第26話 母人質伝説
使者は、若い男だった。
名を名乗らなかった。名乗れば、家族が死ぬ。
男は、俺の前で震えていた。
「――日向守様の文を、われらは読み申した」
「うむ」
「城中で、回し読みにござる」
俺は、書付を握ったまま聞いていた。
「あの文を読んで、家中は割れ申した。『日向守は誠を尽くしておる』と申す者と、『謀略だ』と申す者と」
――両方、正しい。
俺は、そう思った。
誠意は本物だった。だが、家中を割ることも計算していた。
この二つは、両立する。
俺が扱った「誠意」は、武器としても機能する誠意だった。
「それで――斬られたのは、どちらの側だ」
男は、俯いた。
「――『日向守は誠を尽くしておる』と申した者にござる」
俺は、目を閉じた。
「三人。いずれも、古い家柄の者にござった」
「――波多野どのが、斬られたのか」
「……いえ」
男は、首を振った。
「大殿は、迷うておられた」
俺は、顔を上げた。
「では、誰が」
「――家中の、他の者どもにて」
男は、絞り出すように言った。
「『内通の疑いあり』と申して、寄ってたかって」
俺は、その光景を想像した。
当主が迷っている間に、家中が疑心暗鬼で自壊していく。
誰も命じていない。誰も責任を取らない。ただ、恐怖が人を殺していく。
(――浅井とは、逆だ)
浅井では、反対する者が黙らされた。だが殺されはしなかった。
波多野では、殺された。
違いは何か。
――追い詰められている度合いだ。
余裕がある組織では、異論は無視される。
追い詰められた組織では、異論は殺される。
◇
使者を帰した後、俺は陣所で一人になった。
利三が入ってきて、何か言いかけて、やめた。
俺は、しばらく紙を睨んでいた。
――俺が、殺した。
直接ではない。手も下していない。
だが、あの文を出さなければ、あの三人は生きていた。
(――計算していた)
俺は、あの文が波多野家中を揺らすことを、事前に計算していた。利三に説明さえした。
「本気でやると、結果として敵が揺れる」と。
揺れた結果、人が死ぬことも、想像しようと思えばできたはずだ。
(――しなかった)
俺は、机に手をついた。
前世で、俺は組織の分析を仕事にしていた。
組織図を書き、業務フローを描き、人員配置を提案した。
その提案で、何人かが異動になった。何人かが会社を辞めた。
だが俺は、その顔を見ていない。
紙の上で線を引いただけだからだ。
(――今も、同じことをしている)
俺は、書付を見た。
四十二家。五つの物差し。担当者の割り振り。
全部、正しい。
正しいが――
俺は、筆を握った。
紙の上の線は、必ず、どこかで人の首に触れている。
◇
その夜、俺は眠れなかった。
陣幕の外に出ると、月が出ていた。
利三が、篝火の脇に座っていた。
「――眠れませぬか」
「うむ」
俺は、隣に腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて、利三が言った。
「殿。ひとつ、伺ってもよろしゅうござるか」
「言え」
「――あの文を出したこと、悔いておられますか」
俺は、答えられなかった。
利三は、続けた。
「それがしは、悔いており申さぬ」
俺は、この男を見た。
「あの文で、丹波の四家が降り申した。降らねば、その四家の村は焼かれておりました」
「……」
「戦とは、そういうものにござる」
利三は、篝火を見ていた。
「殿がなさらずとも、誰かがなす。誰もなさねば、もっと多くが死に申す」
俺は、その言葉を聞いていた。
正しい。
だが。
「利三」
「は」
「――その言葉に、慣れてはならぬと思う」
利三が、こちらを見た。
「戦とはそういうものだ、と言った瞬間、人は何でもできるようになる」
俺は、月を見た。
「俺が恐れているのは、いつか俺が、その言葉を何の痛みもなく言えるようになることだ」
利三は、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「――殿は、面倒なお人でござるな」
