第39話 坂本城の小さな勝利
天正七年、十一月。
その日は、雨だった。
朝から降り続き、昼過ぎには湖が白く煙るほどになった。
俺は書院で書付を検分していた。
――そこへ、報せが来た。
「殿ッ! 湖が荒れており申す!」
三沢だった。
息を切らせている。
「――荷は」
「今朝、出ており申す!」
俺は、立ち上がった。
◇
この時期の琵琶湖は、荒れる。
北から風が吹き込むと、湖面が海のようになる。舟は転覆する。
朝出た荷舟は、丹波へ向かう分だ。米が二百俵。
「三沢。どこまで行った」
「――昼前に、堅田を過ぎたはず」
「戻せるか」
「――風が北からにござれば、戻るのは難しゅう」
俺は、地図を睨んだ。
(――逃げ場は)
湖の東岸に、いくつか入り江がある。
だが、そこまで舟が保つかどうか。
「――待て」
俺は、動きを止めた。
「三沢。おぬしの書付に、こういうのがなかったか」
三沢が、はっとした顔をした。
そして、懐から書付を出した。
この男は、自分の記録を常に持ち歩いている。
めくった。
そして、指した。
「――ござる!」
書付には、こう書いてあった。
――秋の終わり、北風が強き日、湖の東の入り江に舟を寄せること。堅田より北なら、真野の入り江。南なら、雄琴。
――去年十月、これにて舟一艘を助く。
俺は、その一行を見て、震えた。
(――去年の記録だ)
しかも、この男が「防いだこと」として書いた記録だ。
「三沢。誰の記録だ」
「――それがしにござる」
「去年、おぬしが助けたのか」
「――いえ」
三沢は、首を振った。
「去年、船頭が申したのを、書き留めただけにて」
俺は、この男の肩を掴んだ。
「――それでいい」
◇
早馬を出した。
湖岸の道を、真野へ向けて走らせた。
馬役の男が、自ら出た。
「殿。それがしが参る」
「――道は分かるか」
「馬の道なら、頭に入っており申す」
この男は、蔵の勘定から馬役に移った男だ。
一年で、坂本周辺の道を全部覚えていた。
馬が、雨の中を駆けていった。
◇
結果が分かったのは、翌日だった。
舟は、真野の入り江に避難していた。
早馬が着く前に、船頭が自分で判断して寄せていた。
――つまり、早馬は無駄だった。
利三が、少し苦笑した。
「殿。何もせずとも、済んでおり申した」
「そうだな」
俺は、書付を見ていた。
「――だが、二つ分かったことがある」
「なんでござる」
「ひとつ。船頭は、正しい判断ができる」
俺は言った。
「あの入り江の話は、もともと船頭が知っていたことだ。三沢は、それを書き留めただけだ」
俺は、続けた。
「現場は、知っている。俺たちが知らぬだけだ」
利三が、うむ、と唸った。
「ふたつ目は」
俺は、書付を掲げた。
「――俺たちが、それを知っていた」
利三が、顔を上げた。
「去年までなら、荷が出た後、湖が荒れたら、こちらは何もできなかった。ただ祈るだけだ」
俺は言った。
「今年は、書付を見て、どこへ寄せればよいか分かった。分かったから、動けた」
俺は、三沢を見た。
「――動いた結果は、無駄だった。だが、動けたことは無駄ではない」
◇
この一件は、家中で妙な形で語られた。
――「殿は、湖の荒れを当てられた」
俺は、その噂を聞いて、頭を抱えた。
「利三。違う」
「――違い申すな」
「俺は当てていない。書付を読んだだけだ」
「――家中の者は、そうは申しませぬ」
利三は、少し面白そうに言った。
「『殿は、去年の書付を覚えておられた』と」
俺は、額を押さえた。
そして、あることに気づいた。
「――利三。これは、まずい」
「なにゆえ」
「俺が当てたことにされると、俺がいなければ動けなくなる」
俺は言った。
「これは、書付が当てたのだ」
◇
俺は、その日のうちに、家中の全員を集めた。
そして、経緯を全部話した。
誰が書き留めたか。誰が思い出したか。誰が走ったか。そして、実は早馬は間に合わなかったこと。船頭が自分で判断したこと。
