第15話 小谷城の評定
丹波の陣に戻る前夜。
俺は書院で、一枚の紙を睨んでいた。
そこには、こう書いてある。
――なぜ、浅井家中は割れなかったのか。
これは、この一月ずっと引っかかっていたことだった。
浅井長政が織田を裏切ったとき、家中は割れなかった。少なくとも、大きくは割れなかった。三年間、小谷城は落ちなかった。最後まで、家臣は長政と共にいた。
――なぜだ。
長政の選択は、家を滅ぼす道だった。誰の目にも、織田に勝ち目はなかった。
それなのに、誰も止めなかったのか。
いや。
俺は筆を置いた。
(――止められなかったのではないか)
◇
その夜、書院に集めたのは、たった一人だった。
年老いた男だ。名を、庄兵衛という。もとは浅井の家臣で、家が滅んだ後、明智に拾われた。今は坂本の蔵を預かっている。
利三が探し出してきた。
この男は、最初、口が重かった。当然だ。滅んだ家の話を、今の主君に問われている。何を言えば咎められるか分からない。
俺は、まず茶を出した。それから、こう言った。
「庄兵衛。今日の話は、書き残す」
男の顔が、強張った。
「されど、おぬしの名は書かぬ。誰から聞いたかは、俺と、書く者しか知らぬ」
「……」
「そして、この話を咎めることは、決してせぬ」
俺は、そこで言葉を切った。
「約束する、と言っても信じられぬだろう」
庄兵衛は、目を伏せた。
「――恐れながら」
「うむ」
「信じられませぬ」
いい答えだった。
俺は頷いた。
「では、こうしよう」
俺は紙を出した。
「これに、俺が今言ったことを書く。書いて、おぬしに渡す。俺の花押も据える」
庄兵衛が、驚いて顔を上げた。
「もし俺が約束を破ったら、それを持って、上様に訴え出よ」
利三が、後ろで息を呑む音がした。
俺は書いた。書いて、渡した。
庄兵衛は、震える手でそれを受け取り、しばらく見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「……備前守様も、こういうお方でござった」
◇
庄兵衛の話は、四刻に及んだ。
俺は要点だけを書き取った。
――元亀元年。朝倉攻めの報が、小谷に届いた日。
城内は、混乱した。
当然だ。同盟者の織田が、恩義のある朝倉を攻めている。
その日、小谷城で評定が開かれた。
「どのような評定だった」
俺が問うと、庄兵衛は少し考えて、答えた。
「――評定とは、申せませぬ」
「なぜだ」
「はじめから、決まっておりましたゆえ」
俺は、筆を止めた。
「決まっていた、とは」
「大殿が――久政様が、口を開かれる前から、皆の顔が朝倉を向いており申した」
庄兵衛は、湯呑みを両手で包んだ。
「浅井の家は、朝倉に助けられて今がござる。それは、家中の誰もが知っておることにて」
「では、備前守どのは」
「――何も、仰せになりませなんだ」
俺は、その言葉を書き取った。
何も言わなかった。
「一同が朝倉、朝倉と申す中で、備前守様は、ただ座っておられた」
「どれくらいだ」
「……半日は」
半日。
俺は、その光景を想像した。
二十六歳の当主。父は隠居しているが、家中には父の代からの重臣が並んでいる。全員が「朝倉につくべし」と言っている。
当主は、黙っている。
「そして、なんと仰せに」
「――『わしは、備前守である』と」
俺は、顔を上げた。
「それだけだ」
「それだけにござる」
庄兵衛は、目を伏せた。
「その一言で、決まり申した」
俺は、しばらく筆を動かせなかった。
――『わしは、備前守である』。
浅井備前守長政。
浅井家の当主である、という意味だ。
だがそれは同時に、こういう意味でもある。
――わしは、織田の妹婿ではない。浅井の当主である。
(……これは)
俺は、背筋が冷えるのを感じた。
これは、決断ではない。
これは、降伏だ。
家中の空気に対する、降伏。
「庄兵衛」
「は」
「――誰も、反対しなかったのか」
庄兵衛が、湯呑みを置いた。
そして、長い沈黙のあとに、言った。
「一人、おり申した」
俺は、身を乗り出した。
「誰だ」
「名は、申せませぬ」
「なぜだ」
「――生きておりますゆえ」
俺は、口を閉じた。
この時代に生きるということは、そういうことだ。
