第32話 明智家業務分掌表
翌日、利三は本当に四枚を三十二部書き上げた。
一晩でだ。
俺は、その束を見て絶句した。
「――利三。寝たか」
「寝ており申さぬ」
「なぜだ」
「殿が、明日配ると仰せられたゆえ」
俺は、額を押さえた。
(――これだ)
この男は、文句を言いながら、命じられたことを完璧に、しかも最速でやる。
だから俺は、この男に頼りすぎる。
そして、この男は倒れるまで言わない。
「利三」
「は」
「今夜は、寝ろ」
「――は?」
「命令だ」
利三は、心底わけが分からんという顔をした。
◇
三日後、修正が集まった。
思った以上に多かった。
――「これは、それがしの仕事ではござらぬ」が、十一件。
――「書いてある通りではござらぬ」が、二十三件。
――「これも書いてほしい」が、四十件近く。
俺は、その修正を全部拾って、書き直させた。
二度目の版は、六枚になった。
そして、その頃には、家中の空気が少し変わっていた。
「殿」
ある若い家臣が、書付を持ってきた。
「これを見て、気づいたことがござる」
「言え」
「――それがしの仕事の中に、『蔵の鍵を開ける』というのがござる」
「うむ」
「これは、朝と夕、二度でござる。されど、鍵を開けるのに、それがしがおらねばならぬ理由が、ござらぬ」
俺は、顔を上げた。
「――どういうことだ」
「鍵は、それがしの父の代から、それがしの家が預かっておりまする」
若い家臣は、少し赤くなった。
「されど、なにゆえそうなったかを、それがしは存じませぬ」
俺は、その書付を見た。
(――出た)
これが、俺の欲しかったものだ。
「――誰か、理由を知っている者はおるか」
俺は、家中に問うた。
三日待った。
誰も、知らなかった。
◇
結局、蔵の鍵の話は、こういうことだった。
十五年ほど前、明智家がまだ小さかった頃。
当時、蔵は一つしかなく、その隣にその家の屋敷があった。だから、その家が鍵を預かった。
――ただ、それだけだ。
今、蔵は五つある。屋敷の位置も変わっている。
だが鍵は、いまだにその家が預かっている。
そのために、朝夕、その男は蔵まで歩いてくる。
「――利三。これは、いくつあると思う」
「なんでござる」
「『昔はそうだった』というだけで続いている仕事だ」
利三は、書付を睨んだ。
そして、渋い顔をした。
「――数え切れぬかと」
俺は、頷いた。
前世でも、同じだった。
毎月作っている報告書。誰も読んでいない。だが誰も止めない。
「昔、役員が見たいと言ったから」という理由で、十年続いている。
その役員は、五年前に退職している。
◇
俺は、新しい決まりを作った。
――仕事には、理由を書く。
「殿。理由、でござるか」
「そうだ」
俺は、書付の様式を変えた。
項目ごとに、三つの欄を作った。
――何をするか。
――誰がするか。
――なぜするか。
少し考えて、四つ目を足した。
――この者が明日おらぬとき、代わりに誰がするか。三名を書くこと。
「殿。三名も、でござるか」
「三名だ」
「――一名では、いけませぬので」
「一名だと、その者も同じ日に倒れることがある」
俺は言った。
「それに、一名しか書けぬ役目は、そもそも危うい。三名書けと言われて書けぬなら、その役目は、家中の穴だ」
利三は、しばらく書付を睨んでいた。
「――殿。それがしの欄は、三名書けませなんだ」
「何名書けた」
「――〇にござる」
俺は、額を押さえた。
「利三。それは、まずい」
「まずうござる」
「――で、いつやりますので」
利三が、げんなりした顔で言った。
「それは、それがしの台詞にござる」
三つ目が、肝だ。
「利三。この『なぜ』が書けぬ仕事は、疑わしい」
「――やめるので」
「すぐにはやめぬ」
俺は言った。
「まず、『なぜ』を探す。探して見つからなければ、そのときやめる」
俺は、続けた。
「大事なのは、順だ。先にやめると、必ず何かが壊れる」
これは、前世の教訓だった。
無駄に見えるルールを廃止したら、実は重要な機能があった、という失敗を、俺は何度も見た。
――そのルールが存在する理由が、誰にも見えていなかっただけだ。
◇
二月かけて、俺たちは二百七十の項目に「なぜ」を書いていった。
結果は、こうだ。
――理由が明確なもの。百八十一。
――理由が見つかったが、既に消えているもの。四十三。
――理由がまったく分からないもの。四十六。
俺は、この数字を見て唸った。
三割が、理由不明か、理由消滅だ。
「利三。この八十九を、どうする」
「――やめまするか」
「一気にはやめぬ」
俺は言った。
「三月、止めてみる」
「――止める、と」
「そうだ。廃止ではない。止めるだけだ」
利三が、腑に落ちぬ顔をした。
「殿。ならば、先に調べてはいかがでござる。八十九の一つずつ、なにゆえそうなったかを、古い者に聞いて回れば」
「聞いて回るのに、幾日かかる」
