第37話 煕子の家計簿
天正七年、八月。
丹波から報せが来た。
八上城が、落ちた。
◇
俺は、その報せを坂本で受け取った。
囲みは続けていた。だが力攻めはせず、出口も作っていた。城から出る者は通した。
結果として、城は長く保った。半年以上、囲みが続いた。
そして――内から崩れた。
城中の者が、波多野秀治を捕らえて、こちらに引き渡した。
俺は、報せの書付を、しばらく見ていた。
「――利三」
「は」
「――波多野どのは」
「安土へ、送られたと」
俺は、目を閉じた。
(――間に合わなかった)
二度、文を出した。返事は来なかった。
俺は、この人と一度も話をしないまま、この人を捕らえた。
◇
数日後、続報が来た。
波多野秀治は、安土で処刑された。
俺は、その報せを、書院で一人で読んだ。
利三が、何か言おうとして、やめた。
俺は、しばらく動かなかった。
やがて、筆を取った。
そして、書いた。
――波多野右衛門大夫秀治。丹波八上城主。天正七年八月、安土にて処刑。
――それがしは、この者と、ついに話をせなんだ。
――なぜ織田に従うのかを、説明せなんだ。
――丹波の行く末を、示さなんだ。
――この者が家中に何を言えばよいかを、渡さなんだ。
――離反は、この者の罪である。
――だが、離反させたのは、それがしである。
書き終えて、俺は筆を置いた。
「利三」
「は」
「――これを、『丹波、しくじりの覚』に加えよ」
利三は、書付を受け取った。
そして、読んだ。
読み終えて、こう言った。
「殿。これは、お一人でお持ちになるものでござるか」
俺は、顔を上げた。
「――どういう意味だ」
「殿は、いつも一人で書いておられる」
利三は、書付を置いた。
「しくじりの覚は、家中の誰にもお見せになっており申さぬ」
「――当たり前だ。これは俺の恥だ」
「――ならば、なにゆえ書かれます」
俺は、言葉に詰まった。
「忘れぬためだ」
「――忘れぬのは、殿だけでござるか」
俺は、この男を見た。
利三は、真っ直ぐ俺を見ていた。
「殿は、家中に『過ちを早く言え』と仰せられた」
「――言った」
「『隠すな』とも」
「……」
「殿は、隠しておられませぬか」
◇
俺は、その夜、眠れなかった。
庭に出ると、月が出ていた。
しばらくすると、後ろで足音がした。
煕子だった。
「――お風邪を召されます」
「うむ」
俺は、縁側に腰を下ろした。
煕子も、少し離れて座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて、俺は言った。
「――煕子。俺は、人を一人、死なせた」
煕子は、何も言わなかった。
「丹波の国衆だ。波多野という。俺が説明しなかったから、離反した。離反したから、滅んだ」
俺は、月を見た。
「――俺が殺したようなものだ」
しばらくして、煕子が言った。
「あなた様」
「うむ」
「――それは、まことでございますか」
俺は、顔を上げた。
「まこと、とは」
「あなた様が説明なさっておれば、その方は離反されなかったのでございますか」
俺は、答えようとした。
だが、答えられなかった。
(――分からない)
説明しても、離反したかもしれない。
波多野秀治には、波多野秀治の事情があった。丹波の名家としての誇りがあった。家中の圧力があった。織田への恐怖があった。
俺の説明ひとつで、全部が変わったとは限らない。
「――分からぬ」
俺は、正直に言った。
「変わったかもしれぬし、変わらなかったかもしれぬ」
「はい」
煕子は、静かに言った。
「――ならば、あなた様が殺したのではございませぬ」
俺は、この人を見た。
「あなた様がなさらなかったことと、その方が死んだことの間には、いくつも他のものがございます」
煕子は、続けた。
「その全部を、あなた様が背負われるのは――」
少し、間があった。
「――思い上がりでございます」
俺は、息を呑んだ。
(――思い上がり)
この人は、今、そう言った。
「わたくしが病んだとき」
煕子は、言った。
「あなた様は、決まりをお作りになりました」
「――うむ」
「あれで、わたくしは助かりました。それは、まことでございます」
煕子は、月を見た。
「けれど――もし助からなかったとしたら」
俺は、動きを止めた。
「あなた様は、ご自分のせいだと思われたでしょう」
俺は、答えられなかった。
その通りだったからだ。
「それは、違います」
煕子は、はっきり言った。
「病は、あなた様がお作りになったものではございませぬ」
◇
しばらく、沈黙があった。
やがて、煕子が言った。
「あなた様。ひとつ、お見せしたいものがございます」
◇
持ってきたのは、帳面だった。
