第31話 最初の改革会議
――丹波は、馴染み始めた。物差しは五つできた。
――だが、自分の家の中を、俺は数えたことがない。
――他人の家を直す前に、足元が抜けていた。
天正六年、六月。
二通目の文への返事は、やはり来なかった。
だが利三の絶叫は、無駄ではなかった。あの男は文の内容を三度書き直させ、最終的に「城を出よ」とも「降れ」とも書かない、ただ会って話したいというだけの文にした。
俺は、それを八上へ送った。
そして、坂本へ戻った。
◇
丹波の陣は、当面動かない。
道普請は続いている。担当割りも回っている。俺が張り付いていなくても、仕組みは動く。
――それ自体が、成果だった。
去年までは、俺が陣にいなければ何も決まらなかった。
今は、決まる。
(――だから、坂本に帰れる)
俺は、湖を渡る舟の上で、その事実を噛みしめていた。
権限を分けるというのは、こういうことだ。
自分が休めるようになる。
――そして、休めるということは、次のことを考えられるということだ。
◇
坂本城に着いた翌日。
俺は、家中の主だった者を広間に集めた。
三十二人。
利三。明智秀満。それから、坂本と丹波を回している者たち。
俺は、最初に一枚の紙を掲げた。
「これから、明智の家を、作り直す」
全員が、身構えた。
俺は、紙を広げて見せた。
そこには、何も書いていなかった。
白紙だった。
ざわり、と空気が動いた。
「殿。それは」
「白紙だ」
「――は」
「今日は、これを埋める」
俺は、白紙を床に置いた。
「明智の家で、誰が、何をしているか。それを全部、ここに書く」
◇
最初、誰も口を開かなかった。
当然だ。
この時代、「自分が何をしているか」を言葉にする習慣がない。
武士の仕事は、家柄と慣習で決まる。誰かが「これはお前の仕事だ」と言ったわけではない。気づいたらやっていた、というものが大半だ。
「では、俺から言う」
俺は、筆を取った。
「明智日向守。丹波の陣の総大将。坂本城の主。上様への報告。家中の采配」
書いてから、俺は手を止めた。
書きながら気づいた。
「――多いな」
誰かが、小さく笑った。
俺は、続けた。
「他に、俺がやっていることを知っている者は」
利三が、手を挙げた。
「――村の年貢の裁き」
「うむ」
「――使者の応対」
「うむ」
「――書付の写しの検分」
「――普請の見分」
「――兵糧の割り振り」
挙がる、挙がる。
俺は、書き続けた。
半刻ほどで、俺の名前の下に、十九の項目が並んだ。
俺は、その紙を見た。
(――これは)
背筋が、冷たくなった。
十九。
俺一人で、十九の仕事を抱えている。
(――信長様のことを、言えた義理か)
二度目だ。
俺は、この感覚を丹波で味わった。
そして、また同じところに立っている。
◇
「よし」
俺は、顔を上げた。
「では、次だ。利三」
「――は」
「おぬしが何をしているか、言え」
利三は、少し困った顔をした。
「――殿の仰せを、家中に伝えており申す」
「他には」
「……書付を書いており申す」
「他には」
「兵の割り振りを」
「他には」
俺が「他には」を五回言ったところで、利三が音を上げた。
「殿ッ、それがしにも分かり申さぬ!」
広間が、どっと沸いた。
俺は、笑いながら言った。
「そこだ」
笑いが、止まった。
「利三は、自分が何をしているか、自分で説明できぬ」
俺は、紙を指した。
「では聞く。利三が明日、落馬して死んだら」
利三が、げっという顔をした。
「――誰が、利三の仕事を引き継げる」
しん、とした。
「利三の仕事を、誰も知らぬ。利三自身も知らぬ。ならば、引き継げぬ」
俺は、広間を見回した。
「これは、利三が悪いのではない。皆、同じだ」
◇
その日、俺たちは日が暮れるまでかかった。
三十二人が、自分のやっている仕事を、一つずつ言葉にした。
最初は苦しんだ。だが、五人目あたりから、コツを掴んだ者が出てきた。
「誰かに頼まれること」から言えばいい、と気づいたのだ。
紙は、四枚になった。
項目は、二百七十を超えた。
俺は、その紙を眺めた。
(――多い)
だが、多いこと自体は問題ではない。
問題は、こうだ。
「利三。この二百七十のうち、二人以上がやっているものはあるか」
利三が、紙を睨んだ。
そして、指した。
「――『村からの訴えを聞く』が、三つござる」
「三人がやっているのか」
「はい。それがしと、秀満どのと、それから」
利三は、末席を指した。
「――彼にも」
俺は、その三人を見た。
「三人とも、同じ村の訴えを聞いているのか」
三人が、顔を見合わせた。
そして、青くなった。
「――殿。それがし、先月、田の境の訴えを裁き申した」
「それがしも、同じ訴えを聞き申した」
「――裁きは、同じでござったか」
沈黙。
三人とも、答えられなかった。
俺は、紙を叩いた。
「これだ」
俺は言った。
「同じ訴えを、三人が別々に裁いている。裁きが食い違えば、村は混乱する」
俺は、続けた。
「そして――村の者は、三人のうち、いちばん都合の良い裁きをした者のところへ行くようになる」
利三が、はっとした顔をした。
「――使い分けられ申す」
「そうだ」
俺は言った。
「重なりは、無駄なだけではない。抜け道になる」
◇
さらに、もうひとつ見つかった。
「では逆だ。この二百七十に入っていない仕事はあるか」
