第38話 玉と侍女たち
天正七年、九月。
俺は、玉に呼ばれた。
娘に呼ばれるというのは、この時代の父としては、あまりない事態だ。
書院に来た玉は、書付を三枚持っていた。
「父上。お願いがございます」
「言え」
「――奥にも、役目書を作りとうございます」
俺は、筆を止めた。
◇
玉の説明は、簡潔だった。
城の奥――女たちの領分には、役目書がない。
俺が作った役目書は、表の仕事だけを扱っている。侍、足軽、蔵役、馬役、荷役。
奥のことは、母上が采配なさっている、で終わっている。
「父上。奥には、女が二十八人おります」
「――そんなにいるのか」
俺は、思わず言った。
玉が、少し呆れた顔をした。
「――ご存じなかったのですね」
俺は、返す言葉がなかった。
「二十八人が、何をしているか。父上はご存じですか」
「――炊事と、洗濯と」
「他には」
「……」
玉は、書付を広げた。
「――衣の繕い。糸紡ぎ。染め。薬草の管理。客の応対の支度。祝いと弔いの品。城の内の掃除と、その割り振り」
俺は、書き取った。
「それから――」
玉は、少し声を落とした。
「――城の外の女たちとの、繋がり」
俺は、顔を上げた。
「――どういう意味だ」
「近くの村の女、町の女、寺の尼。奥の者は、皆と行き来しております」
玉は、続けた。
「祝いの品を届け、弔いに行き、井戸端で話をします」
俺は、しばらく黙った。
(――情報網だ)
俺は、安土の台所方のことを思い出していた。
城の情報のハブは、組織図に載らない場所にある。
そして、俺は同じことを、自分の城で見落としていた。
「玉」
「はい」
「――奥の者が知っていて、表の者が知らぬことは、あるか」
玉は、即答した。
「たくさんございます」
◇
俺は、その場で玉に、いくつか例を挙げさせた。
――坂本の町で、米の値が先月から上がっている。
俺は、驚いた。
「なぜ知っている」
「――女たちが、買い物に行きますゆえ」
俺は、蔵役の書付を思い出した。
米の値の記録は、月に一度。だが、それは大口の取引の値だ。
町の小売りの値は、書いていない。
――近くの村で、若い者が三人、姿を消した。
「――逃げたのか」
「分かりませぬ。けれど、母親が泣いていたと」
これも、表には上がっていない情報だ。
――西の寺の僧が、最近、旅の者を泊めている。
俺は、この情報で背筋が冷えた。
「――誰を泊めている」
「存じませぬ。ただ、見慣れぬ者が出入りしていると」
◇
俺は、書付を置いた。
「玉」
「はい」
「――これを、誰から聞いた」
「侍女たちからです」
「侍女たちは、なぜおぬしに話す」
玉は、少し考えた。
「――わたくしが、聞くからでございます」
俺は、頷いた。
「他の者は、聞かぬか」
「聞きませぬ」
玉は、はっきり言った。
「奥のことは、奥で済ませるもの。表の者は、興味を持ちませぬ」
◇
俺は、その日のうちに決めた。
――奥にも、役目書を作る。
だが、これは表のものとは、まったく違う設計にした。
まず、玉に草案を書かせた。
俺は口を出さなかった。
「父上。お指図はございませぬか」
「ない」
「――なぜでございます」
「俺は、奥のことを知らぬ」
俺は言った。
「知らぬ者が作った決まりは、使えぬ」
玉は、しばらく俺を見ていた。
そして、少し笑った。
「――父上は、変わられました」
この一家は、全員が同じことを言う。
◇
十日後、玉が草案を持ってきた。
俺は、それを読んで、唸った。
構成が、俺の作ったものと違う。
俺の役目書は、「誰が何をするか」を軸にしている。
玉のものは、「何がいつ必要になるか」を軸にしていた。
――正月の支度。十一月から始める。誰と誰が関わる。
――客が来るときの支度。三日前から。誰が知らせを受け、誰が動く。
――病人が出たとき。誰が看る。誰が知らせる。
俺は、しばらく考えて、その違いの意味を理解した。
(――奥の仕事は、行事で動くのか)
表の仕事は、日常が続いている。だから「誰が何を」で整理できる。
奥の仕事は、出来事に合わせて全員が動く。だから「何のときに、誰が」で整理するほうが正しい。
「玉」
「はい」
「――これは、良い」
「まことですか」
「うむ。俺の作ったものより、良いところがある」
俺は、書付を指した。
「表の役目書も、これを真似る。行事のときの動きを、別に書く」
玉は、目を丸くした。
そして、少し赤くなった。
◇
十月。
奥の役目書ができた。
だが、問題が起きた。
侍女たちが、書けなかったのだ。
