第30話 自分もまた長政だった
天正六年、五月。
『丹波、御仕置きの覚』は、十七条になった。
書き終えたのは、夜明け前だった。
俺は、書き上げた紙の束を前に、しばらく動けなかった。
全部で二十三枚。
この半年で、俺が丹波でやったこと、失敗したこと、考えたことの全部が、ここにある。
俺は、最初の一枚を手に取った。
――第一条。降ると馴染むは、別のことである。
二枚目。
――第二条。降らせるは一日にて成る。馴染ませるは三年を要す。
読み返しながら、俺は妙な感覚に襲われていた。
(――これは、誰に向けて書いたんだ)
上様に、と答えるのが正しい。
だが、書いている間、俺の頭にあったのは信長ではなかった。
――波多野秀治だ。
◇
俺は、筆を置いて、外に出た。
坂本城の縁側。琵琶湖が、朝の光を待っていた。
(――波多野秀治)
俺は、この男に会ったことがある。
この体は、覚えている。
三年前、丹波攻めが始まった頃。八上城で、俺は――明智光秀は、この男と対面した。
どんな話をしたか。
思い出そうとして、ほとんど何も出てこなかった。
覚えているのは、儀礼的なやり取りだけだ。所領を安堵する。与力として遇する。共に丹波を鎮めよう。
それだけだ。
(――あの人が何を考えていたか、俺は一度も聞かなかった)
俺は、湖を見た。
波多野秀治は、丹波の名家だ。何代も八上城に拠り、周辺の国衆を束ねてきた。
その男が、織田という新しい勢力に降った。
どんな気持ちだったか。
家中に、何と説明したのか。
夜、何を考えて眠ったのか。
俺は、何一つ聞かなかった。
――聞く必要がないと思っていた。
(――いや)
俺は、目を閉じた。
聞く必要がない、と思っていたのではない。
聞くという発想が、なかった。
◇
その日、俺は坂本の書院で、一人、紙を広げた。
題を書いた。
――丹波、しくじりの覚。
これは、上様に出す報告書とは別のものだ。
誰にも見せない。
俺自身のために書く。
◇
一、俺は、波多野秀治に「なぜ織田に従うのか」を説明しなかった。
これは、浅井長政に対して信長がしたことと、同じだ。
俺は、第2部でそれを分析した。
分析しながら、自分が同じことをしていたと、一度も思わなかった。
(――なぜだ)
俺は、筆を止めた。
なぜ、気づかなかった。
答えは、すぐに出た。
――俺は、被害者の側で考えていたからだ。
金ヶ崎で背後を突かれた織田軍の一員として、浅井の離反を考えていた。
だから「信長は説明すべきだった」という結論が出た。
だが同じ構図で、丹波では俺が「説明しない側」だった。
立場が変われば、同じ人間が同じ過ちを犯す。
(――俺は、賢かったのではない)
――俺は、たまたま被害者の側にいただけだ。
◇
二、俺は、小畠の報告を「分かった」の一言で流した。
これも、同じ構造だ。
俺は前世で、報告を聞かない上司に潰された。
その俺が、報告を聞かない上司になっていた。
俺は、紙に書いた。
――人は、自分がされて嫌だったことを、立場が変わると同じようにする。
書きながら、俺は前世を思い出していた。
新人の頃、俺は上司の資料の作り方が非効率だと思っていた。
十年後、俺は同じ作り方を部下にさせていた。
なぜか。
その頃には、それが「効率的でない」という感覚を失っていたからだ。
――立場が、感覚を変える。
◇
三、俺は、丹波の国衆を「駒」として数えていた。
これが、いちばん重い。
俺は、四十二家の一覧を作った。服属した数を数えた。裏切る数を予測した。
全部、正しい。
だが。
俺は、その四十二家の当主が、それぞれ何を考えているかを、一度も書いていなかった。
書いたのは、こういうことだ。
――服属。所領安堵。人質有り。兵二百。
人ではない。
資源だ。
俺は、筆を置いた。
(――俺は、あの人たちを、資源として扱っていた)
前世で、俺は人事の資料を作っていた。
スキルマップ。要員計画。配置転換案。
名前が並んでいた。だがそれは、名前の形をした数字だった。
俺は、その資料を作りながら、一度も「この人は今、何を考えているか」と考えなかった。
(――だから、通らなかったのかもしれない)
俺は、その一行を書いた。
――人を数えることはできる。だが、数えた人は、数えられたことを覚えている。
◇
四。
俺は、この項目を書くのに、いちばん時間がかかった。
――俺は、波多野秀治を、恨んでいた。
書いてから、俺はしばらく動けなかった。