「その者は、なんと言った」
庄兵衛は、目を閉じた。
記憶を辿るように、ゆっくりと言った。
「『織田を敵にすれば、浅井は滅びまする。朝倉と共に滅びとうござるか、それとも浅井として生き残りとうござるか』と」
――正論だ。
俺は思った。
完全に、正しい。
「――して、皆はなんと」
「『臆病者』と」
庄兵衛は、目を開けた。
「その者は、それきり、評定で口を開きませなんだ」
俺は、筆を握ったまま動けなかった。
これだ。
これを、俺は知っている。
前世の会議室で、何度も見た。
正論を言った者が、「後ろ向き」「前例主義」「やる気がない」と切り捨てられる光景を。
一度切り捨てられた者は、二度と口を開かない。
そして次の会議では、誰も正論を言わなくなる。
(――だから割れなかったのか)
浅井家中が割れなかったのは、団結していたからではない。
反対を、言えなくなっていたからだ。
全員が同じ方向を向いているように見える組織は、二種類ある。
本当に納得している組織と、反対が潰された組織だ。
外から見ると、この二つは区別がつかない。
(……どちらも「一枚岩」と呼ばれる)
俺は、筆を紙に走らせた。
――反対が出ない組織は、健全ではない。危険である。
書きながら、俺は別のことを考えていた。
織田家は、どうだ。
軍議で、誰か反対しているか。
――していない。
先日の軍議を思い出す。丹羽長秀も、滝川一益も、村井貞勝も、誰も信長に異を唱えなかった。
全員が優秀だ。全員が有能だ。
それなのに、誰も反対しない。
なぜか。
反対しても、信長のほうが正しいことが多いからだ。
これが、最も厄介だ。
天才が本当に正しいと、部下は反対する意味を失う。反対しても覆せないし、実際に間違っているのは自分のほうだと、経験で学んでしまう。
そして――
(――天才が間違ったとき、誰も止められない)
俺は、書き終えた紙を見た。
手が、冷たかった。
「殿」
庄兵衛が、遠慮がちに言った。
「ひとつ、申し上げてよろしゅうござるか」
「言え」
「――備前守様は、あの日、なにゆえ黙っておられたと思われる」
俺は、顔を上げた。
庄兵衛は、俺を見ていた。
その目に、初めて、感情らしきものがあった。
「それがしは、ずっと考えており申した。三年、城が囲まれておる間も」
「……」
「備前守様は、迷うておられたのではござらぬ」
庄兵衛は、言った。
「――申しても、伝わらぬと、お思いになったのでござる」
俺は、動けなかった。
「あのとき、備前守様が『織田につく』と仰せになれば、家中は割れ申した。父君と、その代からの家臣が離れ申す。備前守様は、それを恐れておられた」
「……」
「されど、それだけではござらぬ」
庄兵衛は、湯呑みを見た。
「――説き伏せる言葉を、お持ちでなかったのでござる」
俺は、息を吐いた。
ゆっくりと、深く。
説き伏せる言葉。
それは、材料だ。
「なぜ織田は朝倉を攻めるのか」「攻めた後、浅井をどう扱うつもりなのか」「朝倉を見捨てても、浅井の面目は保たれるのか」
その答えを、長政は持っていなかった。
誰も、渡していなかった。
だから、黙るしかなかった。
黙った当主は、家中の空気に飲まれた。
(――俺は)
俺は、自分の書いた紙を見た。
六年後。
俺は、丹波の国衆の前に立つ。信長が何かを決める。俺はそれを説明せねばならない。
説明する言葉を持っていなければ。
俺は、あの日の長政と同じ場所に立つ。
半日、黙ったまま座る。
そして最後に、こう言うのだ。
――わしは、日向守である。
背筋が、凍った。
「庄兵衛」
「は」
「――礼を言う」
俺は、深く頭を下げた。
老人が、慌てて平伏した。
「殿、なにを」
「おぬしは今、俺の命を救ったかもしれぬ」
庄兵衛は、わけが分からないという顔をしていた。
俺は、紙を掴んだ。
書き足した。
――取次の者には、必ず「なぜ」を渡すこと。
――「なぜ」を渡さぬ命令は、命令ではない。呪いである。
筆を置いたとき、廊下から利三の声がした。
「殿。丹波への支度、整い申した」
俺は立ち上がった。
「発つ」
障子の外は、もう暗かった。
冬が、来ようとしていた。




