第23話 黒井城の失敗
七月。
返事は、来なかった。
予想通りだった。
だが、別のものが来た。
八上城下の商人が、丹波の他の国衆に、こう漏らしたという。
――「日向守は、詫び状を寄越した」と。
言葉は、正確に伝わらなかった。俺の文は詫び状ではない。だが「明智が波多野に頭を下げた」という形で、丹波中に広がった。
利三は青くなった。
「殿。これは、なめられ申す」
「そうかもしれぬ」
俺は、書付を見ていた。
その日から十日で、曖昧だった九家のうち、四家が態度を明確にした。
――服属の方向で。
「……なにゆえでござろう」
利三が、わけが分からんという顔をした。
俺は、書付を置いた。
「利三。丹波の国衆にとって、いちばん恐ろしいのは何だと思う」
「――負けることでござろう」
「違う」
俺は言った。
「負けた後に、どうなるか分からぬことだ」
利三が、動きを止めた。
「降っても、どう扱われるか分からぬ。所領が残るのか、家が続くのか、それとも滅ぼされるのか」
俺は続けた。
「分からぬから、降れぬ。降れぬから、最後まで戦う」
――これは、丹波に限った話ではない。
現代でも同じだ。
業績不振の会社が買収されるとき、社員が最も恐れるのは「買われること」ではない。「買われた後どうなるか分からないこと」だ。
情報がなければ、人は最悪を想定する。
最悪を想定した人間は、抵抗するか、逃げる。
「――そこへ、俺の文が回った」
俺は言った。
「あの文には、こう書いてある。『先年、丹波の行く末について何一つ話さなかったのは、それがしの落ち度である』と」
利三が、目を見開いた。
「――『これからは、話す』と読める」
「そうだ」
俺は頷いた。
「降れば話が聞ける、と思った家が四つあった。それだけのことだ」
◇
だが、良い話ばかりではなかった。
同じ月、安土から書状が来た。
信長からだった。
文面は、短かった。
――丹波の儀、遅し。
それだけだった。
利三が、真っ青になった。
「殿……これは」
「うむ」
「――お叱りにござる」
「そうだな」
俺は、書状を畳んだ。
手が、少し震えていた。
(――来たか)
二文字だった。
「丹波の儀、遅し」。それだけだ。何が遅いのかも、いつまでにという期限も、書いていない。
(――返事のしようがない)
いや。返事のしようがない、のではない。
(――返事を求めていない)
これは、問いではなく、圧だ。受け取った者は、何かをせずにいられなくなる。そして、たいてい、急いで間違える。
前の会社で、社長が机の上に置いていった付箋を思い出した。「例の件、どうなった」。
俺はその日、予定していた検証を全部飛ばして、翌朝に速報を出した。数字は、後で三箇所間違っていたことが分かった。
(――同じ手だ)
俺は、書状をもう一度開いた。
(――だが、この人は、返事を読む)
前の会社の社長は、読まなかった。この人は、読む。四国のことも、丹波の一覧も、最後まで聞いた。
それが、唯一の違いだ。そして、その違いに賭けるしかない。
前世でも、こういう瞬間があった。
改革は進んでいる。だが数字にはまだ出ない。そのタイミングで、上から「で、成果は」と来る。
そして、大抵の改革は、そこで死ぬ。
◇
その夜、俺は陣所で一人、地図を睨んでいた。
丹波の地図だ。
黒井城。八上城。宇津。内藤。
どう攻めるか。
――いや。
俺は、筆を置いた。
問題は、そこではない。
俺は、去年と同じことをしようとしている。
去年、俺は黒井城を囲んだ。赤井直正を潰せば、丹波は片付くと思ったからだ。
最有力の敵を叩けば、他は従う。
――それが、間違いだった。
なぜか。
俺は、去年の敗因を紙に書き出した。
一、黒井城を囲んだ。
二、囲みが長引いた。
三、その間、丹波の他の国衆は、こちらを「見ていた」。
四、波多野が離反した。
五、囲みが崩れた。
――三だ。
俺は、その一行を丸で囲んだ。
包囲が長引いている間、丹波中が見ていた。
何を見ていたか。
――織田が、本当に強いのかどうかを。
