第14話 市をやった
冬が来る前に、俺は一度、丹波の陣に戻らねばならなかった。
病で抜けた穴は、そのままになっている。第二次の丹波攻めの準備は、俺が動かねば進まない。
だが出発の三日前、安土から使いが来た。
登城せよ、という。
◇
今度は、大広間だった。
諸将が並んでいる。丹羽長秀。滝川一益。村井貞勝。そして末席のほうに、見知らぬ顔がいくつか。
軍議だった。丹波と、播磨と、越前の話。
俺は自分の番で、丹波の見通しを述べた。
国衆四十二家の一覧を持ち込み、そのうち何家が服属しているか、どこが不安定か、なぜ不安定なのかを、順に説明した。
信長は、途中で一度も遮らなかった。
これは、後から丹羽長秀に「珍しいことだ」と言われた。
「上様が最後まで聞かれるのは、二つの時だけにござる」
軍議の後、廊下でそう言われた。
「ひとつは、心底どうでもよいと思うておられるとき」
「……もうひとつは」
「初めて聞く話のとき」
丹羽長秀は、そう言って、ふっと笑った。
温和な顔をした男だ。米五郎左、と呼ばれていると聞いた。
「日向守どの。あの一覧は、面白うござった」
「恐れ入ります」
「あれを、越前でも作れましょうか」
――来た。
俺は、この人の顔を見た。
この人は今、俺の作ったものを自分の領国に持ち帰ろうとしている。しかも、堂々と、本人に許可を取りに来ている。
「作れましょう」
「手間は」
「はじめは、途方もなくかかります」
俺は正直に言った。
「されど二年目からは、書き足すだけになります」
丹羽は、うむ、と唸った。
そして、意外なことを言った。
「日向守どの。それを、家中に教えるおつもりはござるか」
「……教える、とは」
「他家にも、でござる。柴田どのや、羽柴どのにも」
俺は、一瞬、言葉に詰まった。
この時代、家中の実務のやり方は、家の財産だ。他家に教えるものではない。それは競争力そのものだからだ。
だが、俺の目的は違う。
俺は、織田家という組織そのものを変えたい。
なら――
「教えます」
丹羽の眉が、上がった。
「よろしいので」
「よろしゅうございます」
「なにゆえ」
俺は答えた。
「同じ形の帳面を、皆が使えば――突き合わせができまする」
丹羽が、動きを止めた。
この人は、三秒ほどで理解した。
「――なるほど。互いの数が、比べられ申すな」
「はい」
「越前の米と、丹波の米が、同じ枡で書いてあれば」
「回せまする」
丹羽長秀は、しばらく俺を見ていた。
そして、深く頷いた。
「日向守どの。それがしは、算が好きにござってな」
この人は、そう言って、少し照れくさそうに笑った。
「されど、算の話をすると、皆、退屈な顔をなさる」
――ああ。
この人、仲間が欲しかったのか。
「丹羽様。それがしも同じでございます」
「ほう」
「算の話をすると、家中の者が、みな逃げまする」
丹羽長秀は、声を出して笑った。
◇
その日、俺は帰る前に、もう一度呼ばれた。
小座敷だった。前と同じ、湖の見える部屋。
信長は、今度は障子を閉めていた。
部屋の中に、香の匂いがした。
「日向守」
「は」
「丹波の一覧、あれは誰が作った」
「家中の者が」
「おぬしが作らせたか」
「はい」
信長は、脇息にもたれた。
そして、こう言った。
「――四十二のうち、いくつが裏切る」
俺は、息を呑んだ。
この人は、一覧を見て、そこを見た。
服属している家の数ではない。裏切る家の数を。
「――正直に申し上げてよろしゅうございますか」
「申せ」
「七つか、八つ」
「多いな」
「はい」
「なぜ分かる」
俺は、一覧の内容を思い出しながら答えた。
「服属の際に、こちらが何を約束したか、書き残しておらぬ家がございます。約束を覚えているのが、こちらの者一人だけ、という家も」
「それが、裏切りに繋がるか」
「――繋がりまする」
俺は続けた。
「約束が曖昧なままだと、後から食い違います。国衆は『約束が違う』と思う。こちらは『そんな約束はしておらぬ』と思う。どちらも嘘は申しておりませぬ。ただ、覚えている中身が違う」
