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天才創業者・織田信長の下で潰れる前に、本能寺が起きない組織を作ります~MBAホルダー明智光秀の事業承継計画  作者: 東雲 諒杏
第四章 坂本城改革

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第33話 兵糧は嘘をつかない


 天正六年、十月。

 三沢の最初の書付が上がってきた。

 俺は、それを見て笑いそうになった。

 几帳面すぎるのだ。

 荷が坂本を出た日。舟に積んだ刻。着いた刻。陸に揚げた刻。荷駄が出た刻。着いた刻。

 全部、書いてある。

 そして最後に、こう書いてあった。

 ――遅れ、なし。

「三沢。これは、いつからいつまでだ」

「――九月の分にござる」

「何度、荷を出した」

「――十一度」

「十一度、全部書いたのか」

「はい」

 俺は、書付を見た。

 (――これは、宝だ)

 この時代、こういう数字は誰も取っていない。

 取っていないから、比べられない。比べられないから、良くなったかどうかも分からない。

「三沢。これを続けろ」

「――は」

「そして、来月から、もうひとつ書け」

「なんでございましょう」

「――遅れそうになったとき、何をして防いだか」

 三沢が、目を瞬いた。

「防いだこと、でございますか」

「そうだ」

 俺は言った。

「遅れなかったのは、たまたまではあるまい。おぬしが何かしたはずだ」

 三沢は、しばらく黙っていた。

 そして、少し早口で言った。

「――九月の三度目のとき、雨が続き申した。道が崩れる恐れがござったゆえ、荷を二日早く出しました」

「それだ」

 俺は、筆を叩いた。

「それを書け」

「――なにゆえ」

「おぬしが死んだら、その判断が消えるからだ」

 俺は言った。

「『雨が続いたら二日早く出す』――これは、おぬしの頭の中にしかない」

 三沢は、はっとした顔をした。

 俺は、続けた。

「書いておけば、次の者が同じ判断ができる」

 三沢は、しばらく黙っていた。

 そして、言いにくそうに聞いた。

「――殿。ひとつ、伺ってよろしゅうございますか」

「言え」

「――防いだことは、手柄になり申すか」

 俺は、筆を止めた。

「――ならぬと思うか」

「――なりませぬ」

 三沢は、はっきり言った。

「荷が遅れれば、それがしが叱られまする。遅れねば、何も起きませぬ。ゆえに、それがしの働きは、叱られぬことにしか現れませぬ」

 俺は、その言葉を、腹の底で受けた。

 (――そうだ)

 防いだ事故は、記録に残らない。起きなかった飢えは、誰にも見えない。

 前世でも同じだった。障害を未然に防いだ者は評価されず、障害を起こして徹夜で直した者が表彰される。俺は、その表彰式で拍手をしていた。

「三沢」

「は」

「――ゆえに、書かせておる」

「――は」

「書いておけば、数が並ぶ。数が並べば、見える。今は見えぬ。だが、一年経てば見える」

 三沢は、しばらく黙っていた。

「――殿。一年、待てと」

「待て」

 俺は、言った。

「――そして、一年後に、その数を家中に配る」


    ◇


 この「防いだこと」の記録は、三月後、思わぬ効果を生んだ。

 三沢の書付が、分厚くなっていったのだ。

 ――雨が続いたら、二日早く出す。

 ――秋の終わりは、湖が荒れやすい。舟を早く出す。

 ――北の道は、雪で塞がる前に、荷を三度分まとめて送る。

 ――丹波の陣で、月の初めに兵が増える。荷を厚くする。

 これは、要するに――

 (――マニュアルだ)

