第16話 小豆袋の真実
丹波の陣は、冬の入り口だった。
亀山に置いた仮の陣所は、風が抜ける。俺は火鉢を抱えるようにして、国衆の一覧を広げていた。
利三が持ってきた新しい書き込みを、順に読む。
――内藤。降伏の際、旧領安堵を口約。約したのは家中の某。書付なし。
――宇津。服属せず。周辺の村と縁が深い。
――赤井。荻野。敵対。黒井城。
黒井城の三文字で、俺の指が止まった。
今年の正月。この体は、そこで大敗している。
赤井直正の反撃を受け、そして――背後にいたはずの波多野秀治が離反した。挟まれた。
(両端を、縛られた)
俺は火鉢に手をかざした。
この一覧を作りながら、俺は自分の失敗の輪郭を、少しずつ見つめ直していた。
波多野は、なぜ離れたのか。
その答えは、まだ紙の上にない。
◇
その夜、陣所に古い顔が訪ねてきた。
庄兵衛だ。坂本の蔵番を、わざわざ丹波まで呼び寄せた。
寒い中を歩かせて申し訳なかったが、聞かねばならないことがあった。
「庄兵衛。ひとつ、確かめたいことがある」
「なんなりと」
「――小豆の袋の話だ」
庄兵衛の顔が、ぴくりと動いた。
俺は続けた。
「金ヶ崎の折、市どのが上様に、両端を縛った小豆の袋を送られたという。前と後ろを塞がれる、という報せであったと」
「……その話は」
「巷で言われている。真か」
庄兵衛は、しばらく黙っていた。
そして、慎重に言った。
「――それがしは、存じませぬ」
「知らぬ、とは」
「小谷におり申したが、そのような話は、聞き申さなんだ」
俺は、筆を止めた。
「では、後から出た話か」
「……分かり申さぬ。奥のことは、われらには」
庄兵衛は、そこで言葉を切った。
「されど、殿。ひとつだけ、申せることがござる」
「言え」
「――もし本当であれば、お方様は、命懸けにござる」
俺は、頷いた。
その通りだ。
この時代、嫁いだ女が実家に軍事情報を流せば、婚家では死罪だ。子も無事では済まない。
(――そこだ)
俺は火鉢の縁を指で叩いた。
この逸話が本当かどうかは、たぶん確かめようがない。後世の作り話かもしれない。
だが、作り話だとしても、意味がある。
人が、そういう話を作りたがるということだ。
「庄兵衛。もうひとつ聞く」
「は」
「小谷の城中で、市どのは、どう見られていた」
庄兵衛は、火鉢の炭を見た。
しばらくして、答えた。
「――織田の女、と」
俺は、目を閉じた。
「三年、囲まれておりました間、城中の者は……その、いろいろと申しており申した」
「言え」
「『あの方がおられるゆえ、織田は攻めきれぬのだ』と申す者もおれば」
庄兵衛は、言いにくそうに続けた。
「『あの方が、内から通じておられるのだ』と申す者も」
――両方だ。
俺は、その二つを書き取った。
守護神扱いと、内通者扱い。
同じ人間が、同時に、両方だと思われている。
「して、どちらが多かった」
「――日によって、でござる」
庄兵衛は、苦笑いのような顔をした。
「戦がうまくいけば、お方様のおかげと申し、負ければ、お方様のせいと申す」
俺は、筆を置いた。
これだ。
これが、橋の上に立たされた人間の実態だ。
両方の岸から、都合よく解釈される。功績も、責任も、そのときの気分で押し付けられる。そして本人には、どちらにも反論する権利がない。
(――前世でも見た)
合併した会社の、統合先から来た役員。
うまくいっているときは「両社の架け橋」と持ち上げられ、こじれると「あちら側の人間」と言われる。
俺は紙に書いた。
――橋になった者は、両岸から評価され、どちらにも属さない。
その下に、書き足した。
――ゆえに、橋には、身分の保証がいる。
◇
翌朝、俺は陣中で書付を作り始めた。
題を、こう置いた。
――婚姻に付き、定むべき条々(草案)。
まだ、思いつくままだ。
一、嫁ぐ本人に、婚姻の目的と背景を告げること。
二、実家と婚家の双方に取次役を置き、互いにその存在を明らかにすること。
三、盟が破れたる場合の、本人および子の処遇を、婚姻の際に定めておくこと。
