第17話 お市の沈黙
年が明けた。
天正五年。
丹波の陣は、冬の間ほとんど動かなかった。雪が深い。だが動かない冬の間に、俺は四十二家すべてに書付を配り終えた。
効果は、思ったより早く出た。
春先、宇津が使者を寄越した。降伏の条件を話し合いたい、と。
条件、という言葉が出たこと自体が、変化だった。
これまでは「降るか、滅ぶか」の二択だった。条件を出すということは、話をする気があるということだ。
「利三。宇津の使者に、何と答えた」
「『条件を書いて持ってこい』と」
俺は思わず笑った。
「おぬし、俺に似てきたな」
「――ぞっとすることを仰せられるな」
◇
三月。
俺は安土に呼ばれ、そして――帰りに、思いがけない場所へ立ち寄ることになった。
きっかけは、村井貞勝だった。
京都所司代。信長の畿内行政を一手に握る男だ。年は六十に近い。顔に表情がない。
安土城の廊下ですれ違ったとき、この人は俺を呼び止めた。
「日向守どの。丹波の書付、拝見いたした」
「――は」
「上様が、写しを回されましてな」
俺は、内心で驚いた。
信長は、俺の書付を家中に回している。
「あれは、何のためのものか」
村井貞勝は、感情のない声で聞いた。
俺は答えた。
「約束を、忘れぬためにございます」
「忘れぬため、と」
「はい」
「――誰が忘れるので」
俺は、この人を見た。
試されている、と感じた。
「それがしが」
村井の眉が、わずかに動いた。
「己が忘れると」
「はい。人は忘れます。それがしも忘れます。ゆえに書きます」
村井貞勝は、しばらく俺を見ていた。
そして、こう言った。
「――日向守どの。京へ来られよ」
「は?」
「見せたいものがある」
◇
村井貞勝が見せたのは、帳面だった。
京の所司代の役所。その奥の一室に、それは並んでいた。
棚一面。天井まで。
俺は、しばらく言葉を失った。
「――これは」
「京の記録にござる」
村井は、無表情のまま言った。
「町の名。家の数。役の割り当て。訴えと、その裁き。上様が京へ入られてより、九年分」
俺は、一冊を手に取る許しを得て、開いた。
整っていた。
日付がある。件名がある。関わった者の名がある。そして――決めた理由が、書いてある。
俺は、震える指でページをめくった。
これは、議事録だ。
完全な議事録が、九年分。
「村井様」
「なんでござる」
「――これを、お一人で」
「右筆が三人おり申す」
村井は、淡々と言った。
「されど、書式を決めたのはそれがしにござる」
俺は、帳面を閉じた。
そして、深く頭を下げた。
「――教えていただきたい」
「は?」
「この書式を。それがしの領でも、同じものを使いとうございます」
村井貞勝は、初めて、少しだけ動いた。
目の奥が、動いた。
「……日向守どの。これは、地味な仕事にござる」
「存じております」
「誰も、褒めませぬ」
「――はい」
「上様も、この帳面をご覧になったことはござらぬ」
俺は、顔を上げた。
村井は、棚を見ていた。
「されど、何かあったとき、上様は必ずお尋ねになる。『あのときはどうであった』と」
そして、少しだけ、口の端を動かした。
「そのとき、答えられる者が一人おれば、それでよい」
俺は、この人の顔を見た。
(――ああ)
この人は、褒められることを諦めている。
諦めた上で、九年間、書き続けている。
俺は、もう一度頭を下げた。
「村井様。それがしは、褒めます」
村井貞勝は、面食らったような顔をした。
それから、ふん、と鼻を鳴らして、背を向けた。
「――前例がござらぬな。褒められるのは」
◇
その帰り道だった。
京から安土へ戻る途中、俺は道を逸れた。
供は利三だけにした。
向かったのは、岐阜だった。
◇
織田信忠の居城である岐阜城の一角に、その人はいた。
小谷を出て三年。お市は、兄の庇護の下で三人の娘を育てている。
