第35話 利三の反発
それは、突然だった。
天正七年、四月。
軍議の後、家臣が下がった広間で、利三が残った。
俺は、書付を片付けながら言った。
「利三。どうした」
返事がなかった。
顔を上げると、この男は座ったまま、床を睨んでいた。
「――利三」
「殿」
低い声だった。
「――申し上げたきことがござる」
◇
利三が話し始めるまで、しばらくかかった。
この男が言葉を探すのを、俺は初めて見た。
「殿。近ごろの明智の家は、良うなり申した」
「うむ」
「荷は遅れず、書付は揃い、村の裁きも定まっており申す」
「――そうだな」
「――それがしは、それを、良いと思うており申す」
利三は、そこで一度、言葉を切った。
そして、言った。
「されど、家中の者が申しております」
俺は、書付を置いた。
「なんと」
「――『明智は、戦をせぬ家になった』と」
◇
俺は、しばらく黙っていた。
利三は、続けた。
「殿。ご存じでござろうが、この二年、明智は城を一つも落としており申さぬ」
「――知っている」
「その間、羽柴様は播磨で城を落とし、柴田様は北陸で加賀を押さえ、丹羽様は普請の功を挙げておられる」
利三の声が、少し強くなった。
「明智の家中の者は、皆、槍を持って明智に仕えた者にござる」
「うむ」
「その者どもが、今、何をしておりまするか」
俺は、答えなかった。
「――紙を書いており申す」
利三は、言った。
「朝から晩まで、書付にござる。荷の数を書き、村の争いを書き、なぜその仕事をするのかを書き」
「……」
「殿。それがしは、書き申す。書けと仰せなら、いくらでも書き申す」
利三の目が、俺を見た。
「されど――若い者は、違い申す」
◇
俺は、しばらく動けなかった。
(――見えていなかった)
いや。
見ようとしていなかった。
俺は、この二年、成果を数字で追ってきた。荷の遅れ。服属した国衆の数。書付の数。
全部、良くなっている。
だが、俺は一度も、こう聞かなかった。
――家中の者は、この仕事に誇りを持てているか。
「利三」
「は」
「――名を、挙げられるか」
「なんの名でござる」
「不満を持っている者の名だ」
利三が、目を伏せた。
「――申せませぬ」
「なぜだ」
「――それがしが申せば、その者が咎められまする」
俺は、頷いた。
「咎めぬ」
「殿はそう仰せでも、他の者はそう見ませぬ」
利三は、はっきり言った。
「『利三が殿に告げ口をした』となれば、その者は家中で立たなくなり申す」
――正しい。
俺は、この男の判断を認めた。
「では、名は聞かぬ」
俺は言った。
「代わりに、聞く。おぬし自身はどうだ」
利三が、顔を上げた。
「――それがし、でござるか」
「そうだ」
俺は、この男を見た。
「利三。おぬしは、今の明智の家に、満足しているか」
◇
利三は、長いこと黙っていた。
庭で、鳥が鳴いていた。
やがて、この男は言った。
「――満足しており申さぬ」
俺は、頷いた。
「言え」
「――殿」
利三の声が、少し掠れた。
「それがしは、去年、槍を一度も取っており申さぬ」
俺は、動きを止めた。
「四十半ばにござる。武辺で身を立ててきた者にござる」
利三は、続けた。
「それが、去年一年、何をしたか」
この男は、自分の手を見た。
「――書付を、三百二十七枚、書き申した」
俺は、その数字に、息を呑んだ。
数えている。
この男は、自分が何枚書いたかを、数えていた。
「利三」
「殿。それがしは、書付が無駄だと申しておるのではござらぬ」
利三は、慌てて言った。
「書付のおかげで、去年、兵糧が切れませなんだ。それは分かっており申す」
「……」
「されど」
利三は、そこで一度、息を吸った。
「――誰も、それを見ており申さぬ」
◇
俺は、その言葉を、腹の底で受けた。
(――ああ)
これは、三沢が言ったことと同じだ。