全部、話した。
「――つまり、こういうことだ」
俺は、最後に言った。
「この一件で、いちばんの功は船頭だ」
家中が、ざわついた。
「次が、去年それを書き留めた三沢」
俺は、続けた。
「俺は、書付を読んだだけだ」
そして、はっきり言った。
「――俺の功は、ない」
◇
この宣言は、家中に妙な効果を生んだ。
三日後、三沢が別の書付を持ってきた。
「殿。船頭たちに、聞いて参りました」
「――何をだ」
「湖のことにござる」
三沢は、書付を広げた。
そこには、俺の知らないことが、びっしり書いてあった。
――風の向きと、荒れる場所の関係。
――季節ごとの水の色と、荒れる兆し。
――どの入り江が、どの風のときに安全か。
――夜、舟を出してはならぬ日。
俺は、それを読んで、しばらく言葉が出なかった。
「三沢。これは、何人から聞いた」
「――七人にござる」
「七人が、これを知っていたのか」
「はい」
三沢は、少し興奮していた。
「殿。皆、話しとうござったようで」
俺は、顔を上げた。
「――どういうことだ」
「これまで、誰も聞かなんだと」
三沢は言った。
「船頭は、舟を出せと言われて出すだけ。何を知っておるかは、誰も尋ねなんだと」
◇
その夜、俺は書院で、その書付を読み返していた。
(――埋まっている)
この城には、まだ掘り出していない知識が、山ほど眠っている。
船頭が知っていること。馬飼いが知っていること。大工が知っていること。侍女が知っていること。
誰も、聞いていない。
なぜか。
――身分が違うからだ。
この時代、侍が船頭に教えを乞うことは、あまりない。
だが、船頭は湖のことを、侍の百倍知っている。
俺は、筆を取った。
――知識は、身分の上にはない。仕事の上にある。
書いてから、俺は少し考えた。
そして、書き足した。
――ゆえに、聞くには、身分を降りねばならぬ。
◇
十二月。
俺は、新しい試みを始めた。
――聞き取りの役、というものを置いた。
役目は、単純だ。
城中の者、村の者、町の者に、仕事のことを聞いて回る。そして、書き留める。
この役に、俺は意外な人選をした。
――字を習い始めた侍女の一人。
名を、たきという。四十がらみの女だ。
利三が、絶句した。
「殿ッ。それは、あまりに」
「なぜだ」
「――女子に、そのような役を」
「利三。この者は、坂本の町の女に顔が利く」
俺は言った。
「そして、侍に話さぬことを、この者になら話す者がいる」
利三は、まだ納得していない顔だった。
「殿。されど、字が」
「習っている」
俺は言った。
「まだ拙い。だが、書ける」
俺は、たきを呼んだ。
「たき。この役を、やってくれるか」
女は、震えていた。
「――わたくしのような者に」
「おぬしのような者にしか、できぬ」
俺は言った。
「侍が聞いても、町の女は話さぬ」
◇
三月後。
たきの書付は、拙い字で、しかし驚くほど具体的だった。
――町の油屋が、店をたたむと言っている。息子が病で、跡がない。
――西の村で、去年、井戸を掘ったが水が悪い。使っていない。
――町の子が、三人、寺に預けられた。親が食えなくなった。
俺は、三つ目で手を止めた。
「――利三」
「は」
「町で、食えぬ者が出ている」
利三が、書付を覗き込んだ。
「――米の値が上がっており申す」
「いつからだ」
「――秋からかと」
俺は、蔵役の書付を出させた。
大口の米の値は、たしかに上がっている。だが、それほど急ではない。
だが、たきの書付には、こうあった。
――町の小売りの米が、夏の倍になっている。
俺は、二つの書付を並べた。
(――違う)
大口の値と、小売りの値が、違う動きをしている。
これは、何かが起きている。
「利三。町の米屋を、調べさせろ」
「――は」
俺は、書付を握った。
「――買い占めだ」