誰も、答えられなかった。
当然だ。書いていないものは、思い出せない。
俺は、質問を変えた。
「――去年、うまくいかなかったことを言え」
これには、答えが出た。
「兵糧の荷が、一度、丹波で足り申さなんだ」
「うむ。なぜだ」
「――荷が、遅れ申した」
「誰が遅らせた」
「……分かり申さぬ」
俺は、頷いた。
「では聞く。荷が坂本を出て、丹波に着くまで、いくつの手を通る」
誰も、答えられなかった。
俺は、その場で数えさせた。
――蔵から出す者。
――荷を積む者。
――舟を出す者。
――陸に揚げる者。
――陸路を運ぶ者。
――陣で受け取る者。
六つ。
「では、この六つのうち、誰が『荷全体』を見ている」
沈黙。
――誰も、いなかった。
全員が、自分の担当の一区間だけを見ている。
だから、遅れがどこで起きたか、誰にも分からない。
俺は、筆を取った。
そして、紙に新しい行を書いた。
――荷が坂本を出てから丹波に着くまでを、通して見る者。
その隣に、空白を作った。
「これは、今、誰もやっていない仕事だ」
俺は言った。
「誰かに、やらせる」
◇
夜になった。
三十二人は、疲れ果てていた。
俺は、最後に言った。
「今日書いたものは、明日、清書して配る」
利三が、げんなりした顔をした。
「――殿。それがしが書くので」
「そうだ」
「……四枚を、三十二部」
「そうだ」
利三が、天を仰いだ。
俺は、笑いながら続けた。
「配ったら、皆で見て、間違いを言え」
「間違い、でござるか」
「そうだ。『これは俺の仕事ではない』とか、『これは書いてある通りではない』とか」
俺は、紙を掲げた。
「――この紙は、正しくない」
全員が、面食らった顔をした。
「今日一日で書いたものだ。抜けもあれば、間違いもある」
俺は言った。
「だから、直す。直し続ける」
俺は、紙を畳んだ。
「――間違ったまま置いておくのが、いちばん悪い」
◇
解散した後、一人が残った。
明智秀満。通称を、左馬助という。
この体の記憶は、この男については、妙に曖昧だった。明智の一族だという記憶がある。俺の従弟だ、という感じもある。だが同時に、もとは三宅弥平次という名で、明智の姓は後から与えられたものだ、という感じもある。
(――どちらだ)
利三に、それとなく聞いてみたことがある。この男は、当然のように答えた。
「――左馬助どのは、殿の婿にござる」
(――婿)
俺の娘の一人を娶っている。玉ではない。上の娘だ。だから明智の姓を名乗り、家中では一族として扱われている。
つまり、血の繋がりは薄い。だが、家としてはいちばん近い。
前世で言えば、創業家の娘と結婚して役員になった男だ。実力で入ったのか、縁で入ったのか、周りは決めかねている。そして本人が、いちばんそれを気にしている。
年は、三十を少し出たところ。若い。
真面目すぎるほど、真面目な男だ。
視界の隅で、板が浮かんだ。
――――――――――――――――――
明智秀満(左馬助) 三十二歳
明智家一門・光秀の婿
【総評】守る男。定めたものを、定めた通りに守る。
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統率75 │ 戦術78 │ 兵站財務60
政務実務70 │ 交渉外交50 │ 人望72
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◆特記事項
規律遵守 97
決まりへの信頼 95
設計 25
己の立場への不安 80
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俺は、その並びを見て、少し唸った。
規律遵守、九十七。決まりへの信頼、九十五。
(――使える)
どんなに良い決まりを作っても、守る者がいなければ三月で死ぬ。この男は、決めたことを、決めた通りに守る。しかも、他人にも守らせる。
だが、その下。
設計、二十五。
(――作れぬ、か)
守れるが、作れない。運用はできるが、設計ができない。
そして、最後の一行。
己の立場への不安、八十。
(――そこか)
婿であることを、この男は気にしている。だから、決まりを人一倍守る。守っていれば、誰にも文句を言われないからだ。
「殿」
「なんだ」
「――ひとつ、伺いたきことが」
「言え」
秀満は、少し言いにくそうにした。
「今日のあれは、何のためでございましょう」
俺は、この男を見た。
「――今日、皆が申しておりました。『これで何が良うなるのか』と」
いい質問だった。
いや――これは、警告だ。
この男は、家中の空気を伝えに来た。
「秀満。良い問いだ」
「――は」
「答える前に、聞きたい。おぬしはどう思う」
秀満は、少し考えた。
「――仕事が、はっきりいたしまする」
「うむ」
「されど」
秀満は、続けた。
「はっきりして、それが何になるのかが、分かり申さぬ」
俺は、頷いた。
「その通りだ」
俺は言った。
「はっきりするだけでは、何にもならぬ」
俺は、外を見た。
湖が、月の光で光っていた。
「秀満。俺が欲しいのは、この先だ」
「――と、申されますと」
「仕事がはっきりすれば、次にこう聞ける」
俺は、指を立てた。
「――『この仕事は、要るのか』と」




