第13話 お市という橋
丹波の国衆の一覧は、三日で上がってきた。
四十二家。
思ったより多い。そして、思ったより――曖昧だった。
「利三。この『赤井』の項が、空白だが」
「まだ服属しており申さぬ」
「では、この『内藤』は」
「服属しており申す。……たぶん」
「たぶん、とは」
利三が、渋い顔をした。
「一度、降り申した。その後、離れ申した。そして、また降ると申しております」
――なるほど。
紙の上では「服属」の二文字だが、実態は行ったり来たりだ。
俺は一覧を見ながら、あることに気づいた。
「利三。この一覧に、書いていないことがある」
「は」
「――何を約束したかが、書いていない」
利三が、目を瞬いた。
「約束、と申されると」
「服属させるとき、こちらは何かを渡したはずだ。所領の安堵か、地位か、あるいは口約束か。それが書いていない」
「……口頭にて、話をつけており申す」
「誰が」
「――それがしや、家中の者が」
「その者が死んだら」
利三の顔が、こわばった。
俺は一覧を置いた。
「この四十二家との約束は、全部、誰かの頭の中にあるわけだ」
そこまで言って、俺は思わず笑った。
笑うしかなかった。
――織田家のことを言えた義理か。
俺は、まったく同じことを、自分の領国でやっている。
信長の頭の中に織田家がある、と俺は指摘した。だが丹波の四十二家との約束は、俺と利三の頭の中にしかない。
規模が違うだけで、構造は同じだ。
(――他人の欠陥は、よく見える)
自分のは、見えない。
俺は筆を取った。
「利三。書け」
「……何を」
「四十二家すべてについて、いつ、誰が、何を約束したか。覚えている者を全員集めて、突き合わせろ」
「殿。三年前の話も」
「三年前の話ほど、急げ」
俺は言った。
「記憶は、腐る」
◇
その夜。
書院に、また人が集まった。
今日は、老臣が二人と、玉。それから――煕子が、障子越しに隣の部屋にいる。
これは煕子が言い出したことだ。「わたくしにも聞かせてくださいませ」と。障子は閉めたままにした。決まりは決まりだ。
「今日は、市どのの話をする」
俺がそう言うと、空気が、少し変わった。
女の話をするからだ。
この時代、評定で女の話をするのは、婚姻の段取りを決めるときだけだ。
俺は構わず続けた。
「浅井備前守どのは、上様の妹君を娶っておられた。市どの。この婚姻が、織田と浅井を結んだ」
「さようにござる」
「では問う。この婚姻は、うまくいったか」
老臣が、当然のように答えた。
「破れ申した」
「そうではない。婚姻そのものは、うまくいったか」
老臣が、答えに詰まった。
俺は続けた。
「聞いた話では、備前守どのと市どのは、睦まじかったという。子も三人生まれている」
「……さようで」
「では、婚姻はうまくいっていた。破れたのは、婚姻ではない」
俺は紙に、二本の線を引いた。
――男と女の縁。
――家と家の盟。
「この二つは、別のものだ」
老臣たちが、怪訝な顔をした。
「殿。婚姻とは、家と家を結ぶものにござろう」
「そうだ。だが、結ぶ役目を担っているのは、人だ」
俺は、その二本の線の間に、小さく人の形を描いた。
「市どのは、人だ。それなのに、盟が破れたとき、市どのが割れる」
しん、とした。
俺は続けた。
「橋を考えてみよ。両岸を結ぶ橋だ」
俺は絵を描き足した。単純な絵だ。二つの岸と、一本の橋。
「岸が離れれば、橋は落ちる。落ちるのは、岸ではない。橋だ」
「……」
「織田と浅井は、婚姻という橋で結ばれていた。両家が離れたとき、落ちたのは市どのだ」
俺は筆を置いた。
「そして、上様も長政どのも、無事だった」
部屋の中で、誰も動かなかった。
やがて、末席から声がした。
「父上」
玉だった。
「橋は、選べません」
俺は、この娘を見た。
「架けられた場所から、動けません」
喉の奥が、詰まった。
この娘は今、自分の話をしている。
いずれ、この娘は細川家に嫁ぐ。
橋になる。
俺は、その事実を知っていて、まだ何もしていない。
「玉」
「はい」
「――その通りだ」
俺は認めた。
「橋は、選べぬ。だから、橋を架けた者が、支えを作らねばならぬ」
「支え、とは」
「岸が離れかけたとき、橋が落ちぬようにする仕掛けだ」