 俺は、その書付を見て唸った。

 誰も命じていない。俺は「防いだことを書け」としか言っていない。

 だが三沢は、書いているうちに自分で法則を見つけ、それを整理し始めた。

 人は、書き出すと、考え始める。


    ◇


 十一月。

 俺は、その書付を持って、丹波の陣へ行った。

 陣中で、兵糧奉行を集めた。

 そして、三沢の書付を見せた。

 最初、彼らは面白がらなかった。

「日向守様。これは、坂本の話にござろう」

「そうだ」

「丹波は、道が違い申す」

「その通りだ」

 俺は言った。

「だから、おぬしらも書け」

 露骨に嫌な顔をされた。

 当然だ。仕事が増えるだけに見える。

 俺は、少し考えて、言い方を変えた。

「――一つ、聞く」

「は」

「去年、兵糧が足りなくなったとき、誰が責められた」

 沈黙。

 兵糧奉行の一人が、低い声で言った。

「――それがしにござる」

「なぜだ」

「――兵糧奉行ゆえ」

「荷を遅らせたのは、おぬしか」

「……いえ」

「では、なぜおぬしが責められた」

 男は、答えられなかった。

 俺は、書付を掲げた。

「――遅れがどこで起きたか、誰にも分からなかったからだ」

 男の顔が、動いた。

「分からぬときは、いちばん近くにいる者が責められる」

 俺は言った。

「これを書けば、どこで遅れたかが分かる。おぬしの落ち度でないなら、おぬしの落ち度ではないと、紙が言う」

 男は、しばらく俺を見ていた。

 そして、言った。

「――書き申す」


    ◇


 この日から、俺は一つのことを確信した。

 ――記録は、下の者を守る。

 上の者は、記録がなくても困らない。都合の悪いことは忘れられるし、責任は下に流せる。

 記録がなくて困るのは、いつも下だ。

 「言った」「言わない」の争いで、負けるのは下だ。

 俺は、その夜、紙に書いた。

 ――記録は、権力を持たぬ者の武器である。


    ◇


 天正七年、正月。

 俺は坂本で年を越した。

 煕子の咳は、去年よりさらに減っていた。薬師の老人は、脈を取って、こう言った。

「日向守様。これは、おそらく」

「――おそらく」

「――抑え込んだかと」

 俺は、その言葉を聞いて、しばらく動けなかった。

 治ったわけではない。老人はそうは言わなかった。

 だが、抑え込んだ。

 俺は、深く頭を下げた。

「先生。礼を申します」

 老人は、慌てて手を振った。

「それがしの手柄ではござらぬ」

「――と、申されると」

「日向守様が、決まりをお作りになったゆえ」

 老人は、少し笑った。

「それがしは、薬を煎じただけにて」


    ◇


 その夜。

 俺は、久しぶりに障子を開けた。

 ――正確には、煕子が「もう、よろしゅうございましょう」と言ったからだ。

 薬師の許しも出ていた。

 俺は、二年ぶりに、妻と同じ部屋にいた。

「――痩せたな」

「あなた様もでございます」

 煕子は、笑った。

 その顔を見て、俺は妙な気持ちになった。

 (――この人は、生きている)

