第25話 服属と統合は違う
天正五年、秋。
丹波の状況は、目に見えて変わり始めていた。
服属を明言した家が、三十一。
だが俺は、その数字の下にもう一つ、別の欄を作らせていた。
――統合の度合い。
利三が、最初これを見て顔をしかめた。
「殿。これは、何を数えるので」
「良い質問だ」
俺は言った。
「それを、これから決める」
◇
服属したかどうかは、簡単に分かる。
降伏の書状が来たか。人質を出したか。兵を出したか。
だが、それは全部「形」だ。
俺が知りたいのは、その先だった。
俺は、五つの物差しを作った。
一、こちらの命令が、その家の村まで届いているか。
二、その家の者が、明智の陣で他家の者と共に飯を食っているか。
三、その家から、こちらに情報が上がってくるか。
四、その家が、隣の国衆との争いをこちらに持ち込んでくるか。
五、その家の跡取りが、こちらに顔を出しているか。
「――殿。これは、何の物差しにござる」
利三が、当惑した顔で聞いた。
俺は答えた。
「本当に、こちらの一部になったかどうかの物差しだ」
一つずつ説明した。
「一。命令が村まで届いていないなら、その家は『表向き従っている』だけだ」
「……なるほど」
「二。飯を別に食っている集団は、混ざっていない」
これは、前世で学んだことだ。
合併した会社で、社員食堂の座席が旧A社と旧B社で分かれていたら、統合は失敗している。
「三。情報が上がってこないのは、こちらを信用していない証だ」
「四」
俺は、少し力を込めた。
「これが、いちばん大事だ」
「――争いを、持ち込んでくるか」
「そうだ」
俺は言った。
「国衆同士は、必ず揉める。水の使い方、山の境、村の帰属。何百年も揉めてきた」
「さようで」
「その揉め事を、こちらに裁いてくれと持ってくるようになれば――こちらが上だと認めたということだ」
利三が、目を見開いた。
「――逆に、持ってこぬ間は」
「自分たちで解決している。つまり、こちらは無関係だと思われている」
これは、統治の本質だ。
支配とは、暴力の独占ではない。
紛争解決の独占だ。
人々が揉め事を持ち込んでくる場所こそが、その土地の実質的な支配者だ。
「五。跡取りが顔を出すか」
俺は言った。
「今の当主は、諦めて降ったのかもしれぬ。だが、その息子がこちらに顔を出すなら――次の代は、こちら側で育つ」
◇
この五つの物差しで、三十一家を評価させた。
結果は、悲惨だった。
五つすべてを満たす家――三。
四つ――五。
三つ――七。
二つ以下――十六。
利三が、書付を見て唸った。
「――半分以上が、二つ以下でござるか」
「そうだ」
「されど殿、これらは皆、服属しております」
「している」
俺は言った。
「紙の上ではな」
俺は、書付を叩いた。
「利三。この十六家のうち、何家が、来年こちらを裏切ると思う」
利三は、答えなかった。
答えられなかった。
「――これが、去年の俺だ」
俺は言った。
「去年、俺は『四十二家のうち二十六家が服属した』と数えていた。数えただけだ。中身を見ていなかった」
俺は、紙を広げた。
「そして、波多野が離れた」
◇
その夜。
俺は、五つの物差しに、名前をつけようとしていた。
現代なら、統合度合い、と呼ぶ。
だがこの言葉は、この時代の誰にも通じない。
俺は、筆を止めて考えた。
(――服属と、統合)
この二つを、どう言い分けるか。
しばらく考えて、俺は書いた。
――「降る」と「馴染む」は、別のことである。
うん。これは通じる。
俺は、その下に書いた。
――降るは、一日でできる。馴染むは、三年かかる。
書きながら、俺は自分の言葉に頷いた。
この時代の武将は、「降らせる」ことに全力を注ぐ。攻めて、囲んで、脅して、降らせる。
そして降らせたら、次の敵へ向かう。
馴染ませる作業を、誰もやっていない。
(――なぜか)
簡単だ。
馴染ませる作業には、名前がないからだ。
名前のない仕事は、評価されない。評価されない仕事は、誰もやらない。
俺は、筆を走らせた。
――名前のない仕事は、消える。
だから、名前をつける。
俺は、書付の表題を書き直した。
――丹波、馴らしの覚。
◇
だが、書きながら、もう一つ足りないことに気づいた。
(――四十二家を、一緒くたに扱っておらぬか)
俺は、五つの物差しの下に、別の欄を作った。
――この家は、何に困っておるか。
一晩かけて、四十二家を四つに分けた。
――土地が足りぬ家。十一。谷が狭く、田が少ない。欲しいのは新田と、水の裁きだ。
――面子が要る家。九。古い家柄で、名を惜しむ。欲しいのは序列と、公の場での扱いだ。
