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天才創業者・織田信長の下で潰れる前に、本能寺が起きない組織を作ります~MBAホルダー明智光秀の事業承継計画  作者: 東雲 諒杏
第二章 浅井長政とお市、制度なき同盟

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第19話 茶々の問い


 部屋を辞そうとしたとき、廊下で小さな足音がした。

「母上」

 襖が開いた。

 少女が立っていた。

 八つか、九つか。背は低いが、目が大きい。そして――物怖じしない。

 俺を見て、少しも怯まなかった。

「客人ですか」

「茶々」

 お市の声が、少しだけ強くなった。

「無礼ですよ」

「無礼ではありません。挨拶をしに来ました」

 ――この娘。

 俺は思わず、感心した。

 言い返し方が、理屈になっている。

 少女は、俺の前に座り、手をついた。

「茶々にございます」

 俺は、慌てて平伏を返した。

「明智日向守にございます」

「明智」

 少女――茶々は、その二文字を口の中で転がした。

 そして、まっすぐ俺を見て、言った。

「明智は、織田の家臣ですか」

「――さようにございます」

「では、父上の敵ですね」

 部屋の空気が、凍った。

 お市が、鋭く言った。

「茶々」

「わたくしは、聞いているだけです」

 茶々は、母を見もしなかった。

 俺を見ていた。

 俺は――答えなければならなかった。

 嘘は、つけなかった。この目には、つけない。

「――さようにございます」

 茶々の眉が、動いた。

「それがしは、小谷の戦に加わっておりました」

 お市が、息を呑んだ。

 俺は続けた。

「山道の押さえをしておりました。城には入っておりませぬ。されど、浅井を攻めた軍の中に、それがしはおりました」

 茶々は、動かなかった。

 その大きな目が、じっと俺を見ていた。

 やがて、こう言った。

「正直に申されるのですね」

「――はい」

「なぜですか」

 俺は、答えを探した。

「――嘘をつけば、いずれ知られるからでございます」

「知られたら、どうなりますか」

「そのときには、それがしの申すことを、姫様は二度と信じられませぬ」

 茶々は、しばらく黙っていた。

 それから、意外な質問をした。

「日向守どのは、また来ますか」

 俺は、面食らった。

「――は」

「また、この城に来ますか」

「……分かりませぬ」

「なぜ分かりませんか」

「それがしの一存では、決められませぬゆえ」

「誰が決めますか」

 ――鋭い。

 この娘、八つか九つで、権限の所在を聞いている。

「上様が」

 俺が答えると、茶々は少し目を細めた。

「上様とは、伯父上のことですね」

「はい」

「伯父上は、父上を殺しました」

 ――来た。

 俺は、膝の上で拳を握った。

 お市が、何か言おうとして、やめた。

 茶々は、続けた。

「母上は、伯父上のところにいます。わたくしも、ここにいます。ご飯を食べています。着物ももらっています」

 俺は、黙って聞いていた。

「では――」

 茶々の声が、初めて、わずかに揺れた。

「織田は、父上の敵ですか。母上の家ですか」

 部屋が、静まり返った。

 俺は、この問いを、体の真ん中で受けた。

 (――ああ)

 これだ。

 これが、俺が作ろうとしている「制度」が届かない場所だ。

 俺は、書付を作った。四十二家の国衆に配った。婚姻の条々を草案した。取次役を置き、記録を残し、約束を書き留めることにした。

 だがそれは全部、大人の話だ。

 家と家の間の話だ。

 目の前の子供が抱えているのは、そのどれでもない。

 ――自分の中で、二つのものが繋がらない、という苦しみだ。

 父を殺した家に、養われている。

 それを憎めば、母を否定することになる。

 受け入れれば、父を裏切ることになる。

 どちらも選べない。

 (――両端を、縛られている)