面会は、簡単には許されなかった。当然だ。他家の男が、当主の妹に会う理由がない。
だが村井貞勝の一筆があった。俺が京で頭を下げたことが、この人には面白かったらしい。
通されたのは、庭に面した部屋だった。
御簾が下りていた。
顔は見えない。
「――明智日向守にございます」
俺は平伏した。
返事は、なかった。
しばらく、庭で鳥が鳴く音だけがした。
俺は、そのまま待った。
やがて、御簾の向こうから、静かな声がした。
「日向守どの」
「は」
「なにゆえ、参られました」
俺は、顔を上げた。
用意してきた言葉が、いくつかあった。だが、そのどれも喉を通らなかった。
俺は、正直に言った。
「――お尋ねしたきことがございます」
「なんなりと」
「小谷におられた三年、いかがでございましたか」
沈黙。
長い沈黙だった。
利三が、後ろで身じろぎするのが分かった。
無礼を承知の質問だった。滅んだ家の話を、その家の当主の妻だった人に聞いている。
やがて、御簾の向こうから声がした。
「――日向守どのは、なぜそれをお知りになりたい」
「制度を、作りたいと考えております」
「制度」
「――嫁がれた方が、両家の間で潰れぬための決まりを」
また、沈黙。
今度は、もっと長かった。
やがて、こう聞こえた。
「……無理でございましょう」
俺は、顔を上げた。
「――なにゆえ」
「決まりは、家と家の間のもの。わたくしは、家の内におりました」
俺は、その言葉の重さを、飲み込むのに時間がかかった。
家と家の間の取り決めは、確かに作れる。
だが、嫁いだ女が実際に生きているのは、婚家の「内側」だ。城の奥だ。そこには、外の取り決めは届かない。
誰が誰をどう見るか。誰が誰に何を言うか。それは制度の外側にある。
「――仰せの通りかと存じます」
俺は認めた。
「それがしの考える決まりは、家と家の間にしか届きませぬ」
「はい」
「されど」
俺は、続けた。
「家と家の間さえ定まっておらねば、内はもっと荒れまする」
御簾が、少し揺れた。
「三年、囲まれておられた間」
俺は言った。
「城中では、市どのを『織田の女』と申す者もあり、『あの方ゆえ織田は攻めきれぬ』と申す者もあったと聞いております」
沈黙。
「どちらであったとしても、市どのご自身が、何を言われても、覆せませなんだ」
御簾の向こうは、静かだった。
「なにゆえかと申せば――市どのの立場を、どこにも書いたものがなかったからにございます」
俺は、平伏した。
「織田の妹君であり、浅井の御台所である。その両方であることを、どちらの家も、認めておりませなんだ」
長い沈黙が落ちた。
庭の鳥が、また鳴いた。
やがて。
「――日向守どの」
声が、わずかに変わっていた。
「は」
「兄は、なんと申しておりました」
俺は、息を呑んだ。
この人は今、それを聞いた。
三年、聞けなかったことを。
「――『市をやった』と」
御簾の向こうが、静止した。
俺は、続けた。
「そして、こうお尋ねになりました。『あれは、わしを恨んでおると思うか』と」
沈黙。
俺は、待った。
どれくらい経ったか。
御簾の向こうから、小さな音がした。
息を吸う音だった。
それから、こう聞こえた。
「――恨んでおりませぬ」
俺は、頭を下げた。
「されど」
声が、続いた。
「――許してもおりませぬ」
俺は、動けなかった。
御簾の向こうで、その人は、静かに言った。
「兄は、備前守どのに、何も言いませなんだ」
「……はい」
「備前守どのも、兄に、何も申されませなんだ」
声が、少しだけ震えた。
「男というものは、なにゆえ、話をせぬのでございましょう」
俺は、答えられなかった。
答えられないまま、頭を下げていた。
「日向守どの」
「は」
「その決まりとやらに、ひとつ、入れてくださいませ」
「――なんなりと」
御簾の向こうから、静かに、しかしはっきりと、声がした。
「――話をせよ、と」