二十年つけているという、家の入り用の帳面。
俺は、それを一度見たことがある。
だが今回、煕子が開いたのは、別の場所だった。
――一番後ろだ。
「――これは」
俺は、目を疑った。
そこには、数字が書いていなかった。
人の名前が、書いてあった。
名前と、日付と、短い言葉。
――三月五日。八助。子が生まれる。祝いの品を出す。
――四月十一日。おかね。母が死ぬ。三日、暇を出す。
――五月二日。長次。足を痛める。重い荷を持たせぬよう、蔵役へ話す。
俺は、ページをめくった。
何十枚も、続いていた。
「――煕子。これは」
「城の中の者のことでございます」
煕子は、静かに言った。
「わたくしは、外のことは存じませぬ。丹波のことも、上様のことも」
俺は、帳面を見ていた。
「けれど、この城の中におる者のことは、存じております」
俺は、ページをめくり続けた。
名前が、二百近くあった。
侍だけではない。下働きの者も、女中も、馬飼いも、大工も。
全員、書いてある。
「――二十年、これを」
「はい」
「――なにゆえ」
煕子は、少し首を傾げた。
「なにゆえ、と申されましても」
そして、当たり前のことのように言った。
「――知らねば、困りますでしょう」
◇
俺は、その帳面を持ったまま、動けなかった。
(――俺は、何をしていたんだ)
俺は、役目書を作った。誰が何をしているかを、二百三項目に整理した。
だが、そこに書いてあるのは、役目だけだ。
――八助に子が生まれたことは、書いていない。
――長次が足を痛めていることは、書いていない。
俺の作った表は、人を「役目」として捉えている。
この帳面は、人を「人」として捉えている。
「煕子」
「はい」
「――これを、写させてもらってよいか」
煕子が、驚いた顔をした。
「まあ。このようなものを」
「宝だ」
俺は言った。
そして、少し考えた。
「――いや、写すのは違うな」
「――は」
「これは、おぬしが二十年かけて作ったものだ。写して俺のものにするのは、違う」
俺は、帳面を返した。
「代わりに、頼みがある」
「なんでございましょう」
「――これを、続けてくれ」
俺は言った。
「そして、家中の者にも、同じことをする者を置きたい」
煕子は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「――あなた様。それは、決まりになさるおつもりですか」
「うむ」
「――やめておかれませ」
俺は、顔を上げた。
「なぜだ」
「決まりにすれば、皆、書くようになります」
煕子は、静かに言った。
「けれど――書くために、見るようになります」
俺は、動きを止めた。
「わたくしは、見たから、書いております」
煕子は、帳面を胸に抱いた。
「順が、逆になっては、いけませぬ」
◇
俺は、その夜、書院で長いこと考えていた。
(――順が、逆になる)
この二年、俺がやってきたことは、全部「見るために書く」ことだった。
棚卸し。役目書。荷の記録。功の書。
見えていないものを、書くことで見えるようにする。
それは、正しい。
だが、煕子の言うことも正しい。
――書くことが目的になれば、書くために見る。
書きやすいものだけを見るようになる。
書けないものは、見なくなる。
(――八助の子が生まれたことは、どの欄に書けばいい)
俺の作った様式には、その欄がない。
様式にない出来事は、記録されない。
記録されないものは、やがて、見えなくなる。
俺は、筆を取った。
そして、書いた。
――記す様式は、記す者の目を狭める。
その下に、書き足した。
――ゆえに、様式に入らぬものを書き留める場を、別に置く。
◇
翌日、俺は役目書に一つ、欄を足した。
――その他、書き留めておきたきこと。
利三が、それを見て首を傾げた。
「殿。これは、何を書きまするので」
「決まっていない」
「――は?」
「決まっていないものを書く欄だ」
利三が、心底わけが分からんという顔をした。
「――誰も、書き申さぬかと」
「かもしれぬ」
俺は言った。
「だが、欄があれば、いつか誰かが書く」
◇
三月後。
その欄に、最初に何かを書いたのは、三沢だった。
――丹波の道の途中に、水を汲める場所が三つある。荷駄の者が、そこで休んでいる。
――そのうち一つが、去年、涸れた。
――今は二つ。もう一つ涸れると、荷駄の者が休めなくなる。
俺は、それを読んで、しばらく動けなかった。
これは、どの様式にも入らない情報だ。
荷の遅れでもない。兵糧の数でもない。
だが――
(――これが涸れたら、荷は遅れる)
俺は、書付を握った。
「利三」
「は」
「――井戸を掘る」
「……どこにでござる」
「丹波の道の途中だ」




