↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天才創業者・織田信長の下で潰れる前に、本能寺が起きない組織を作ります~MBAホルダー明智光秀の事業承継計画  作者: 東雲 諒杏
第十五章 敵は本能寺にあらず

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
145/151

第145話 最後の拝謁


 文禄五年、九月。

 俺は、ほとんど眠っている。起きているのは、日に一刻ほどだ。


    ◇


 九月十五日。

 目が覚めると、妙な音がしていた。門のほうで、人の声と、馬の足音が重なっている。

 (騒がしい)

「利三」

 返事がない。

 しばらくして、襖が開いた。利三が入ってきた。青い顔をしていた。

「殿ッ」

「どうした」

「上様が」

 俺は、身を固くした。安土で、何かあったか。

 だが、利三は続けた。

「――来られ申した」

 俺は、動けなかった。

 (来られた)

「利三。支度を」

「殿。動かれますな。上様が、そう仰せられており申す」

 だが、利三のほうが、明らかに支度をしていなかった。

 袴の紐が、片方だけ結ばれていない。

「利三」

「は」

「――紐だ」

 利三は、自分の腰を見た。そして、固まった。

「……」

「二十年、おぬしの袴が乱れておるのを見たことがない」

「殿。それは、それがしも同じにござる」

 利三は、後ろを向いて紐を結び直した。手が震えているのが、後ろからでも分かった。

「利三」

「は」

「落ち着け」

「落ち着いており申す」

「――紐を、二度結んでおるぞ」

 利三は、動きを止めた。しばらくして、掠れた声で言った。

「……殿。それがし、二十年、上様のお顔を三度しか見ており申さぬ」

「そうか」

「四度目が、今日にござる」

 俺は、天井を見た。

「利三。安心せよ。俺も、寝間着だ」


    ◇


 信長は、部屋に入ってきた。

 杖をついていた。六十三になっている。黒の小袖は、二十年前と同じだ。姿勢が整っていないのも、同じだ。それでも部屋の空気が、この人の一点に吸い寄せられるのも、同じだった。

「日向守」

 俺は、平伏しようとした。できなかった。声も、出にくい。

「――上様」

 やっと、それだけ言った。

 信長は、座った。

 供は、いなかった。廊下に小姓が一人いるだけである。

「上様。お供は」

「――一人で来た」

 俺は、しばらく黙っていた。

 (――一人で)

 六十三の男が、湖を渡って、供も連れずに来た。

 その一言で、十九年前のことを思い出した。

 坂本の蔵の前で、この人は独り言のように言った。

 ――わしの奥には、決める者がおらぬ。

 あのとき、聞き返せなかった。

 今なら、聞ける。

「上様。一つ、お伺いしてよろしゅうございますか。――御台様は」

御台様(みだいさま)。正室への敬称である。だが俺が問うたのは、夫婦のことではなかった。

上様がかつて『わしの奥には、決める者がおらぬ』とこぼした、その孤独についてであった。

 信長は、しばらくこちらを見ていた。

 そして、こう言った。

「――おらぬ」

 それだけであった。

 いつ、どこで、とは仰せられなかった。

 俺も、聞かなかった。

「上様。それがしは、二十年、伺いませなんだ」

「うむ」

「――なにゆえ伺わなかったのかと、今、考えております」

 信長は、少し目を細めた。

「日向守。おぬしは、聞かぬのが上手い」

「――は」

「わしが答えぬことは、聞かなんだ。二十年、一度もな」

 俺は、平伏した。

「上様。それは、それがしの落ち度にございます」

「違う」

 信長は、はっきり言った。

「――わしが、答えぬようにしておったのだ」


    ◇


「勘九郎から、聞いた。『鷹の帳面を、続けておる』とな。そして、『今日、誰が来たかを、書いておる』と」

「さようにございます」

「日向守。今日、誰が来た」

 俺は、少し笑った。

「――上様が、来られました」

「書け」

「書きまする」

 信長は、しばらく黙っていた。

「日向守。二十年だ」

「二十年にございます」

「長かったか」

 俺は、考えた。

「――短うございました。やり残したことが、ございます」

「何だ」

「名を、数えておりませぬ」

 信長は、すぐに分かった顔をした。

「詫び状の、十一番か」

「さようにございます」

 去年の冬に配った、あの書付だ。一は、波多野右衛門大夫どのへ。丹波の行く末を語らず、家中に説けぬまま離れさせた落ち度。二から十までは、それぞれ名のある相手に、何を落としたかを書いた。十一だけが、相手の名を書けなかった。――名を知らぬ者たちへ。丹波で、八上で、道普請で、俺の決めたことのために死んだ者たち。その名を、俺は数えていない。

