第21話 丹波の傷
――橋の落ち方は分かった。支えの作り方は、まだだ。
――丹波には、去年の俺が殺した男がいる。
――同じ手で、同じ土地を、もう一度攻める。
天正五年、六月。
丹波は、深い緑に沈んでいた。
山が多い。谷が多い。そして――道が少ない。
亀山の陣所から北を見ると、山が幾重にも重なっている。あの向こうに黒井城がある。赤井直正の城だ。
俺は、その方角を見ながら、書付を開いた。
――丹波国衆、四十二家。
半年で、状況は変わっていた。
服属を明言した家が、二十六。まだ曖昧な家が、九。明確に敵対している家が、七。
数字だけ見れば、悪くない。
だが俺は、その数字を信用していなかった。
「利三」
「は」
「この二十六家のうち、いくつが本気だ」
利三が、渋い顔をした。
「――半分でござろうか」
「十三か」
「殿。それでも、以前よりは」
「以前は、いくつだった」
利三は、答えなかった。
俺は書付を閉じた。
答えは知っている。
去年の正月、この体は同じような一覧を持っていた。そして「服属した」と書かれていた家のうち、いくつが実際に離反したか。
――波多野秀治。
八上城の主。丹波の最有力国衆。
三年前、この男は織田方についた。俺の与力として、共に戦った。
そして去年の正月、黒井城の攻囲中に、背後から襲ってきた。
俺は、そこで大敗した。
◇
陣所の裏手に、小さな塚があった。
去年の正月、あの敗走で死んだ者たちの塚だ。
俺は、そこにしゃがみ込んで、しばらく動かなかった。
――この体は、覚えている。
雪だ。
正月の丹波は、雪が降る。
黒井城を囲んでいた。赤井直正は籠城していた。長引くと見て、俺は陣を固めていた。
そこへ、波多野が動いた。
背後の山から、旗が下りてきた。
最初、俺は――いや、明智光秀は、その旗を見て、味方の増援だと思った。
思ったのだ。
思っている間に、囲まれた。
(――両端を、縛られた)
俺は、塚の土に手を触れた。
この記憶は、俺のものではない。だが体は覚えている。あの日の寒さも、退却の号令を出したときの喉の裂けるような感覚も。
「殿」
利三が、後ろに立っていた。
「――お参りでござるか」
「いや」
俺は立ち上がった。
「調べに来た」
◇
その日から、俺は聞き取りを始めた。
相手は、去年の敗走を生き延びた者たちだ。
明智の家臣が二十人ほど。それから、当時こちらについていた丹波の国衆が数家。
聞くことは、決めていた。
――波多野が離反すると、事前に気づいた者はいたか。
最初の三日、答えは一様だった。
「気づき申さなんだ」
「まさか、と思い申した」
「あの折は、皆そう申しておりました」
(――浅井と同じだ)
俺は、その符合に寒気を覚えた。
「まさか、あの人が」
金ヶ崎で、織田家中の誰もが言った言葉だ。
そして去年の丹波で、明智家中の誰もが同じことを言った。
――信用は、リスクを見えなくする。
だが、四日目に、違う答えが出た。
小畠だった。
あの、書付を持って宇津へ交渉に行った男だ。
「――日向守様。それがしは、申し上げており申した」
俺は、手を止めた。
「――なんと」
「波多野様のご様子が、おかしいと」
俺は、書付を置いた。
「誰に言った」
「日向守様に」
――は。
俺は、この男の顔を見た。
「……いつだ」
「黒井を囲んで、十日ほど経った頃かと」
小畠は、言いにくそうに続けた。
「八上から来る兵糧の荷が、減っており申した。それと、使者の顔ぶれが変わり申した」
俺は、息を呑んだ。
――兆候だ。
しかも、極めて具体的な兆候だ。
「それを、俺に言ったのか」
「――申し上げました」
「俺は、なんと答えた」
小畠は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「――『分かった』と」
俺は、その三文字を、腹の底で受けた。
分かった。
(――何もしていない)
「小畠」
「は」
「それきりか」
「……はい」
「もう一度、言おうとは思わなかったか」
小畠は、目を伏せた。
「――思い申した」
「なぜ言わなかった」
「……」
