第22話 波多野秀治はなぜ離れたか
四半刻の決まりは、最初の三日、誰も来なかった。
当然だ。
「誰でも来い」と言われて来る者は、この時代にはいない。身分がある。序列がある。足軽が方面軍の総大将に直接話しかけるというのは、常識の外だ。
四日目、俺は場所を変えた。
陣幕の中ではなく、炊事場の脇に床几を出した。
そして、そこに座った。
飯の匂いがする。人が通る。荷が運ばれる。
俺は書付を読みながら、そこに座り続けた。
五日目の夕方、一人の男が近づいてきた。
荷駄を扱う人足だった。名を、太郎次という。
「――お、お殿様」
「うむ」
「あの、道のことにござるが」
太郎次は、しどろもどろに言った。
北へ抜ける山道が、雨で崩れかけている。今は通れるが、次の大雨で塞がる。塞がれば、荷が三日遅れる。
俺は、その場で利三を呼んだ。
そして、その日のうちに人を出した。
六日目から、列ができた。
◇
「殿。これは……効き申すな」
十日ほど経った頃、利三が唸った。
俺の手元には、書き取った紙が三十枚を超えていた。
道のこと。水のこと。荷のこと。兵の間の諍い。
どれも小さい。だが、どれも、放っておけば大きくなるものだった。
「利三。分かったことがある」
「は」
「この中に、去年の兆候と同じ種類のものが、いくつもある」
俺は、紙を数枚抜き出した。
――八上から来る荷が、細うござる。
――丹波の者と、明智の者が、飯を別に食っておる。
――こちらの命が、村まで届いておらぬ。
「これは、去年もあったはずだ。誰かが気づいていた」
「――されど、上がってこなんだ」
「そうだ」
俺は紙を束ねた。
「利三。組織というのは、目が下にしかない」
「……目が」
「事が起きる場所は、いつも下だ。荷が細るのも、飯が別になるのも、村で命が止まるのも、全部下で起きる」
俺は、紙を掲げた。
「だが、決める者は上にいる」
利三が、腕を組んだ。
「その間を、繋ぐものがない、と」
「あった。俺だ」
俺は言った。
「そして俺は、詰まっていた」
◇
六月の下旬、俺は八上の方角へ足を延ばした。
波多野の城だ。今は敵地だが、周辺の村までは入れる。
供は少なくした。戦をしに来たのではない。
村で、俺は年寄りに話を聞いた。
最初、誰も口を開かなかった。当然だ。攻めてきた側の大将が、いきなり村に来ている。
俺は、村の寺で三日過ごした。
三日目に、ようやく老人が一人、話をした。
「――波多野様は、悪いお方ではござらぬ」
それが、最初の言葉だった。
「うむ」
「年貢も、無茶は申されぬ。村の争いも、よう裁いてくださる」
「そうか」
俺は、書き取った。
「では、なぜ織田に降ったと思う」
老人は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「――勝てぬからでござろう」
「うむ」
「されど、勝てぬから降るのと、従うのは、別のことにて」
――出た。
俺は、筆を止めた。
「もう一度、言ってくれぬか」
老人は、怪訝な顔をした。
「……勝てぬから降るのと、従うのは、別のことにて」
俺は、それを一字一句、書き取った。
「――もうひとつ、聞かせてくれ」
「――は」
「――波多野様が織田に降られたとき、村では、なんと言うておった」
老人は、しばらく考えた。
「――『これで、戦が終わる』と」
「――そうか」
「――皆、そう申しておりました」
老人は、少し目を伏せた。
「――終わり申さなんだ」
俺は、筆を止めた。
(――そこか)
降伏には、必ず期待がついてくる。これで終わる、という期待だ。
そして、終わらなかったとき、その期待は恨みに変わる。
「――何が、変わらなんだ」
「――年貢にございます」
老人は、答えた。
「――前の年と、同じにございました」
俺は、書き取った。
(――当たり前だ)
織田が丹波を取っても、村から見れば、年貢を取る相手の名が変わるだけだ。
だが、村は「変わる」と思っていた。誰も「変わらない」と言わなかったからだ。
――言わなかったのは、こちらだ。
◇
その夜、寺の一室で、俺は考えていた。
服属と、統合。
現代の言葉なら、こうだ。
契約は、成立している。
だが統合は、まったく進んでいない。
企業買収でも、同じことが起きる。株式を取得して、経営権を握る。書類上は完了だ。
だが、買われた会社の社員は、心の中で「まだあの会社の人間だ」と思っている。仕事のやり方も変えない。飯も別に食う。
そして三年後、キーマンが一斉に辞める。
――波多野秀治は、辞めたのだ。
俺は、その表現に自分でぞっとした。
だが、構造としては近い。
波多野は織田に降った。だが「織田の人間」にはならなかった。
なぜか。
俺は、去年の記憶を掘った。
――俺は、波多野に何をした。
城を安堵した。所領を認めた。与力として遇した。
そして、それだけだ。
(――それだけ、なのか)
俺は、紙に書き出した。
波多野秀治に、俺が渡したもの。