利三は、少し考えた。
「――二月ほどかと」
「そして、聞いて回っても、たぶん半分は分からぬ」
「……さようで」
「利三。三つ、道がある」
俺は、指を三本立てた。
「一つ。調べる。確かだが、遅い。そして調べた頃には、調べる金と時が消えておる」
「二つ。えいやで全部やめる。速い。だが、外れれば家が止まる」
「三つ。小さく止めてみる。八十九のうち、まず十だけ止める。三月見て、何が起きるかを見る」
利三は、しばらく黙っていた。
「殿。それは、どれがいちばん良うござる」
「場合による」
俺は言った。
「調べる値打ちがあるのは、間違えたら取り返しがつかぬときだ。兵を出すか出さぬかは、調べる。だが、掃除を止めるかどうかは――」
「――止めてみればよい、と」
「そうだ」
俺は、書付を叩いた。
「利三。人は、調べることを『慎重』と呼ぶ。だが、調べておる間も、日は過ぎておる。慎重に見えて、いちばん高くつくことがある」
利三は、渋い顔をした。
「――で、いつやりますので」
「明日からだ」
「やはり」
俺は、紙に書いた。
「三月止めて、何も困らなければ、廃止する。困ったら、戻す」
利三が、なるほど、という顔をした。
「――やめて良いかどうかを、試すので」
「そうだ」
俺は言った。
「議論しても分からぬ。やってみれば分かる」
◇
この「三月の試し」は、面白い結果を生んだ。
八十九のうち、六十七は、止めても何も起きなかった。
だが、二十二は、問題が出た。
特に驚いたのは、「毎朝、門の前を掃く」という仕事だった。
これを止めた三日後、家中で妙な諍いが増えた。
最初、俺には理由が分からなかった。
調べさせると、こういうことだった。
――毎朝の掃除は、下働きの者たちが顔を合わせる場だった。
そこで、その日の段取りが自然に話されていた。誰が何をするか、何が足りないか。
掃除を止めたら、その場がなくなった。
結果、段取りが伝わらなくなり、行き違いが増えた。
俺は、その報告を聞いて、頭を抱えた。
「――利三。掃除を戻せ」
「は」
「そして、書き足せ」
俺は、筆を取った。
――門前の掃除。なぜ:下働きの者が顔を合わせ、その日の段取りを話し合う場を作るため。
利三が、書付を覗き込んだ。
「殿。これは……掃除の理由でござるか」
「そうだ」
「――掃除は、汚れを取るためでは」
「それもある」
俺は言った。
「だが、この家では、掃除の本当の役目はそこではなかった」
俺は、筆を置いた。
「――仕事には、書かれていない役目がある」
◇
この発見は、大きかった。
俺は、家中に向けて、こう言った。
「無駄に見えるものを、無駄と決めつけるな」
俺は続けた。
「無駄に見えるのは、役目が見えていないからかもしれぬ」
そして、最後にこう付け加えた。
「――だから、止めてから決める」
◇
九月。
『明智家、役目書』が完成した。
全十二枚。項目は、二百三で確定した。
二百七十から、六十七が消えた。
そして、新しく十六が増えた。
増えたもののうち、いちばん重要なのは、これだった。
――荷が坂本を出てから丹波に着くまでを、通して見る役。
この役に、俺は若い家臣を一人、充てた。
名を、三沢という。二十四になる男だ。
三沢は、最初、この役目を嫌がった。
「殿。それがしは、槍を取りとうござる」
当然の反応だった。
この時代、武士の出世は戦功で決まる。荷の管理は、手柄にならない。
俺は、この男に言った。
「三沢。おぬしがこの役をきちんと果たせば、丹波で兵糧が切れることはなくなる」
「――は」
「兵糧が切れねば、兵は死なぬ」
俺は言った。
「おぬしが救う兵の数は、槍で取る首より多い」
三沢は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「――殿。それは、誰にも見え申さぬ」
俺は、動きを止めた。
(――そうだ)
この男の言う通りだ。
防いだ事故は、記録に残らない。
起きなかった飢えは、誰にも見えない。
前世でも同じだった。障害を未然に防いだ技術者は、評価されない。障害を起こして徹夜で直した者が、英雄になる。
俺は、しばらく考えた。
そして、言った。
「――三沢。ならば、見えるようにする」
「――は?」
俺は、筆を取った。
「毎月、書け。荷が何日で着いたか。遅れたか。遅れたなら、どこで遅れたか」
「……」
「そして、それを家中に配る」
俺は、三沢を見た。
「一年経てば、数が並ぶ。数が並べば、良くなったかどうかが見える」
三沢の目が、少し動いた。
「――良うならなんだら」
「そのときは、おぬしの落ち度だ」
俺は言った。
「だが、良くなれば、それはおぬしの手柄だ」
三沢は、しばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
「――やり申す」




