第18話 小谷落城の記憶
その日、俺はもう一つ、聞かねばならないことがあった。
だが、聞けなかった。
御簾の向こうの人は、それきり口を閉ざしてしまった。俺は礼を述べて、部屋を出た。
廊下で、利三が青い顔をしていた。
「殿。それがし、生きた心地がいたしませなんだ」
「俺もだ」
「――嘘を仰せられるな」
利三は本気で怒っていた。
「殿は、面白がっておられた」
俺は、否定できなかった。
◇
岐阜を発つ前夜、宿で俺は書き取りをしていた。
お市の言葉を、忘れないうちに紙に落とす。
――恨んでおりませぬ。されど、許してもおりませぬ。
――男というものは、なにゆえ、話をせぬのでございましょう。
――話をせよ、と。
書きながら、俺は自分の記憶を掘っていた。
この体は、小谷落城の場にいた。
天正元年八月。俺は――明智光秀は、その戦に加わっている。
思い出そうとすると、また感覚から来る。
夏の匂い。汗と、埃と、そして焼けた木の匂い。
山だ。小谷城は、山城だった。険しい山道を、兵が列になって登っていく。
浅井は、三年持ちこたえた。
だが、朝倉が滅んだ。
朝倉義景が越前で敗れ、自害した。それが八月の下旬。
そして数日後、小谷が落ちた。
――速い。
俺は、その速さを思い出して、身震いした。
三年動かなかった戦線が、朝倉が消えた瞬間、数日で終わった。
(――当たり前だ)
浅井が三年持ったのは、浅井が強かったからではない。朝倉という後ろ盾があったからだ。
後ろ盾が消えれば、終わる。
現代なら、こう言う。
――親会社が倒れれば、子会社は数日で資金が尽きる。
◇
落城の日のことを、この体は覚えている。
俺は本丸には入っていない。俺の役目は別のところにあった。
だが、覚えていることがある。
――赤い。
山の上が、赤かった。
そして、その赤い光の中を、人が降りてきた。
女と、子供だ。
小さな娘が三人。一番上でも、まだ四つか五つ。末の子は、乳飲み子だった。
その先頭に、女がいた。
背筋が伸びていた。
振り返らなかった。
――一度も。
俺は、その光景を、山道の途中で見た。
そして、思ったことも覚えている。
(――なんと、静かなことか)
泣き叫んでいなかった。取り乱してもいなかった。ただ、娘たちの手を引いて、山を降りてきた。
(――強い方だ)
当時の俺は、そう思った。
だが今の俺は、違うことを思っている。
――あの静けさは、強さではない。
三年かけて、この人は「取り乱すことを許されない立場」に置かれ続けた。
城中で、織田の女と呼ばれ、内通者と疑われ、それでも一言も弁明できなかった。
弁明すれば、疑いが深まる。泣けば、弱さと言われる。怒れば、織田の血だと言われる。
だから、黙るしかなかった。
三年の沈黙が、あの背筋を作った。
◇
「利三」
俺は、筆を置いた。
「は」
「小谷が落ちた日、俺は何をしていた」
利三が、怪訝な顔をした。
「――殿は、山道の押さえにおられました」
「そうか」
「殿。まことに、お忘れになったので」
「……忘れてはおらぬ」
俺は言った。
「思い出しても、意味が分からぬのだ」
利三は、しばらく黙っていた。
それから、意外なことを言った。
「殿は、あの日、山道で長いこと立っておられました」
俺は、顔を上げた。
「――立っていた」
「お方様の一行が通り過ぎた後も、しばらく」
利三は、言葉を選ぶように続けた。
「それがしがお声をかけると、殿はこう仰せでござった」
「……なんと」
「――『あれは、誰の咎か』と」
俺は、筆を落としそうになった。
(――こいつは)
明智光秀という男は、三年前に、既にその問いに辿り着いていた。
この体の前の持ち主は、愚かではなかった。
問いは、立てていた。
だが答えを出す方法を、持っていなかった。
この時代には、組織を分析する言葉がない。制度という発想がない。だから、問いは問いのまま宙に浮き、やがて胸の底に沈む。
沈んだものは、腐る。
(――そして六年後、燃える)
俺は、深く息を吐いた。
「利三」
「は」
「そのとき、俺は何と答えた」
「――何も」
利三は言った。
「殿は、それきり黙って山を降りられました」
◇
翌朝、岐阜を発つ前に、俺はもう一度呼ばれた。
同じ部屋。同じ御簾。
だが今度は、御簾が上がっていた。
俺は、目を伏せた。
女性の顔を直接見るのは、この時代、非礼だ。
「日向守どの」
声がした。
「顔を上げてくださいませ」
「――しかし」
「上げよと申しております」
俺は、顔を上げた。
そこに、その人はいた。
三十を少し出た頃だろう。噂に聞く通りの、整った顔立ちだった。
だが俺が見たのは、目だった。
――信長と、同じ目だ。
眠たげで、何も感じていないように見えて、こちらの汗の数まで数え終わっている目。
思わず、視界の隅を意識した。
あの半透明の板が、浮かびかけて――浮かばなかった。
(……出ない?)
