が足りませぬ」
「――で、あるか」
「ゆえに、五日に一度、全部を数えます。ただし、出し入れは毎日書きます」
俺は、続けた。
「五日ごとに、書いた数と、実際の数を突き合わせます。合わねば、その五日のどこかで間違えたと分かりまする」
信長は、帳面を見ていた。
そして、こう言った。
「――合わなんだことは」
「――ございます」
「幾度」
「――昨年、十一度」
俺は、正直に言った。
信長は、俺を見た。
「多いな」
「はい」
「なぜ隠さぬ」
俺は、答えた。
「――合わぬことが分かるのが、この仕組みの働きにございます」
信長の眉が、上がった。
「合わぬと分かれば、直せます。合わぬことが分からぬのが、いちばん恐ろしゅうございます」
◇
信長は、次に厩へ行った。
馬役の男が、飛んできた。
信長は、馬を一頭ずつ見た。
そして、五頭目で止まった。
「――この馬は、幾つだ」
馬役が、即答した。
「――六つにございます」
「見て分かるか」
「――歯にて」
「見せよ」
馬役は、馬の口を開けた。
信長は、覗き込んだ。
そして、しばらく黙っていた。
「――この馬、右の後ろを庇っておるな」
俺は、驚いた。
馬役も、驚いた顔をした。
「――お、仰せの通りにございます。三日前より」
「治るか」
「――蹄の裏に、小石が入っており申した。取り申した。あと五日で治りまする」
信長は、馬から離れた。
そして、こう言った。
「――誰が気づいた」
「――それがしにございます」
「よい」
それだけ言って、信長は歩き出した。
俺は、馬役の顔を見た。
真っ赤になっていた。
◇
信長は、城の中を歩き回った。
厨房を見た。侍女たちが、震え上がった。
だが信長は、味噌の樽を覗いて、こう言った。
「――日付が書いてある」
「――は。仕込んだ日にございます」
答えたのは、たきだった。
俺の作った聞き取り役の女だ。
「なぜ書く」
「――古いものから使うためにございます」
たきは、震えながら答えた。
「書かねば、新しいものから使うてしまい、古いものが傷みまする」
信長は、樽をもう一度見た。
そして、言った。
「――誰が決めた」
「――お、奥方様にございます」
信長は、俺を見た。
俺は、平伏した。
「――妻にございます」
◇
最後に、信長は書院に入った。
そこには、役目書と、功の書と、荷の記録が積んである。
信長は、座った。
そして、片っ端から読み始めた。
俺は、黙って控えていた。
半刻。
一刻。
誰も、動かなかった。
やがて、信長は顔を上げた。
そして、こう言った。
「――日向守」
「は」
「これは、城か」
俺は、平伏したまま答えた。
「――城にございます」
「寺のようでもある」
「――は」
「役所のようでもある」
信長は、書付を置いた。
「――気色悪いほど、便利だな」
俺は、動けなかった。
褒められているのか、貶されているのか、分からなかった。
信長は、続けた。
「日向守。ひとつ聞く」
「――は」
「――おぬしがおらぬとき、この城は動くか」
俺は、顔を上げた。
この質問が、今日の本題だった。
「――動きまする」
「なぜ、そう言える」
「――去年、それがしは丹波におりました。半年ほど」
俺は、続けた。
「その間、坂本で決まらなかったことは、三件にございます」
「三件か」
「はい」
「――何だ」
「ひとつは、村の境の争い。ひとつは、家臣の役目替え。ひとつは、上様への献上の品」
信長は、しばらく黙っていた。
「――なぜ、その三つは決まらなんだ」
「――決めてよいと、書いていなかったゆえにございます」
俺は言った。
「役目書には、誰が何をするかを書いております。されど、誰がどこまで決めてよいかは、書いておりませなんだ」
俺は、平伏した。
「それがしの、落ち度にございます」
◇
長い沈黙があった。
やがて、信長は言った。
「日向守」
「は」
「――それを書け」
俺は、顔を上げた。
「誰が、どこまで決めてよいか。それを書いて、持ってこい」
信長は、立ち上がった。
そして、書付の山に手を置いた。
「――これは、明智の家のものだな」
「――はい」
「織田の家にはない」
俺は、息を呑んだ。
信長は、俺を見下ろしていた。
「日向守。おぬしは、わしが死んだら織田が止まると申したな」
「――申しました」
「――あれから、二年か」
「はい」
信長は、しばらく俺を見ていた。
そして、こう言った。
「――勘九郎に、これを見せよ」
俺は、動きを止めた。
勘九郎。
織田信忠。
この人の嫡男であり、既に織田家の当主であり――
そして、四年前から、俺が育てねばならないと決めていた男だ。
「――上様」
「岐阜から呼ぶ」
信長は、背を向けた。
「三月ばかり、坂本に置く」
俺は、平伏した。
額を畳につけたまま、心臓が跳ねていた。
(――来た)
信長は、部屋を出る直前、振り返った。
そして、こう言った。
「日向守」
「――は」
「――あれは、わしに似ておらぬ」
俺は、顔を上げられなかった。
その声に、感情がなかったからだ。
信長は、それだけ言って、出て行った。