信長は、黙って聞いていた。
「そして、食い違いを言い出せぬまま溜まってゆき、ある日、離れます」
言い終えて、俺は顔を上げた。
信長は、天井を見ていた。
しばらくして、こう言った。
「――浅井のことを、調べておるそうだな」
心臓が、跳ねた。
やはり、筒抜けだ。
「……はい」
「なぜだ」
俺は、迷った。
嘘をつくべきか。
いや。この人に嘘は、たぶん通らない。
「同じことが、丹波で起きぬようにするためでございます」
信長は、天井を見たまま動かなかった。
部屋が、静かだった。
香が、細く立ち上っていた。
やがて、信長が言った。
「日向守」
「は」
「――市をやった」
俺は、言葉の意味を掴みかねた。
信長は、天井を見たまま続けた。
「長政にな。妹をやった」
その口調に、感情はなかった。
事実を述べているだけの声だった。
「あれは、賢い男だった。北近江を押さえておった。敵に回せば厄介であったゆえ、妹をやった」
俺は、平伏したまま聞いていた。
「そして、裏切られた」
信長は、そこで一度、言葉を切った。
「三年前、小谷を落とした」
「……はい」
「市は、生きて出てきた」
「はい」
「――娘を三人、連れてな」
信長の声が、そこで、ほんのわずかに変わった。
俺は、顔を上げそうになるのを堪えた。
「日向守」
「は」
「あれは、わしを恨んでおると思うか」
――は。
俺は、思考が止まった。
この質問は、何だ。
この人は今、何を聞いている。
顔を上げた。
信長は、こちらを見ていなかった。天井を見たままだった。その横顔は、いつもと何一つ変わらなかった。
視界の隅に、あの半透明の板が浮かんだ。
感情コスト認識 4
四。
――違う。
俺は、そのとき初めて気づいた。
この数字は、「他人の感情が分からない」という意味ではない。
分かっている。分かっていて、どう扱えばいいのかを知らないのだ。
だから四なのだ。ゼロではなく。
この人は今、三年間、誰にも聞けなかったことを、たまたま浅井の話をしていた家臣に聞いている。
俺は、慎重に言葉を選んだ。
「――恐れながら」
「言え」
「それは、市どのにしか分かりませぬ」
信長の眉が、動いた。
「役に立たぬ答えだな」
「はい」
俺は続けた。
「ただ、ひとつだけ申し上げられることがございます」
「なんだ」
「市どのは、上様のもとへ戻ってこられました」
信長が、初めてこちらを見た。
「――戻ってきた、のではない。連れ戻したのだ」
「他へ行くこともできましたでしょう」
俺は言った。
「ご息女を三人抱えて、頼る先がないわけではございませぬ。寺に入る道も、他家に身を寄せる道もございました」
信長は、何も言わなかった。
「それでも、上様のもとへ来られた」
俺は、そこで言葉を止めた。
これ以上は、踏み込みすぎる。
長い沈黙があった。
やがて、信長は脇息から身を起こした。
そして、まったく別のことを言った。
「日向守。丹波はいつ片付く」
――話を、切った。
俺は平伏した。
「――来年のうちには」
「遅い」
「はい」
「だが、七つ八つ裏切ると言うたな」
「……はい」
「その七つ八つを、裏切らせずに済ませたら」
信長は、立ち上がった。
「――それは、速いということだ」
俺は、顔を上げた。
信長は、もう障子のほうを向いていた。
「日向守。おぬしの言う『仕組み』とやらが、本当に効くかどうか、丹波で見せよ」
「――はっ」
部屋を出るとき、俺は一度だけ振り返った。
信長は、閉じた障子を見ていた。
その向こうには、湖がある。
三年前、小谷城は、あの湖の北にあった。
◇
坂本に戻る舟の上で、俺は利三に言った。
「利三。市どのに、会えるか」
利三が、ぎょっとした顔をした。
「――お方様に、でござるか」
「うむ」
「殿。それは、いかなる用向きで」
俺は湖面を見た。
答えは、まだ持っていなかった。
ただ、あの人に聞かねばならないことがある気がした。
橋になった人に。
落ちて、生きて、まだ岸のどちらかで暮らしている人に。