「知っている」
◇
翌朝、妙な話が耳に入った。
利三が、渋い顔で持ってきた。
「殿。城下で、おかしな噂が流れており申す」
「なんだ」
「――八上の城を落とすため、日向守様が、ご自身の母上を人質に出される、と」
俺は、筆を止めた。
「……は?」
「波多野を城から誘い出すため、母上を八上に差し出して、その隙に討つ、と」
俺は、しばらく言葉が出なかった。
(――これは)
俺は、この話を知っている。
前世で読んだことがある。
明智光秀が八上城を落とす際、実母を人質として差し出し、波多野兄弟を誘い出して安土へ送った。だが信長が波多野を処刑したため、怒った城兵が光秀の母を殺した。
――それが、光秀の信長への恨みの原点だという話。
俺は、額を押さえた。
(――もう流れているのか)
まだ何も起きていない。
八上城は落ちていない。俺の母は、そもそも――
「利三。俺の母は、生きているか」
利三が、ぎょっとした顔をした。
「殿ッ! なにを仰せられます!」
「いや、確かめたい」
「――母上様は、疾うにお亡くなりでござる」
俺は、天を仰いだ。
やはりか。
この体の記憶を探ると、確かに母の死は、ずっと前だ。
人質に出せる母は、存在しない。
◇
俺は、その噂を三日かけて追った。
出所は、分からなかった。
いくつかの村で聞いた話が、少しずつ違っていた。
――母を差し出すらしい。
――もう差し出したらしい。
――波多野が母を殺したらしい。
まだ起きていないことが、既に「起きたこと」として語られている。
俺は、寺の一室で、その話を書き取っていた。
(――なぜ、こんな話が生まれる)
俺は、筆を止めた。
そして、気づいた。
――分かりやすいからだ。
丹波の平定は、複雑だ。
四十二家の国衆がいて、それぞれに事情があり、書付があり、道普請があり、五つの物差しがある。
こんなものは、誰も語り継がない。
だが「母を人質に出した」という話は、一行で語れる。
そして、覚えやすい。
(――物語は、事実より速い)
俺は、その一行を書いた。
書いてから、背筋が冷えた。
六年後。
俺が本能寺で信長を討ったとき――いや、討たなかったとしても。
人々は、必ず「分かりやすい理由」を探す。
恨みだ。怨恨だ。折檻された。母を殺された。領地を取り上げられた。
そういう話が、必ず生まれる。
なぜなら、そのほうが覚えやすいからだ。
(――俺は、物語に殺される)
俺は、その一行を紙に書いた。
――事実は複雑で、物語は単純である。人は単純なほうを覚える。
◇
その夜、俺は利三に言った。
「利三。この噂を、消せると思うか」
「――難しゅうござる」
「なぜだ」
「面白いからにござる」
利三は、あっさり言った。
「人は、面白い話を好みまする。まことかどうかは、二の次にて」
俺は、笑ってしまった。
「よく分かっているな」
「――村におれば、分かり申す」
利三は、少し遠い目をした。
「それがしの村でも、昔、そういう話がござった。ある侍が、村の娘を斬ったという話にて」
「まことか」
「――嘘にござった」
利三は言った。
「されど、その侍は村を出て行き申した。誰も信じてくれなんだゆえ」
俺は、筆を置いた。
「利三」
「は」
「――噂を消すことはできぬ。だが、噂より強いものはあるか」
利三は、しばらく考えた。
そして、言った。
「――見たもの、でござろうか」
俺は、顔を上げた。
「村の者は、噂も信じ申すが、目の前で起きたことは、もっと信じまする」
俺は、その言葉を書き取った。
――噂に、噂で対抗してはならぬ。目に見えるもので対抗せよ。
道普請だ。
井戸だ。
乱取りをしない兵だ。
それらは、物語ほど速くは伝わらない。
だが、一度見た者は、忘れない。
俺は、書付を掴んだ。
「利三。道普請を、増やす」
「――は?」
「今の倍だ」
利三が、げんなりした顔をした。
「殿。金が」
「上様に、また出させる」
「――正気でござるか!」