言いながら、俺は自分でも輪郭を掴みかねていた。
だが、方向は見えている。
現代の企業提携では、こういうときのために、あらかじめ取り決めを作る。提携が解消されたとき、共同出資した会社をどうするか。出向した社員をどう戻すか。
誰も、解消の話などしたくない。縁起でもない。だが、書いておく。
書いておくから、いざ解消するときに、人が壊れずに済む。
――婚姻にも、それができるはずだ。
「たとえば」
俺は考えながら言った。
「嫁いだ娘には、実家から一人、必ず人を付ける」
「……付き人にござるか」
「付き人ではない。婚家との間を取り次ぐ役だ。何かあれば、その者が実家へ知らせる。娘が一人で抱え込まぬようにする」
老臣が、うむ、と唸った。
「それは、あるいは間者と疑われましょう」
「疑われる」
俺は認めた。
「だから、婚家にも同じ役を置く。互いに一人ずつ。両方が知っている。隠さぬ」
「……」
「もうひとつ。盟が破れたとき、娘と子をどうするかを、婚姻の前に決めておく」
老臣が、ぎょっとした顔をした。
「殿。嫁ぐ前から、破れたときの話をするので」
「する」
「それは……縁起が」
「縁起の話ではない」
俺は言った。
「破れたときの話をしておかねば、破れたときに、娘が死ぬ」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
やがて、障子の向こうから、静かな声がした。
「――あなた様」
煕子だった。
俺は障子のほうを向いた。
「聞いていたか」
「はい」
少しの間があった。
「ひとつ、よろしゅうございますか」
「言ってくれ」
「市どのは、橋になりとうて、なられたのでしょうか」
――え。
俺は、その問いの意味を掴みかねた。
煕子は、静かに続けた。
「わたくしが申したいのは、こういうことでございます。あなた様は、橋が落ちぬようにする仕掛けを、お考えになっておられます」
「うむ」
「それは、橋であることを前提にしたお話でございます」
――ああ。
息が、止まりかけた。
「市どのは、橋になることを、望まれたのでしょうか。玉は、望むのでしょうか」
俺は、答えられなかった。
俺が考えていたのは、「橋が落ちないようにする」ことだった。
「橋にしない」という選択肢を、はじめから考えていなかった。
制度で守る、と俺は言った。だがその制度は、「女を同盟の道具として使い続ける」ことを前提にしている。
使い方を改善する話であって、使うのをやめる話ではない。
(――玉に言われたことと、同じだ)
この決まりは、わたくしを守るためのものですか。それとも、わたくしを使って織田の家を守るためのものですか。
同じ問いだ。
俺は、まだ答えていない。
「煕子」
「はい」
「――言い訳をしてもよいか」
障子の向こうで、笑う気配がした。
「どうぞ」
「今の世で、婚姻を使わずに家を結ぶ方法を、俺は知らぬ」
これは、事実だった。
この時代、同盟の担保は人だ。婚姻か、人質か、その両方。文書だけの契約が信用されるほど、この社会の司法は成熟していない。
だから、いきなり「女を使うのをやめる」とは言えない。言えば、明智家は同盟から締め出される。
「ゆえに、まずは橋を落とさぬ仕掛けを作る」
「はい」
「だがその仕掛けの中に、一つ、必ず入れる」
俺は紙に書いた。
――嫁ぐ本人に、話す。
「これは、家と家の話ではない。おぬしの話でもある。そう本人に告げ、逃げ道と、拠り所を、先に渡しておく」
しばらく、返事がなかった。
やがて、障子の向こうで、煕子が言った。
「――それは、市どのになされたことでしょうか」
俺は、首を振った。
「されていない、と思う」
だからあの人は、小谷城で、二つの家の間に立たされた。
誰も、事前に何も言わなかった。
そして三年前、あの人は、燃える城から三人の娘を連れて出てきた。
俺は筆を置いた。
「玉」
「はい」
「おぬしに嫁の話が来たら、俺は最初に、おぬしに話す」
玉は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「父上」
「なんだ」
「――白紙、まだ持っております」