「咎めているのではない。理由が知りたい」
小畠は、長いこと黙っていた。
そして、絞り出すように言った。
「――日向守様は、お忙しゅうござった」
俺は、目を閉じた。
「陣中で、皆が日向守様のご指図を待っており申した。荷のことも、道のことも、兵の割り振りも。それがしのような者が、確かでもない話でお呼び止めするのは」
「――憚られたか」
「……はい」
俺は、しばらく動けなかった。
(――これだ)
浅井の話ではない。
これは、俺の話だ。
情報は、上がっていた。
現場の人間が、正確な兆候を掴んで、報告していた。
だが、それは「確かでもない話」として扱われ、「分かった」の一言で処理され、そして二度と言われなかった。
なぜか。
俺が忙しかったからだ。
いや、違う。
俺が「忙しそうに見えた」からだ。
前世で、俺は同じことをしていた。
部下が「ちょっといいですか」と来る。俺は画面を見たまま「うん、なに」と答える。部下は五秒で話して、俺は「わかった、後で見る」と言う。
そして忘れる。
部下は二度目を言わない。
(――俺は、報告が来ない上司だった)
俺は、顔を上げた。
「小畠」
「は」
「――すまなかった」
小畠が、飛び上がるように平伏した。
「な、なにを仰せられます」
「おぬしは、仕事をした。俺が、しなかった」
俺は言った。
「そして、そのために人が死んだ」
塚の方向を、俺は見た。
小畠は、平伏したまま動かなかった。
◇
その夜、俺は陣所で紙を広げた。
書いたのは、たった一行だった。
――なぜ、二度目を言わせなかったのか。
これが、この部の問いだ。
浅井家中では、反対した者が「臆病者」と罵られて口を閉じた。
明智の陣では、報告した者が「分かった」と流されて口を閉じた。
罵倒と、生返事。
やり方は違う。だが結果は同じだ。
――二度目が、来なくなる。
俺は筆を進めた。
――報告が来ないのは、部下が無能だからではない。上が受け取らないからだ。
書きながら、俺は自分の胃が締まるのを感じていた。
これは、俺が前世で部下に言われたかったことでもある。
俺の上司は、俺の三十七ページを読まなかった。
そして俺は、小畠の一言を聞かなかった。
(――同じ側にいた)
俺は、ずっと自分を「聞いてもらえなかった側」だと思っていた。
だが、俺は同時に「聞かなかった側」でもあった。
「利三」
陣幕の外に声をかけた。
「は」
「明日から、決まりをひとつ作る」
「――丹波の陣中で、でござるか」
「そうだ」
俺は紙を掲げた。
「――日に一度、四半刻。誰でも俺に話せる時を作る」
利三が、面食らった顔をした。
「誰でも、とは」
「誰でもだ。足軽でも、荷を運ぶ人足でも」
「殿。それは、収拾がつき申さぬ」
「つかぬかもしれぬ」
俺は言った。
「だが、収拾のついた陣で、俺は去年、負けた」
利三は、しばらく黙っていた。
それから、渋い顔のまま、こう言った。
「殿。一つ、申し上げてよろしゅうござるか」
「言え」
「――四半刻では、足り申さぬ」
俺は、顔を上げた。
「三十人が来れば、一人あたり十を数える間もござらぬ。それでは、聞いたことになり申さぬ」
その通りだった。俺は、時を区切ることばかり考えて、人数を数えていなかった。
「利三。どうすればよい」
「――誰も来ぬ日は、四半刻で終わり申す。人が並んだ日は、並んだだけお聞きになればよろしゅうござる」
「それでは、決まりにならぬ」
「なり申す」
利三は、言った。
「『四半刻は必ず座る』が決まりにござる。『四半刻で終わる』は、決まりではござらぬ」
俺は、しばらくこの男を見ていた。
(――そういうことか)
決まりで縛るのは、下限だ。上限ではない。必ずやる部分だけを決めて、あとは伸ばせるようにしておく。
俺は、その場で書き直した。
――日に一度、申の刻。四半刻は、必ず座る。人が来れば、来た分だけ聞く。
「利三」
「は」
「――おぬしは、決まりの作り方が上手いな」
利三は、心底嫌そうな顔をした。
「殿。それは、褒め言葉でござるか」
「褒めている」
「――ならば、書付を減らしていただきたい」