字が書けない者が、二十八人のうち十九人いた。
「玉。これは、どうする」
「――わたくしが、聞いて書きます」
「二十八人分をか」
「はい」
俺は、少し考えた。
そして、言った。
「――玉。それは、続かぬ」
玉が、顔を上げた。
「おぬしが嫁げば、誰が書く」
部屋の空気が、変わった。
俺は、その言葉を言ってから、少し後悔した。
だが、事実だ。
玉は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「――父上。では、教えます」
「――誰にだ」
「侍女たちに、字を」
俺は、目を瞬いた。
◇
これは、思った以上の騒ぎになった。
まず、家中の古参が反対した。
「女子に字を教えるなど」
「奥が、口を出すようになり申す」
俺は、この反対を予想していた。
そして――正面から論破するのは、下策だと知っていた。
俺は、代わりにこう言った。
「――では、聞く」
俺は、反対した古参に問うた。
「城が焼けたとき、蔵の中身を知っている者は誰だ」
「――蔵役にござる」
「蔵役が死んだら」
「……書付がござる」
「その書付は、どこにある」
「――蔵にござる」
俺は、黙って相手を見た。
古参が、青くなった。
「――焼け申す」
「そうだ」
俺は言った。
「書付は、火に弱い。人も、火に弱い」
俺は、続けた。
「だが、知っている者が多ければ、全部は消えぬ」
◇
字を教える取り組みは、十一月に始まった。
教えるのは、玉と、字の書ける侍女が数人。
最初、侍女たちは怯えていた。
当然だ。字を習うというのは、この時代の下働きの女にとって、まったく想定外のことだ。
だが、三月経つと、変化が出た。
――書けるようになった者が、書き始めたのだ。
最初は、名前だけ。
次に、日付。
そして、簡単な言葉。
俺は、その記録を見せてもらった。
――「きょう、みそをしこむ」
――「いどのみずが、すこしにごる」
――「おかねさん、せきがでる」
俺は、三つ目で手を止めた。
「玉。これは、いつ書かれた」
「――三日前でございます」
俺は、立ち上がった。
「――薬師を呼べ」
◇
結果として、それは労咳ではなかった。
ただの風邪だった。
だが、俺は薬師を呼び、決まり通り部屋を分け、看る者を四人に定めた。
三日で、治った。
「――大げさでござったな」
利三が、そう言った。
俺は、笑った。
「そうだな」
「殿。あの決まりは、労咳のためのものにござろう」
「そうだ」
「風邪で使うては、家中の者が疲れ申す」
――これは、正しい指摘だった。
制度の運用コストの問題だ。
あらゆる病に厳格な対応をすれば、人手が足りなくなる。
俺は、少し考えた。
「利三。決まりを分ける」
「――分ける、と」
「重い病と、軽い病でだ」
俺は、筆を取った。
「軽い病は、部屋を分けるだけでよい。看る者を定めるのは、三日続いたときだ」
俺は、書きながら言った。
「――決まりは、強さを分けねばならぬ」
◇
その夜。
玉が、書院に来た。
手に、あの白紙を持っていた。
二年前、俺が渡したものだ。
「父上」
「なんだ」
「――この紙のことでございます」
玉は、白紙を机に置いた。
まだ、何も書かれていなかった。
「婚姻の覚書は、五箇条ができました」
「うむ」
「けれど、この紙には、まだ何も書かれておりません」
玉は、俺を見た。
「――父上は、この紙に何をお書きになるおつもりでしたか」
俺は、しばらく考えた。
二年前、俺が何を考えていたか。
(――守る、と言った)
中身を見せる決まりを作る、と。
「――玉」
「はい」
「この紙は、俺が書くものではないかもしれぬ」
玉が、目を瞬いた。
「――と、申されますと」
俺は、白紙を見た。
「奥の役目書は、おぬしが作った」
「はい」
「侍女に字を教えたのも、おぬしだ」
俺は、続けた。
「――俺が書くより、おぬしが書いたほうが、良いものになる」
玉は、白紙を見た。
長いこと、見ていた。
そして、こう言った。
「父上」
「なんだ」
「――ずるうございます」
俺は、思わず笑った。
「そうか」
「はい。約束をなさったのは、父上です」
玉は、白紙を取り上げた。
「――ですから、こういたします」
玉は、紙を半分に折った。
そして、丁寧に裂いた。
「玉」
「半分は、父上がお書きください」
玉は、半分を俺に差し出した。
「残りの半分は、わたくしが書きます」
俺は、その半分を受け取った。
「いつ書く」
玉は、少し考えた。
そして、言った。
「――嫁ぐ日までに」