これは、事実だった。
この体は、去年の正月に裏切られている。多くの部下が死んだ。
その記憶は、俺の中に残っている。
俺は「制度の問題だ」と分析した。「人の咎ではない」と言った。
だが、腹の底では――
(――あの野郎、と思っていた)
俺は、筆を握りしめた。
これが、いちばん恐ろしい発見だった。
俺は、自分が理性的だと思っていた。
分析している間、俺は自分の感情を勘定に入れていなかった。
だが、感情は、消えていない。
ただ、分析という服を着ていただけだ。
(――なら)
俺は、顔を上げた。
六年後。
もし俺が本能寺に向かうとして。
そのとき俺は、たぶん「これは正しい判断だ」と思っている。
組織のためだ。天下のためだ。やむを得ない。
――そう思っている。
だがその下に、まったく別のものが沈んでいるかもしれない。
俺は、それを見分けられるか。
◇
その夜。
俺は、障子の外に座っていた。
「あなた様」
「いる」
「――お疲れのようで」
「うむ」
俺は、少し黙った。
そして、言った。
「煕子。俺は、浅井長政と同じことをしていた」
障子の向こうが、静かになった。
「丹波で、俺は説明しなかった。だから波多野が離れた。それは、金ヶ崎と同じ構図だ」
俺は、続けた。
「俺は半年、浅井のことを調べていた。調べながら、一度も気づかなかった」
しばらく、返事がなかった。
やがて、煕子が言った。
「あなた様」
「うむ」
「――それは、良いことでございます」
俺は、顔を上げた。
「――良いこと、か」
「はい」
煕子の声は、穏やかだった。
「気づかれたのですから」
俺は、少し笑った。
「遅い」
「遅くはございませぬ」
煕子は、静かに言った。
「気づかぬまま六年経つより、よほど」
俺は、その言葉を聞いていた。
「――煕子」
「はい」
「怖いことがある」
「なんでございましょう」
俺は、湖の音を聞きながら言った。
「俺は、自分の中に、まだ気づいていないものがあると思う」
障子の向こうは、静かだった。
「浅井のことは、半年かけて気づいた。丹波のことも、一年かけて気づいた」
俺は続けた。
「では、まだ気づいていないものは、いくつある」
しばらくの沈黙のあと、煕子が言った。
「あなた様」
「うむ」
「――それは、お一人では気づけませぬ」
俺は、動きを止めた。
「気づかれたのは、庄兵衛どのがおられたからでございましょう」
――そうだ。
「小畠どのが、話してくださったからでございましょう」
――そうだ。
「玉が、穴を七つ見つけたからでございましょう」
俺は、目を閉じた。
「あなた様お一人で考えておられたら、今も気づいておられませぬ」
煕子の声は、優しかった。
「ですから――」
少し、間があった。
「これからも、人にお聞きなさいませ」
俺は、しばらく動けなかった。
(――そうか)
俺は、ずっと「気づく力」を鍛えようとしていた。
だが、気づくのは、一人ではできない。
仕組みが要る。
――誰かが、二度目を言える仕組みが。
俺は、立ち上がった。
「煕子」
「はい」
「――ありがとう」
障子の向こうで、笑う気配がした。
「まあ。珍しいこと」
◇
翌朝。
俺は、『丹波、御仕置きの覚』の最後に、一条を書き足した。
――第十八条。
筆が、少し止まった。
そして、書いた。
――この覚は、書いた者が正しいことを示すものではない。
――書いた者が、何を見落としたかを示すものである。
――読む者は、ここに書かれておらぬことを探せ。
書き終えて、俺は束を封じた。
「利三」
「は」
「安土へ出す」
「――は」
利三は、束を受け取った。
そして、少し躊躇ってから、言った。
「殿」
「なんだ」
「――八上は、どういたします」
俺は、丹波の方角を見た。
まだ、落ちていない。
波多野秀治は、まだ八上城にいる。
(――会わねばならぬ)
俺は、そう思った。
三年前に聞かなかったことを、聞かねばならない。
それが、間に合うかどうかは分からない。
だが。
「利三」
「は」
「――もう一度、文を書く」
利三が、絶叫した。
「殿ォッ!」
――――――――――
【あとがき】
第三章、丹波が終わりました。
光秀は、去年と同じ土地を、同じ相手に、違うやり方で攻めました。降らせるのと、馴染ませるのは別のことです。そして、その差を測るために五つの物差しを作りました。
次章は、坂本です。他人の家を直してきた男が、初めて自分の家の中を数えます。