 俺は、深く息を吸った。

 そして、言った。

「――姫様。それがしには、答えられませぬ」

 茶々の目が、揺れた。

「答えられぬ、と申しますか」

「はい」

「なぜですか」

「それは、姫様がお決めになることでございますゆえ」

 俺は、続けた。

「織田が敵か、家か。それを決めるのは、それがしでも、上様でも、母上様でもございませぬ」

「――わたくしが」

「はい」

 茶々は、しばらく黙っていた。

 そして、少し怒ったように言った。

「ずるい答えです」

 俺は、思わず笑ってしまった。

「――仰せの通りにございます」

「笑いましたね」

「笑いました」

「なぜですか」

「――姫様が、それがしより頭が良いからでございます」

 茶々は、目を丸くした。

 それから、少しだけ、口の端を動かした。

「日向守どの」

「は」

「では、ずるくない答えを、いつか持ってきてください」

 俺は、深く頭を下げた。

「――承りました」


    ◇


 岐阜を出て、湖のほとりを南へ下る道すがら、俺は馬上でずっと黙っていた。

 利三が、しばらくして言った。

「殿。よろしゅうござったので」

「何がだ」

「――お姫様に、あのようなことを」

「よろしくない」

 俺は、正直に言った。

「あれは逃げだ」

 利三が、何も言わなかった。

 俺は続けた。

「あの子は、答えが欲しかったのではない。誰かが、その問いを引き受けてくれるかどうかを試していた」

 俺は、手綱を握り直した。

「そして俺は、引き受けなかった」

 ――ずるい答えです。

 その通りだ。

 「あなたが決めることです」というのは、自由を渡しているようで、実は責任を押し付けている。八つの子供に、両親の戦争の意味を自分で整理しろと言っている。

 前世でも、俺は同じことを言った。

 「自分で考えてみて」と。

 あれは、答えを持っていない上司の常套句だ。

「利三」

「は」

「――俺は、いずれ、あの問いに答えねばならぬ」

「……いつでござる」

 俺は、答えられなかった。


    ◇


 坂本に戻ったのは、四月の初めだった。

 城に着くなり、俺は玉を呼んだ。

 玉は、書付の束を持ってきた。

 俺が丹波から送った、婚姻の条々の草案だ。

「読んだか」

「読みました」

「どう思う」

 玉は、少しも遠慮しなかった。

「――穴だらけです」

 俺は笑った。

「言ってみよ」

「一条目。『嫁ぐ本人に、目的と背景を告げること』。これは良いと存じます」

「うむ」

「されど、告げるだけでございます」

 玉は、紙を指した。

「聞いた娘が、嫌だと申したら、どうなりますか」

 ――そこか。

 俺は、答えられなかった。

「二条目。取次役を置く。これも良いと存じます。されど、その取次役は誰に仕えておりますか」

「――実家だ」

「では、婚家に不利なことは、婚家に伝えませぬね」

「……」

「三条目。盟が破れたときの処遇を定める。定めても、破ったほうが強ければ、守られませぬ」

 玉は、紙を置いた。

 そして、俺を見た。

「父上。この決まりは、守る力を持っておりますか」

 俺は、しばらく黙っていた。

 この娘は、制度設計の最大の急所を突いている。

 ――執行力だ。

 どれだけ美しいルールを作っても、破った者を罰する力がなければ、ただの紙だ。

 前世でも同じだった。行動規範を掲げても、実際に違反した役員が処分されなければ、その規範は死ぬ。

「玉」

「はい」

「持っておらぬ」

 俺は認めた。

「今のこれは、ただの紙だ」

 玉は、静かに頷いた。

「では、いかがなさいます」

 俺は、少し考えた。

 そして、言った。

「――上様に、書かせる」

 玉が、目を見開いた。

「明智の家の決まりでは、力を持たぬ。だが織田家の法度になれば、話は変わる」

 俺は、書付を手に取った。

「そこまで持っていく」

 玉は、しばらく俺を見ていた。

 そして、初めて――笑った。

「父上」

「なんだ」

「――正直に申されましたね」

 俺は、少し笑った。

「嘘をつけば、いずれ知られるからな」

 玉は、書付を胸に抱いた。

「白紙は、まだ埋まりませぬ」

「うむ」

「けれど――」

 玉は、そう言って立ち上がった。

「一行目は、書かれました」


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