俺は内心で戸惑った。
これまで、対面して言葉を交わした相手には、必ず出た。信長にも、利三にも、丹羽長秀にも、村井貞勝にも。
だが、この人には出ない。
「日向守どの」
「――は」
「昨夜、考えておりました」
お市は、静かに言った。
「あなた様の申される決まりは、無理だと申しました」
「はい」
「あれは、少し違うておりました」
俺は、身を乗り出しかけた。
「無理なのではございませぬ。――遅かったのでございます」
俺は、息を呑んだ。
「わたくしのときには、間に合いませなんだ。それだけのこと」
お市は、そこで一度、庭に目をやった。
「日向守どのには、お嬢様がおられると聞きました」
「……はい」
「おいくつになられます」
「――十三に」
「そうですか」
お市は、しばらく庭を見ていた。
そして、言った。
「わたくしが浅井に嫁いだのは、二十歳のときでございます」
「……」
「そのとき、誰も、わたくしに何も申しませなんだ」
俺は、平伏しかけた。
「兄も、母も、家中の者も。ただ『浅井へ嫁ぐ』と。それだけ」
お市の声は、静かだった。
責めてはいなかった。ただ、事実を述べていた。
「わたくしは、何のために嫁ぐのかを知らずに、嫁ぎました」
俺は、目を閉じた。
「そして、何のために嫁いだかを知らぬまま、家が滅びました」
部屋が、静かになった。
やがて、お市は言った。
「日向守どの」
「は」
「お嬢様には、お話しなさいませ」
「――はい」
「嘘でも、飾りでもなく、まことのことを」
俺は、深く頭を下げた。
「もし、家のためだと仰せなら、そう仰せなさいませ。守れぬところは守れぬと。それを聞いた上で嫁ぐのと、知らずに嫁ぐのとでは――」
お市は、そこで言葉を切った。
少しの間があった。
「――三年目に、違いまする」
俺は、その言葉を、体の芯で受け止めた。
三年目。
小谷が囲まれてからの、三年目だ。
城中で疑われ、弁明できず、それでも生きねばならなかった三年目に、この人を支えたのは何だったのか。
――知っていたかどうか、だ。
なぜ自分がここにいるのか。何を背負わされているのか。それを事前に聞かされていたなら、耐え方が違った。
制度は、その瞬間には何もしてくれない。
だが、事前に知らせておくことは、後から効く。
「市どの」
俺は言った。
「――必ず、書き記します」
お市は、初めて、少しだけ表情を動かした。
笑ったのかもしれなかった。
「日向守どの」
「は」
「――兄に、お伝えくださいませ」
俺は、顔を上げた。
お市は、庭を見たまま言った。
「『茶々が、大きくなりました』と」
俺は、その伝言の意味を、しばらく掴めなかった。
だが後で気づいた。
あれは、恨みでも、許しでもない。
――報告だ。
三年間、誰も渡さなかった、家族の間の報告。
この人は、それを俺という「取次役」に託した。