 俺の知っている歴史では、この人は二年前に死んでいるはずだった。

 だが、生きている。

 痩せてはいる。まだ弱くもある。だが、生きている。

「煕子」

「はい」

「――生きていてくれて、良かった」

 煕子は、少し驚いた顔をした。

 それから、目を伏せた。

「……あなた様は、近ごろ、そういうことを仰せになります」

「言わなかったか」

「――一度も」

 俺は、頭を掻いた。

「それは、悪かった」

「いいえ」

 煕子は、首を振った。

「――嬉しゅうございます」

 しばらく、沈黙があった。

 湖の音がしていた。

 やがて、煕子が言った。

「あなた様。ひとつ、お尋ねしてもよろしゅうございますか」

「うむ」

「あの決まりは、まだ続いておりますか」

「――どの決まりだ」

「桶の水を、日に三度替えるという」

 俺は、頷いた。

「続いている」

「――わたくしは、もう良いのでございましょう」

「良い」

 俺は言った。

「だが、続けている」

「なにゆえ」

 俺は、少し考えた。

「――次に誰かが病んだとき、すぐ動けるようにだ」

 煕子は、しばらく黙っていた。

 そして、こう言った。

「あなた様は、いつもそうでございますね」

「――そうか」

「はい。目の前のことより、次のことをお考えになる」

 煕子は、湯呑みを置いた。

「――それは、良いことでございます」

 少し、間があった。

「けれど」

 煕子は、俺を見た。

「――今、目の前におる者のことも、時々は」

 俺は、動きを止めた。

 妻は、微笑んでいた。

 責めてはいなかった。

 ただ、事実を言っていた。


    ◇


 その言葉が、腹に残った。

 翌日、俺は書院で書付を睨みながら、ずっとそのことを考えていた。

 (――今、目の前におる者)

 俺は、二年半、走ってきた。

 棚卸し。丹波。婚姻の覚書。役目書。

 どれも、未来のためだ。

 六年後の六月二日のためだ。

 (――だが)

 俺は、筆を置いた。

 六年後のために、今を犠牲にするなら――

 それは、信長様と同じではないか。

 あの人は、天下のために、家臣を燃やす。

 俺は、本能寺を防ぐために、何を燃やしている。


    ◇


 その前に、一つ片づけておかねばならぬ議論があった。

 兵糧を、どれだけ積むか。

 三沢が、書付を持ってきた。

「殿。丹波の蔵に、三月分積んでおりまする」

「多いか」

「多うござる。他家は、一月半ほどかと」

「なぜ、多い」

「切らせば、人が死にまするゆえ」

 俺は、頷いた。そして、別の紙を出した。

「三沢。三月分の米は、いくらだ」

 三沢は、算盤を弾いた。そして、青くなった。

「――これだけの銭が、蔵で寝ておりまする」

「そうだ」

 俺は言った。

「積めば、銭が死ぬ。積まねば、人が死ぬ」

「殿。どちらを取りまする」

 俺は、しばらく答えなかった。

 (――これは、答えのない問いだ)

 前の世で、俺はこの議論を何十回も見た。在庫は保険か、悪か。会議は必ず割れる。財務は減らせと言い、現場は積めと言う。そして、たいてい声の大きいほうが勝つ。

「三沢。答えは出ぬ。だが、決め方は作れる」

「決め方、でござるか」

「そうだ。――どういうときに積み、どういうときに減らすかを、先に書いておく」

 俺は、筆を取った。

 ――一、道が塞がる恐れがある間は、積む。冬、雨季、敵地の近く。

 ――二、道が確かな間は、減らす。ただし一月分を下回らぬ。

 ――三、右を判じるは、荷を通して見る役の者とする。

 三沢が、書付を覗き込んだ。そして、顔を上げた。

「殿。三つ目は、それがしにござるか」

「そうだ」

「――それがしが、決めるので」

「決めろ。そして、なぜそう決めたかを書け」

 三沢は、しばらく紙を見ていた。

「殿。もし、それがしが誤れば」

「兵が飢えるか、銭が死ぬ」

 俺は、はっきり言った。

「だが、誰かが決めねばならぬ。そして、決める者が毎回違えば、家中は混乱する」

 三沢は、深く頭を下げた。

 その頭に向かって、俺は付け足した。

「三沢。もう一つある。――誤ったら、書け」

「――誤りを、でござるか」

「そうだ。誤りを書いておけば、次の者が同じ誤りをせずに済む」


    ◇


 俺は、書付を閉じた。

「利三」

「は」

「――家中の者と、話をしたい」

 利三が、怪訝な顔をした。

「話、でござるか」

「一人ずつだ」

「――全員でござるか」

「全員だ」

 利三が、絶句した。

「殿。三十二人おりまするぞ」

「知っている」

 俺は、立ち上がった。

「――一人、四半刻」


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