第146話 最後の帳面
文禄五年、十月。
ほとんど、目が覚めない。だが、時々、覚める。そのとき、書かせた。
――十月三日。光慶、来る。丹波の年貢のことを、話す。
――十月七日。利三、来る。何も、話さず。
――十月十二日。およし、来る。子が、三人になったと。
(良い日だ)
――十月十三日。玉より、文。孫が、字を三十覚えたと。
――十月十四日。三沢、来る。荷、遅れなし。光慶様の直しが、二つ入ったと。
書かせながら、思った。二十年前、この帳面に書かれていたのは、丹波の兵糧の数と、上様の裁可の数だった。今は、来た人の名と、孫の覚えた字の数だ。煕子の帳面に、近づいた。二十年かかった。
◇
十月十五日。
目が覚めた。妙に、頭が澄んでいた。二十年前、坂本の床で目を覚ました朝と、同じ澄み方だった。あのときは、紙の匂いがした。今日も、する。利三が、隣で帳面を開いている。
(ああ。今日か)
「利三」
利三は、すぐに来た。俺の顔を見て、しばらく黙っていた。
「殿」
「利三。分かるか」
「――分かり申す」
「ならば、書け」
利三は、筆を取った。
「文禄五年、十月十五日。――今日、誰が来たか」
「それがしにござる」
「書け」
――斎藤利三、来る。
「他には」
「光慶様が、来られ申す」
「待て。まだ、来ておらぬ。書付は、起きたことだけを書く」
「承知いたし申した」
二十年、そう教えてきた。二十年目の今日も、同じことを言う。利三は、二十年目の今日も、渋い顔をした。
◇
光慶が来た。
「父上ッ」
「光慶。落ち着け。そして、座れ。――利三。書け」
――明智光慶、来る。
「光慶。今日は、何の話だ」
「父上。今日は、話ではございませぬ。ただ、おそばにおります」
俺は、しばらく黙っていた。
「利三。書け。『ただ、そばにおる』と」
利三は、書いた。
「光慶。一つ、頼みがある。寄合を、続けよ。そして、決めるな。寄合では、並べるだけだ。決めるのは、後だ」
「承知いたしました」
「光慶。もう一つ。『分からぬ』と、言え。そして、恥じるな。俺は、二十年、言うてきた」
「父上。存じております」
この子は、七年、舟の書付に「分からぬ」と書いてきた。知っている。
「利三。障子を、開けてくれ」
利三は、障子を開けた。湖が、見えた。十月の湖だ。
(静かだ)
(煕子も、これを見ていた)
「利三。書け。『障子を、開けさせた。湖が、見えた』」
しばらく黙って、続けた。
「――『きれいであった』」
利三は、書いた。
「利三。もう一つ。『何の役にも立たぬ。だが、書いておく』」
利三の手が、止まった。しばらく黙っていた。
「殿。――書き申す」
◇
湖を見ていた。
(二十年。長かった)
思い直した。
(短かった。もっと、やれた)
少し笑った。
(これが、俺だ)
最後まで、足りないと思っている。前の世でも、三十七ページで足りないと思って、三十八ページ目を書いていた。
「利三。一つ、聞きたい。俺は、間に合うたか」
利三は、しばらく黙っていた。
「間に合い申した」
「何にだ」
「全部にはござらぬ」
俺は、少し笑った。正直だ。
「ですが、幾つかには、間に合い申した」
「幾つだ」
「――数え切れませぬ」
「利三。それは、数えねばならぬ」
利三は、少し笑った。
「殿らしゅうござる」
「利三。帳面を、頼む。そして、次に、渡せ」
「承知いたし申した」
俺は、しばらく黙っていた。それから、言った。
「利三。――で、いつやりますので」
利三は、しばらく黙っていた。そして、泣いた。声を上げて泣いた。
俺は、その声を聞いていた。
(良い日だ)
「利三。書け。『斎藤利三が、泣いた』」
「殿ッ。それは」
「書け」
利三は、書いた。
「利三。もう一行。――『良い日であった』」
利三は、書いた。
◇
書き終えた音がした。筆が硯に触れる音だ。
二十年、いちばん近くで聞いてきた音である。
俺は、目を閉じたまま、その音を待っていた。もう一度鳴るのを待っていた。だが、鳴らなかった。
(――終わったか)
「利三」
「は」
「――今日の分は、これで仕舞いか」
「仕舞いにござる」
「明日の分は」
利三は、しばらく黙っていた。
「――明日の分は、明日にござる」
俺は、少し笑った。
(――そうだな)
二十年、この男は一度も、書いていないことを書かなかった。今日も、書かない。
「利三。一つだけ、頼みがある」
「伺い申す」
「――明日の帳面も、開け」
「開き申す」
「そして、何も起きなんだら、そう書け」
「――何も起きなんだ、と」
「そうだ。何も起きなかったことを、書いておけ」
利三は、しばらく黙っていた。
それから、掠れた声で言った。
「殿。それは――」
「言うな」
俺は、目を閉じたまま言った。
「――書けば、それでよい」
◇
光慶が、そばにいた。何も言わない。ただ、いる。
(――良い座り方だ)
二十年前、俺は誰かのそばにただ座るということができなかった。座れば、何か言わねばならぬと思っていた。書付を出すか、問いを立てるか、段取りを話すか。
この子は、何もしない。
(――そういう者が、いちばん長く、そばにいられる)
障子の外で、湖が鳴っていた。
俺は、湖を見ていた。そして、目を閉じた。
(煕子)
(帳面は、続いておる)
◇
明智日向守光秀は、文禄五年十月十五日、坂本城にて没した。享年、六十八。
最後の帳面には、こう書かれている。
――文禄五年、十月十五日。
――斎藤利三、来る。
――明智光慶、来る。ただ、そばにおる。
――障子を、開けさせた。湖が、見えた。きれいであった。
――何の役にも立たぬ。だが、書いておく。
――斎藤利三が、泣いた。
――良い日であった。
その下に、別の筆で、こう書き足されている。
――右、明智日向守光秀、最後の言葉なり。斎藤利三、これを記す。
そして、さらにその下に、こう書いてある。
――十月十六日。明智日向守光秀、来らず。