そして、決めかねていた。
そこへ波多野が動いた。波多野は丹波の最有力国衆だ。その波多野が「織田は倒せる」と判断して動いた瞬間、他の国衆の計算も変わった。
(――これは、戦の話ではない)
俺は、地図から顔を上げた。
これは、市場の話だ。
丹波の国衆は、全員が「どちらに賭けるか」を見ている。誰かが動けば、他も動く。
――前世で言えば、株だ。
最初の大口が売れば、他も売る。
そして売りが売りを呼ぶ。
俺は、地図を見た。
(――なら、逆もできる)
◇
翌朝、俺は利三と、丹波に入っている明智の主だった者を集めた。
「今年の丹波攻めの、順を変える」
俺は、地図を広げた。
「黒井は、後回しにする」
全員が、面食らった顔をした。
「殿。赤井は丹波一の強敵にござる。あれを残しては」
「残す」
俺は言った。
「代わりに、周りから固める」
俺は、地図の上に石を置いた。
黒井と八上を囲む形で、周辺の小さな国衆の位置に。
「まず、この者どもだ。降っている者は、扱いを厚くする。書付を出し、所領を確かめ、村の損を書き留める」
「――既になさっておられます」
「もっとやる」
俺は言った。
「そして――目に見えるようにする」
「目に見えるように」という言葉に、皆が首を傾げた。
俺は説明した。
「たとえば、こうだ。降った国衆の村で、道を直す。橋を架ける。井戸を掘る」
「……戦の最中にでござるか」
「戦の最中だからだ」
俺は言った。
「隣の村から見える。『あそこは降ったら、道が良うなった』と」
沈黙が落ちた。
やがて、小畠が――この日、彼も同席していた――ぽつりと言った。
「――村の者は、それを見ておりまする」
「そうだ」
俺は頷いた。
「戦の勝ち負けは、遠い。だが道が直るのは、目の前だ」
◇
だが、問題があった。
金だ。
「殿。道を直し、橋を架け、井戸を掘るとなれば」
利三が、算盤を弾いた。
そして、渋い顔をした。
「――これは、戦の費えを超え申す」
「いくらだ」
利三が数字を言った。
俺は、額を押さえた。
高い。
明智の家では、到底出せない。
(――当たり前だ)
俺は、しばらく考えた。
そして、あることに気づいた。
「利三。この費えは、誰のためのものだ」
「――丹波の村のためかと」
「違う」
俺は言った。
「織田家のためだ」
利三が、目を瞬いた。
「丹波を早く鎮めれば、上様は次の手に進める。これは織田家の得になる」
俺は、紙を引き寄せた。
「――ならば、織田家に出させる」
利三が、絶句した。
「殿。それは……上様に、金を出せと」
「そうだ」
「叱られ申す」
「叱られるだろう」
俺は筆を取った。
「だが、黙って明智の蔵を空にすれば、それはそれで叱られる」
俺は書き始めた。
――丹波、道普請の儀に付き、費用願いの覚。
書きながら、俺は前世を思い出していた。
予算申請だ。
俺は、これが得意だった。
得意だったが――いつも通らなかった。
(――今度は、通す)
俺は、書き方を変えた。
「必要です」と書かない。
「これをやらないと、いくら損をします」と書く。
――丹波の平定が一年延びた場合、費える兵糧と人の数。
――そのために、他の戦線へ回せぬ兵の数。
――道普請にかかる費えと、その差引。
数字を並べた。
全部、この半年の棚卸しで手元にある数字だ。
書き終えて、俺は利三に渡した。
「これを、安土へ」
利三は、恐る恐る受け取った。
そして、読んだ。
読み終えて、顔を上げた。
「――殿」
「なんだ」
「これは、金を無心する文には見え申さぬ」
「そうか」
「――『金を出さねば、上様が損をする』と書いてござる」
俺は、笑った。
「そう読めるか」
「そうとしか読め申さぬ!」
利三が叫んだ。
「――上様は、なんと仰せになりましょうや」
俺は、外を見た。
丹波の山が、夏の光に沈んでいた。
「遅し」と書いてきた男に、今度は「金を出せ」と書き返す。
どう考えても、正気の沙汰ではなかった。
(――だが)
あの人は、数字で来る相手を、たぶん嫌わない。




