第36話 家臣面談
『功の書』の効果は、俺の予想と違う形で出た。
褒美を喜ぶ者より、書かれたこと自体を喜ぶ者のほうが多かったのだ。
三沢は、自分の名が「守りの功」に載ったとき、その紙を持って帰り、家族に読ませたという。
俺は、その話を聞いて、しばらく黙った。
(――そうか)
この時代、武士の家族は、当主の手柄を戦の話でしか聞けない。
「荷を遅らせなかった」という手柄は、家に持って帰れない。
だが、紙に書いてあれば、持って帰れる。
◇
六月。
俺は、面談を再開した。
今度は、聞き方を変えた。
三つだけ聞くことにした。
一、去年、いちばん腹が立ったこと。
二、今の役目で、いちばん面倒なこと。
三、もし何でもできるなら、何をしたいか。
三つ目は、ほとんど答えが返ってこないだろうと思っていた。
――だが、返ってきた。
◇
「――それがしは、馬を扱いとうござる」
二十歳になったばかりの若い家臣が、そう言った。
「馬を、とは」
「はい。今は蔵の勘定をしており申すが、馬のほうが得手にござる」
「なぜ得手だと思う」
「――育ちが、馬飼いの村ゆえ」
俺は、書付を見た。
この男の役目は、蔵の帳面付けになっている。
「なぜ、蔵の役についた」
「――字が書けたゆえかと」
俺は、しばらく考えた。
(――ああ)
この時代、字が書ける武士は多くない。
だから、字が書ける者は、全員が書き役に回される。
得手不得手ではなく、識字という一点で配置が決まる。
「――馬について、何を知っている」
俺は、聞いてみた。
男は、少し戸惑ってから、話し始めた。
そして、止まらなくなった。
馬の年齢の見分け方。歯の状態。蹄の手入れ。飼葉の配合。夏と冬の違い。病の兆候。
俺は、途中から書き取り始めた。
半刻、喋り続けた。
「――も、申し訳ござらぬ!」
我に返った男が、真っ青になった。
「良い」
俺は言った。
「明智の家に、馬は何頭いる」
「――百十二頭にござる」
即答だった。
俺は、顔を上げた。
「なぜ知っている」
「――数えたことがござるゆえ」
男は、少し照れくさそうに言った。
「役目ではござらぬ。ただ、気になって」
◇
俺は、この男の配置を変えた。
蔵の勘定から、馬の管理へ。
新しい役目を作った。
――馬役。
役目書に、こう書いた。
――馬の数、齢、蹄、病を見る。馬を減らさぬこと。
三月後、明智の家の馬の病死が、半分以下になった。
俺は、その数字を見て唸った。
(――当たり前だ)
好きな人間が見れば、兆候に気づく。
好きでない人間が見れば、倒れてから気づく。
◇
だが、この配置転換には、副作用があった。
――他の者が、騒ぎ始めたのだ。
「殿。それがしも、役目を変えていただきとう」
「それがしは、鉄砲を」
「それがしは、船を」
利三が、頭を抱えた。
「殿ッ、これは収拾がつき申さぬ」
俺は、そうだろうな、と思っていた。
――だが、悪い兆候ではない。
これまで、家中の者は「役目は与えられるもの」だと思っていた。
今、初めて「望んでよいもの」だと知った。
問題は、全員の望みを叶えられないことだ。
◇
俺は、決まりを作った。
――役目替えは、年に一度、決まった時に願い出る。
――願い出る者は、なぜその役目を望むかと、今の役目を誰に渡すかを、共に書く。
二つ目が肝だった。
「利三。これを書けぬ者は、通さぬ」
「――なにゆえ」
「今の役目を放り出して次へ行かれては、家が困る」
俺は言った。
「それに――誰に渡すかを考えれば、自分の役目が何であるかを、もう一度考える」
利三が、うむ、と唸った。
「――考えた上で、やはり残ると申す者も出ましょうな」
「そうだ」
俺は言った。
「それでいい」
◇
この年、役目替えを願い出たのは、十一人。
実際に替わったのは、六人だった。
残り五人のうち、三人は「書いているうちに、今の役目のほうが良いと思った」と言って、自ら取り下げた。
二人は、俺が断った。
断るときは、必ず理由を書いて渡した。
――おぬしの望む役目は、今、他の者が就いている。その者が抜けるとき、まず声をかける。
――それまで、今の役目で二つのことを学べ。(具体的に二つ書いた)
断られた二人は、不満そうだった。
だが、辞めなかった。
(――理由が分かっていれば、人は待てる)
◇
七月の終わり、面談で妙なことが起きた。
相手は、明智秀満だった。
この男は、若く、真面目で、俺の作った決まりを誰よりも正確に守る。
「秀満。腹が立ったことを言え」
「――ござらぬ」
「面倒なことは」
「――ござらぬ」
「何でもできるなら、何をしたい」
「――殿のお指図のままに」
俺は、書付を置いた。
(――こいつは)