――所領の安堵。
――与力としての地位。
波多野秀治に、俺が渡さなかったもの。
――なぜ織田に従うのかという説明。
――丹波がこれからどうなるのかという見通し。
――波多野家が、織田の中でどういう位置に立つのかという将来像。
――そして、波多野が家中に説明できる材料。
俺は、筆を止めた。
(――浅井長政と、同じだ)
波多野秀治もまた、家中を抱えていた。
八上城には、代々の重臣がいる。丹波の国衆同士の縁がある。彼らは織田を知らない。恐れている。
波多野が「織田につく」と決めたとき、家中はどう思ったか。
――なぜだ、と思ったはずだ。
そして波多野は、説明できなかった。
なぜなら、俺が説明していないからだ。
◇
翌朝、俺は寺の住職に、一つ頼んだ。
「――八上へ、文を届けてもらいたい」
住職は、青くなった。
「日向守様。それは」
「戦の文ではない。読めば分かる」
俺が書いたのは、こういう内容だった。
――波多野右衛門大夫どのへ。
――先年、貴殿が織田に属されし折、それがしは丹波の行く末について、何一つお話し申さなかった。
――これは、それがしの不調法である。
――今さら降れとは申さぬ。ただ、話をしたい。
――場所も、人数も、そちらで定められよ。
利三が、これを見て絶叫した。
「殿ッ! これは、あまりに――」
「危ないか」
「危ないなどというものでは! 敵の城へ、大将が単身で参るなど」
「単身とは書いておらぬ」
「されど、そう読めまする!」
俺は、筆を置いた。
「利三。落ち着け」
「落ち着けますか!」
利三は、本気で怒っていた。
俺は、少し待った。
利三の息が整うのを待って、言った。
「返事は、来ぬと思う」
利三が、目を瞬いた。
「――は?」
「波多野は、応じぬだろう」
俺は言った。
「去年、あの人はこちらを騙し討ちにした。今さら話し合いに応じれば、家中に示しがつかぬ」
「……では、なにゆえ」
「二つ、理由がある」
俺は、指を立てた。
「ひとつ。この文は、写しが残る」
利三が、眉を寄せた。
「――写し」
「そうだ。俺が丹波の国衆に何を言ったか、記録に残る」
俺は続けた。
「他の四十二家が、これを知る。『日向守は、敵にすら説明しようとした』と知る」
利三の目が、動いた。
「ふたつ」
俺は、二本目の指を立てた。
「――波多野の家中が、割れる」
利三が、息を呑んだ。
「この文は、波多野どの一人に宛てたものではない。八上城で、家中の者も読む」
俺は言った。
「そこには、こう書いてある。『説明しなかったのは、それがしの落ち度である』と」
利三が、ゆっくりと理解する顔をした。
「――家中の者は、こう思い申す。『では、われらは何も聞かされず、離反したのか』と」
「そうだ」
俺は頷いた。
「そして、こう思う者も出る。『今からでも、聞いてみたい』と」
俺は、文を封じた。
「利三。これは謀略ではない」
「――充分、謀略に見え申すが」
「本気で説明したいと思っている。それは嘘ではない」
俺は、住職に文を渡した。
「ただ――本気でやると、結果として敵が揺れる」
利三は、しばらく俺を見ていた。
そして、ぼそりと言った。
「殿。それがしは、近ごろ思うのでござるが」
「なんだ」
「――殿は、恐ろしいお方になられた」
◇
その夜、書付に一行だけ書いた。
――波多野右衛門大夫は、何を買おうとしていたか。
(――蜀にも、同じ男がいた)
孟達という。二人の主君のあいだに置かれ、どちらにも属せぬまま、最後にこちらを離れた。
あの男が離れたとき、俺はこう思った。裏切ったのだ、と。
だが、後で分かった。あの男は、二人の主君のどちらからも「おぬしはこちらの者だ」と言われたことがなかった。言われぬまま、両方から使われていた。
――所属を告げられぬ者は、いずれ自分で決める。
波多野も、たぶん、そうだ。
この書き方は、前の世で覚えたものだ。
人は物を買うのではない。片づけたい厄介ごとがあって、それを片づけるために物を雇う。穴を開けたいから錐を買う。錐が欲しいわけではない。
(――波多野が雇いたかったものは、何だ)
織田の傘か。違う。傘なら、毛利でもよかった。
所領の安堵か。近い。だが、それだけではない。
俺は、筆を止めた。そして、書いた。
――家中に説明できる、筋道。
あの人が欲しかったのは、これだ。
丹波の国衆は、皆、家中を抱えている。当主一人が「織田に降る」と決めても、家中がついてこなければ、その当主は寝首を掻かれる。だから当主が本当に必要としているのは、家中を説き伏せられる言葉なのだ。
俺は、それを渡さなかった。降れ、としか言わなかった。
――売る側は、己の売りたいものを説く。買う側は、己の困りごとを片づけたい。この二つは、めったに一致せぬ。
書きながら、腹の底が冷えた。
(――今も、同じことをしておらぬか)
俺は上様に、「制度が要ります」と説いている。
(――あの人が片づけたい厄介ごとは、何だ)




