第27話 光秀、物語を疑う
天正六年、正月。
丹波の陣で年を越した。
去年の正月、この体は黒井城の前で敗走していた。
一年で、状況は変わった。服属を明言した家は三十五。うち、五つの物差しを三つ以上満たす家が、十九。
だが俺の頭を占めていたのは、数字ではなかった。
――噂だ。
母人質の話は、消えなかった。
消えないどころか、細部が増えていた。
母の名前が付いた。年齢が付いた。八上城で縛られている場所まで語られていた。
存在しない人間の、存在しない監禁場所が、詳細に語られている。
「――利三。これは、なんだ」
「なんだ、と申されましても」
「なぜ細かくなる」
利三は、当然のように答えた。
「話す者が、面白うするためにござる」
俺は、額を押さえた。
◇
俺は、この現象を紙に書き出してみた。
――噂は、伝わるたびに細かくなる。
――細かくなるほど、本当らしく聞こえる。
――本当らしく聞こえるほど、速く伝わる。
これは、前世でも同じだった。
社内の噂は、伝言のたびに具体性を増す。
「A部長が異動するらしい」が、「A部長は九州の子会社に飛ばされるらしい」になり、「A部長は役員と揉めて九州に飛ばされる」になる。
誰も嘘をついていない。
ただ、聞いた話の隙間を、無意識に埋めているだけだ。
人間の脳は、話に穴があると気持ちが悪い。だから埋める。
(――そして、埋まった話は完成度が上がる)
完成度の高い話は、記憶に残る。
俺は、そこまで書いて、筆を止めた。
(――待て)
俺は、あることに気づいた。
この現象を、俺は自分の未来にも当てはめていた。
六年後、俺が謀反を起こしたとき、「分かりやすい理由」が語られるだろう、と。
だが。
俺は、書付を睨んだ。
(――俺が知っている「歴史」も、そうやって作られたのではないか)
背筋が、冷えた。
俺が前世で読んだ本。あれは、何を元にしているのか。
当時の一次資料もあるだろう。だが、多くは後世に書かれた軍記物だ。
――『川角太閤記』。
――『明智軍記』。
名前を思い出した瞬間、俺は動けなくなった。
あれらは、本能寺から何十年も後に書かれたものだ。
その中に書いてある「光秀が信長に恨みを抱いた理由」――折檻された、領地を取り上げられた、腐った魚を出して叱られた、母を殺された。
(――全部、この噂と同じ作られ方をしているのではないか)
俺は、両手で顔を覆った。
◇
その日、俺は一日中、陣所から出なかった。
利三が心配して覗きに来たが、追い返した。
俺は、自分の「未来の知識」を、片っ端から書き出していた。
そして、二つに分けた。
――確実に起きること。
――そう語られていること。
前者に入れられるものは、驚くほど少なかった。
本能寺の変が天正十年六月二日に起きること。信長と信忠が同時に死ぬこと。その後、秀吉が山崎で光秀を破ること。清洲会議で織田家が割れること。
これは、たぶん確実だ。日付と結果は、記録に残る。
だが。
――光秀の動機。
これは、後者だ。
誰も、本人から聞いていない。
光秀は本能寺の十一日後に死んでいる。理由を語る時間はなかった。
つまり、後世の人間は全員、推測している。
(――俺は、推測を「知識」だと思っていた)
俺は、机に突っ伏した。
これは、致命的だ。
俺の計画の根幹は、「本能寺は組織の限界が爆発した結果である」という理解にある。
だがそれは、俺が現代の組織論から逆算した仮説であって、事実ではない。
もしかすると、本当に個人的な恨みなのかもしれない。
もしかすると、まったく別の理由――たとえば朝廷や、四国政策や、誰かの陰謀――かもしれない。
俺は、顔を上げた。
(――いや)
俺は、筆を取った。
そして、書いた。
――動機が何であれ、やることは変わらない。
これだ。
もし本能寺が個人的な恨みで起きるなら、俺がその恨みを持たなければいい。
もし組織の限界で起きるなら、組織を作り直せばいい。
もし別の理由なら――そのときは、組織が丈夫なほうが、対処できる。
どの仮説でも、「織田家を信長なしで回るようにする」という手は、有効だ。
(――対処が同じなら、原因を確定する必要はない)
俺は、少しだけ息を吐いた。
だが、もうひとつ、重大なことに気づいていた。
◇
夕方、利三を呼んだ。
「利三。頼みがある」
「――紙でござるか」
「いや、今度は違う」
俺は言った。
「俺のことを、書き残せ」
利三が、目を丸くした。
「――は?」
「俺が何を考え、何を決め、なぜそう決めたか。全部書け」
「殿。それは、家譜でござるか」
「近い。だが違う」
俺は言った。
「家譜は、後の者が誉めるために書く。俺が書かせたいのは、後の者が疑えるようにするためだ」
利三は、まったく理解していない顔をした。
俺は、説明した。
「利三。俺が明日死んだとする」
「――縁起でも」
「聞け。俺が死んだとき、人は必ず『日向守はなぜあれをやったのか』と語る」
「……」
「そして、誰も知らぬから、作る」
俺は、書付を叩いた。
「作られた話は、本当らしく、面白く、覚えやすい。そして、俺が本当に考えていたこととは、まるで違う」
利三が、少し理解した顔をした。
「――ゆえに、書いておく、と」
「そうだ」
俺は言った。
「書いてあれば、後の者は少なくとも比べられる。噂と、書いたものを」
利三は、腕を組んだ。
そして、こう言った。
「――殿。それでも、人は噂を信じ申す」
「知っている」
俺は言った。
「全員は無理だ。だが、一人でも二人でも、書いたほうを読む者がいればいい」
俺は、外を見た。
丹波の山に、雪が積もっていた。
「――そのために、書く」
◇
その夜。
俺は、坂本に文を書いた。
宛先は、玉だった。
――先に渡した婚姻の覚書、その後どうしている。
――もし読み込んだのなら、思ったことを書いて送れ。
――父の考えたことが、正しいとは限らぬ。
そして、最後にこう書いた。
――いつか、父について、いろいろな話が語られる日が来るかもしれぬ。
――そのときは、この紙を見よ。
書き終えて、俺は少し笑った。
(――重いな)
十四の娘に送る文としては、あまりに重い。
だが、書き直さなかった。
◇
二月。
返事が来た。
玉の字は、恐ろしく整っていた。
――父上。
――覚書、五度読みました。
――穴を七つ見つけました。別紙に記します。
――父上のお考えが正しいとは限らぬ、と仰せでしたので、遠慮なく書きました。
俺は、別紙を開いた。
本当に、七つ書いてあった。
そのうち三つは、俺が気づいていなかったものだった。
俺は、思わず声を出して笑った。
利三が、覗き込んできた。
「――お嬢様からで」
「うむ」
「なんと」
「――俺の案が、穴だらけだそうだ」
利三は、真顔で頷いた。
「お嬢様は、正しゅうござる」
「おぬしもか」
文の最後に、こう書いてあった。
――父上。
――いろいろな話が語られる日が来る、と仰せでしたが。
――わたくしは、父上が書かれたものより、父上がなさったことを覚えております。
――丹波の村に、井戸が出たと聞きました。
俺は、その一行を、長いこと見ていた。
(――そうか)
噂より強いのは、見たものだ。
利三が言った通りだった。
そして、書いたものより強いのも――たぶん、やったことだ。
俺は、文を畳んだ。
「利三」
「は」
「――道普請の続きだ」
「……殿。金は」
「安土へ行く」
俺は立ち上がった。
「上様に、丹波の話をする」