三つとも、答えていない。
だが、嘘をついているわけでもない。
この男は、本気で「不満はない」と思っている。
「秀満」
「は」
「――おぬし、俺の決まりを、どう思う」
「正しゅうございます」
即答だった。
「どこが正しい」
「――全て、でございます」
俺は、しばらくこの男を見た。
そして、言った。
「秀満。それは、危ない」
秀満が、目を瞬いた。
「――は」
「俺の決まりは、正しくない」
俺は言った。
「今のところ、うまくいっている。それだけだ」
「――されど、荷は遅れず、村は治まり」
「今はな」
俺は、書付を叩いた。
「秀満。決まりというものは、作ったときの事情に合わせて作る」
「……は」
「事情が変われば、合わなくなる」
俺は、続けた。
「そのとき、決まりを守り続ける者がいると、家が壊れる」
秀満は、まったく理解していない顔をした。
俺は、例を挙げた。
「たとえば、蔵の書付の様式だ。今は、月に一度出すことになっている」
「はい」
「これは、荷が月に一度動くと思って作った」
「――さようで」
「では、丹波が片付いて、荷が三月に一度になったら」
秀満が、少し考えた。
「――月に一度、同じことを書くことになりまする」
「そうだ」
俺は言った。
「そのとき、おぬしはどうする」
秀満は、即座に答えた。
「――決まり通り、書きまする」
俺は、額を押さえた。
◇
その夜、俺は利三に言った。
「利三。秀満のことだが」
「――あの者は、真面目にござる」
「真面目すぎる」
俺は言った。
「あれは、決まりを守ることが目的になっている」
利三が、うむ、と唸った。
「殿。それは、悪いことでござろうか」
いい質問だった。
俺は、少し考えた。
「――半分は、良いことだ」
俺は言った。
「決まりは、守られなければ意味がない。秀満のような者がいなければ、決まりは三月で死ぬ」
「――さようで」
「だが」
俺は、続けた。
「決まりを疑わぬ者ばかりになると、決まりは化石になる」
俺は、外を見た。
「そして、化石になった決まりは、必ず、誰かを殺す」
利三が、身を固くした。
「殿。それは……」
「たとえばだ」
俺は言った。
「『病人の部屋には四人しか入るな』という決まりがある」
「――ござる」
「では、火事が起きたら」
利三が、はっとした。
「――四人しか入れねば、病人は」
「そうだ」
俺は、頷いた。
「決まりを守れば、人が死ぬ」
◇
翌日、俺は家中の全員を集めた。
そして、こう言った。
「――決まりを破ってよい場合を、決める」
全員が、面食らった顔をした。
利三ですら、口を開けていた。
「一つ。人の命が、決まりより重い場合」
俺は、言った。
「そのときは、破れ。破って、後で言え。咎めぬ」
「二つ。決まり同士がぶつかった場合」
「そのときは、命に近いほうを取れ」
「三つ」
俺は、少し間を置いた。
「――決まりが、おかしいと思った場合」
ざわり、と広間が動いた。
「そのときは、破るな。まず、言え」
俺は言った。
「言って、聞き入れられなければ、三月待て。三月経っても直らなければ、もう一度言え」
俺は、家中を見回した。
「二度言って直らなければ、それは俺の落ち度だ」
俺は、書付を掲げた。
「――そのときは、俺を疑え」
◇
その日の夜。
秀満が、一人で書院に来た。
「殿」
「なんだ」
この男は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「――昼のお話、分かり申さぬ」
俺は、顔を上げた。
「どこがだ」
「殿を疑え、と仰せられました」
秀満は、真剣な顔をしていた。
「それがしは、殿を疑いとうござらぬ」
俺は、この男を見た。
そして――少しだけ、嬉しくなった。
この男は、分からないことを、分からないと言いに来た。
それは、大きな進歩だ。
「秀満」
「は」
「――疑えというのは、嫌えということではない」
「……」
「信じているからこそ、疑えるのだ」
秀満は、まだ分からない顔をしていた。
俺は、少し言い方を変えた。
「秀満。おぬし、俺が明日、間違った決まりを出したらどうする」
「――従いまする」
「間違っていると分かっていても、か」
「――殿の仰せゆえ」
俺は、頷いた。
「では聞く。俺が明日、丹波の村を全部焼けと言ったら」
秀満の顔が、初めて動いた。
「――それは」
「従うか」
秀満は、答えられなかった。
俺は、待った。
長い沈黙のあと、この男は言った。
「――従い、まする」
声が、震えていた。
「されど――」
秀満は、俯いた。
「――一度だけ、お止め申し上げます」
俺は、笑った。
「それでいい」