四、本人の身柄について、実家・婚家いずれの一存でも決めぬこと。
書きながら、俺は自分の手が止まるのを感じた。
――四条目。
これは、この時代の常識と真っ向からぶつかる。
嫁いだ女は、婚家のものだ。実家が口を出すのは越権であり、逆に婚家が女を処断するのも、家の内のことだ。
その両方を否定しようとしている。
(――通らないな)
俺は苦笑した。
前世の会社で、俺は同じことを何度もやった。理想的な制度案を書いて、法務と人事に潰された。「うちの就業規則と矛盾します」と。
だが。
俺は筆を持ち直した。
通らない案でも、書いておく意味はある。
いつか状況が変われば、引き出しから出せるからだ。
そして――
「利三」
陣幕の外にいた利三が入ってきた。
「は」
「これを、写せ」
「……また紙で」
「二部だ。一部は俺が持つ。もう一部は」
俺は、少し考えた。
「――坂本に置け。玉に渡せ」
利三が、怪訝な顔をした。
「お嬢様に、でござるか」
「そうだ」
「――なにゆえ」
俺は、火鉢を見た。
「読ませると、約束した」
◇
その日の午後、俺は陣中で、丹波の国衆の一人と会った。
名を、小畠という。この地の土豪で、早くから明智方についている数少ない一人だ。四十がらみの、日焼けした男だった。
俺は最初に、詫びた。
「正月の黒井では、迷惑をかけた」
小畠が、驚いた顔をした。
「……お、恐れ入りましてござる」
「あのとき、そなたの村は焼かれたと聞く」
「……はい」
「償いは、まだしておらぬな」
小畠は、しばらく言葉を探していた。
そして、こう言った。
「日向守様。戦にござれば、村が焼けるのは」
「当たり前だ、と申すか」
「……はい」
「当たり前にしてはならぬ」
俺は言った。
「そなたらは、織田に降ったのではない。俺を通じて降った。ならば、そなたらの損は、俺の損だ」
小畠の目が、動いた。
俺は続けた。
「小畠。これから、こちらに降った村については、焼かれた分を書き留める。すぐには償えぬかもしれぬ。だが、記録は残す」
「……記録を」
「記録がなければ、償いは永久に来ぬ。誰も覚えておらぬからだ」
小畠は、黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「――日向守様は、変わられましたな」
この地でも言われるのか。
「そう見えるか」
「以前は、こう仰せでござった。『いずれ報いる』と」
俺は、その言葉に、少し胃が痛んだ。
いずれ報いる。
――前世で、俺が部下に言い続けた言葉だ。
この案件が終わったら、必ず評価する。今は苦しいが、必ず報いる。
そして、報いる前に、部下は辞めた。
俺が悪意で嘘をついたのではない。ただ、覚えていなかったのだ。約束した瞬間は本気だった。だが半年経てば、別の火事が起きている。
(――記録がなければ、善意は消える)
俺は筆を取り、紙に書いた。
「小畠。今日の話も書く。日付と、そなたの名と、村の名と、何を約束したかを」
「――は」
「そして、この写しを、そなたに渡す」
小畠が、目を見開いた。
「よろしいので」
「よい」
俺は書き終えた紙を差し出した。
「これは、俺への縄だ」
小畠は、両手で受け取った。
そして、しばらく、その紙を見ていた。
彼の目が、少しずつ変わっていくのが分かった。
紙は、この時代、高価だ。
その紙に、自分の村の名と、領主の約束が書かれている。花押まで据えてある。
それは、この男が生まれて初めて手にする「証書」だった。
「日向守様」
「なんだ」
「――他の者にも、これをなされますか」
俺は頷いた。
「四十二家、全部にだ」
小畠は、深く頭を下げた。
頭を下げたまま、少し震えているように見えた。
「……お待ちくださいませ」
「なんだ」
「宇津の者と、話をしとうございます」
俺は、顔を上げた。
宇津。まだ服属していない、丹波の有力な国衆だ。
「――そなたが、繋ぐと申すか」
「繋ぎまする」
小畠は、紙を懐にしまった。
「この紙を、見せまする」