防いだ事故は、誰にも見えない。
起きなかった飢えは、記録に残らない。
俺は、三沢には「見えるようにする」と答えた。数字を並べて、良くなったかどうかを見せると。
だが、それは十分ではなかった。
数字が良くなっても、それを「手柄」として認める仕組みがなければ、意味がない。
この時代、手柄とは、首の数だ。城の数だ。
――紙の数ではない。
「利三」
「は」
「――すまなかった」
利三が、顔を上げた。
「殿ッ、そのような」
「聞け」
俺は言った。
「俺は、おぬしらに新しい仕事をさせた。だが、その仕事をどう報いるかを、決めていなかった」
俺は、続けた。
「仕事だけ変えて、報い方を変えなかった。それは、俺の落ち度だ」
利三は、何も言わなかった。
俺は、筆を取った。
「利三。今日から、明智の家の手柄を、書き直す」
◇
三日かけて、俺は考えた。
問題は、単純だ。
この時代の武家の評価は、戦功に一元化されている。
首を取る。城を落とす。一番槍。
これは、極めて分かりやすく、極めて強力な制度だ。
なぜか。
――誰の目にも見えるからだ。
首は、数えられる。城は、落ちたかどうかが一目で分かる。
だから、公平に見える。
(――これを壊すのは、危険だ)
俺は、そう判断した。
戦功制度を否定すれば、武士は仕える理由を失う。
なら、どうするか。
俺は、紙に書いた。
――戦功を壊さない。並べる。
◇
俺が作ったのは、こういうものだった。
――明智家、功の書。
これまで通り、戦功は記す。首の数も、一番槍も。
だが、そこに新しい欄を作った。
――守りの功。
中身は、こうだ。
一、兵糧を切らさなかった功。
二、荷を遅らせなかった功。
三、村の争いを、争いのうちに収めた功。
四、過ちを早く申し出た功。
五、人が死なずに済んだ功。
五つ目を書いたとき、俺は少し手が止まった。
――人が死なずに済んだ功。
これは、証明のしようがない。
だが、書いた。
「利三。これを、家中に配る」
利三が、書付を見た。
そして、しばらく黙っていた。
「――殿」
「なんだ」
「これは……褒美が出まするか」
俺は、頷いた。
「出す」
「――なにゆえの褒美と、申しまするか」
これは、重要な質問だった。
この時代、褒美には理由が要る。「なぜあいつが貰えて、俺は貰えないのか」が分からなければ、必ず不満が出る。
「――書付に、書く」
俺は言った。
「誰が、何をして、どう役に立ったか。それを書いて、家中に読ませる」
俺は、続けた。
「褒美は、その後だ」
利三が、目を上げた。
「――読ませるので」
「そうだ」
俺は言った。
「褒美より、読ませるほうが大事だ」
◇
最初の『功の書』は、五月に配った。
守りの功の筆頭に、俺はある名を書いた。
――斎藤利三。
利三が、それを見て、固まった。
「殿。これは」
「読め」
利三は、書付を読んだ。
そこには、こう書いてある。
――斎藤利三、去年一年で書付三百二十七枚を作る。この書付により、丹波の荷の遅れ十一度を未然に防ぐ。兵糧欠乏なし。
――右、明智家一番の功と認む。
利三は、その紙を持ったまま、動かなかった。
長いこと、動かなかった。
やがて、掠れた声で言った。
「――殿」
「なんだ」
「――なにゆえ、枚数まで」
「おぬしが数えていたからだ」
俺は言った。
「数えていたということは、覚えていてほしかったということだろう」
利三は、顔を伏せた。
肩が、少し動いていた。
俺は、見ないふりをした。
しばらくして、利三は言った。
「――殿」
「うむ」
「――で、いつやりますので」
俺は、笑った。
「何をだ」
「――次の決まりにござる」
利三は、顔を上げた。
目が、赤かった。
「殿が次に何かなさるとき、それがしが書き申す」
この男は、書付を握りしめた。
「――三百二十七枚でも、五百枚でも」