――身が危うい家。十四。隣と揉めており、後ろ盾が要る。欲しいのは、こちらの兵ではなく、こちらが後ろにいるという事実だ。
――銭が要る家。八。借財を抱えている。欲しいのは、荷の通り道と、商いの許しだ。
(――四つで、まるで違う)
同じ「服属」を持ちかけても、刺さる話が違う。土地が足りぬ家に序列を語っても、退屈なだけだ。面子が要る家に新田を積んでも、侮辱になる。
俺は、四つそれぞれに一文ずつ書いた。前の世で何度も書かされた型だ。
――谷が狭く田の足りぬ家にとって、明智は、丹波の国衆の中で、水と境を裁ける唯一の相手である。なぜなら、隣国の村まで含めて裁く力を持つのは、こちらだけだからである。
――古き家にとって、明智は、丹波の国衆の中で、家の名を書き残す相手である。なぜなら、こちらは書付を残し、その写しを渡すからである。
書きながら、少し笑った。
(――売り文句だ)
この時代の武将は、こんなものを書かない。だが、やっていることは同じだ。相手が何を欲しがっているかを見て、そこへ言葉を当てる。それを勘でやるか、紙でやるかの違いしかない。
(――そして、勘は引き継げぬ)
俺は、四つの分け方と、四つの一文を、家中に配った。
三日後、担当を割り振った者から報せが来た。
――谷の狭い家に「水の裁き」の話をしたところ、当主が身を乗り出したという。
――古い家に「書付に名を残す」と言ったところ、当主が泣いたという。
俺は、その二行を読んで、しばらく紙を見ていた。
(――去年、俺は同じ話を四十二家に、同じ言い方でしていた)
波多野は、その四十二家のうちの一つだった。
◇
翌日、俺はその覚書を家中に配った。
中身は、こうだ。
一、降った家には、必ず書付を出すこと。何を約したかを書き、写しを渡すこと。
二、降った家の当主とは、年に二度、直に会うこと。
三、降った家の跡取りは、こちらの陣に呼ぶこと。飯を共に食うこと。
四、降った家同士の争いは、必ずこちらが裁くこと。面倒でも断らぬこと。
五、降った家の村の損は、書き留めること。償えぬときは、償えぬと告げること。
六、右のことを行う者を定め、その名を書き記すこと。
六条目で、利三が顔を上げた。
「殿。この六条目は」
「担当を決める、ということだ」
俺は言った。
「四十二家それぞれに、誰が受け持つかを決める。決めて、書く」
「――なにゆえ、書きまする」
「書かねば、誰の仕事でもなくなる」
俺は言った。
「『誰かがやるだろう』は、誰もやらぬ」
◇
その日から、明智家中の空気が変わった。
各人に、受け持ちの国衆が割り振られた。
最初、皆、嫌がった。
当然だ。面倒な仕事が増えただけに見える。
だが二月ほどすると、変化が出た。
――受け持ちの家について、詳しくなり始めたのだ。
「殿。それがしの受け持ちの、川勝の家にござるが」
ある若い家臣が、書付を持ってきた。
「あの家は、隣の村と水争いをしております。三代前からにて」
「うむ」
「これを裁いてやれば、川勝は、こちらに深く恩を感じましょう」
俺は、その書付を読んで、驚いた。
水争いの経緯が、三代前まで遡って書いてある。
誰も、そんなことは命じていない。
この男が、勝手に調べた。
「――なぜ、ここまで調べた」
若い家臣は、少し照れくさそうに言った。
「――それがしの受け持ちにござれば」
俺は、しばらく言葉が出なかった。
(――これだ)
人は、「自分の担当」になったものには、驚くほど深く関わる。
逆に、誰の担当でもないものには、誰も関わらない。
前世でも同じだった。
「全員で協力して」と言われた仕事は、誰もやらない。
「あなたの担当です」と言われた仕事は、深夜まで調べる。
俺は、筆を取った。
――責任は、分けて初めて生まれる。
◇
十一月。
利三が、慌てて陣所に飛び込んできた。
「殿! 八上から、使者が」
俺は、書付から顔を上げた。
「波多野からか」
「――いえ」
利三は、少し戸惑った顔をした。
「――波多野の、家臣からにござる」
俺は、立ち上がった。
これは、大きい。
当主ではない。家臣が、独自に接触してきている。
(――割れ始めた)
夏に出した文が、効いている。
「通せ」
だが利三は、動かなかった。
「殿」
「なんだ」
「――その者が申しますには」
利三の顔が、強張っていた。
「『波多野の家中に、明智と通じておる者がおる、という噂が立っておる』と」
俺は、動きを止めた。
「そして――」
利三は続けた。
「『すでに三人、斬られた』と」
俺は、書付を握りしめた。
夏に出した、あの文。
あれは、狙い通りに波多野家中を揺らした。
揺らして――
(――人が、死んだ)
俺は、その場に立ち尽くした。