「日向守。それは、わしがやる」

 俺は、動けなかった。

「上様が、でございますか」

「そうだ。わしが、いちばん多く殺した。比叡山。長島。伊勢。――そして、名を知らぬ」

 俺は、黙った。

「上様。数えて、いかがなさいます」

「分からぬ。だが、数える」

「上様。それで、充分にございます」

「なぜだ」

「数えれば、書けまする。書けば、残りまする。残れば、いつか、誰かが読みまする」

「日向守。おぬしは、最後まで、それだな」

「さようにございます」


    ◇


「日向守。一つ、聞く」

「は」

「――おぬしは、何者だ」

 俺は、黙った。

 (また、聞かれた)

 六年前、鷹の帳面を渡した夜、この人は同じことを聞いた。俺は、答えなかった。答えられなかった。

 今なら、答えられる。答えて、どうなるものでもない。だから、答えられる。

「上様。申し上げます」

「申せ」

「それがしは、二十年前、死にました。そして、別の世におりました。――遠い、先の世にございます」

 信長は、動かなかった。

「どれほど、先だ」

「四百年ほどかと」

 信長は、しばらく黙った。そして、俺が思ってもいなかったことを聞いた。

「――そこに、この国はあるか」

 (そこを、聞かれるか)

「ございます」

「戦は」

「ございませぬ」

「――そうか」

 信長は、しばらく、何も言わなかった。杖の先が、畳の目に食い込んでいた。

「日向守。おぬしは、そこで何をしておった」

「書付を、作っておりました」

 信長が、少し笑った。

「変わっておらぬな」

「さようにございます」

「そして、どうなった」

「――誰も、読みませなんだ。そして、それがしは、死にました。働きすぎて、でございます」

 信長は、しばらく黙った。

「日向守。それは、こちらでも同じだな」

 俺は笑い、咳き込んだ。信長は、待った。二十年前なら、待たなかった。

「日向守。もう一つ、聞く。――おぬしは、わしが死ぬ日を知っておったな」

「知っておりました」

「いつだ」

「十四年前の、六月二日にございます」

「どこでだ」

「京の、本能寺にございます」

「誰にだ」

 俺は、黙った。

 (言うか)

 利三が、部屋の隅で、身を固くしたのが分かった。

「――それがしにございます」

 部屋が、静かになった。

 信長は、動かなかった。しばらくして、こう言った。

「――そうか」

 (それだけか)

「日向守。なにゆえ、討つ」

「分かりませぬ。二十年、考えました。そして、分かりませなんだ」

「日向守。わしは、分かる」

 俺は、動けなかった。

「上様。なにゆえ、でございましょうか」

「――わしが、そう仕向けたゆえだ」

 信長は、杖を持ち直した。

「日向守。二十年前のわしを、思い出せ。速く、鋭く、そして、聞かなんだ。家臣を、道具として使うた。そして、役に立たねば、捨てた。――そのようなわしを、二十年仕えれば、誰でも、討ちたくなる」

 俺は、しばらく黙っていた。

「上様。それは、違いまする。上様は、変わられました」

「変わったのは、おぬしが変えたゆえだ」

「違いまする。上様が、変わられたゆえにございます。それがしは、申し上げただけにございます。そして、上様は、お聞きになりました。――聞かぬこともできました」

「日向守。おぬしは、最後まで、そう言うな」

 俺は、笑った。


    ◇


「日向守。一つ、詫びる」

 俺は、黙った。

「二十年前、おぬしが安土で倒れた折。わしは、こう言うた。『三日で治せ』と。――あれが、始まりだ。ゆえに、詫びる」

 覚えている。休め、三日でな。あの言葉で、俺は査定の「一」を確信した。

「上様。それは、違いまする。あれが、始まりにございます。ですが、悪い始まりではございませぬ」

 信長は、黙って聞いていた。

「あの日、それがしは、上様の目を見ました。そして、こう思いました。――『この人は、一人だ』と。そして、二十年、それを直そうといたしました。ですが、直りませなんだ」

「日向守。直った」

 俺は、動けなかった。

「今、わしは、ここにおる。そして、おぬしと話しておる。――二十年前なら、来なんだ」

 涙が、出た。

「泣くな」

「泣いております」

「――そうか」

 信長は、しばらく、座っていた。


    ◇


「日向守。もう一つ、聞く。おぬしの前の世に、わしはおるか」

 (どう答える)

「おられます」

「どのように」

「皆が、知っております」

「何と、言われておる」

 俺は、考えた。嘘は、この人には通じない。

「――『天下を、あと一歩で取り損ねた男』と」

 信長は、しばらく黙った。それから、言った。

「――取ったぞ」

 俺は、笑った。

「取られました」

「日向守。ならば、変わったな」

「変わりました」

「誰が、変えた」

「――皆にございます」

「そうか」

 信長は、杖をついて立ち上がった。二十年前より、時間がかかった。

「日向守。もう、行く」

「は」

「二十年、大儀であった」

 俺は、しばらく黙って、それから言った。

「上様。――お先に、失礼いたします」

 信長は、振り返った。

「待っておれ。すぐに、行く」

「お待ちしております」

 信長は、部屋を出た。襖が閉まる直前、この人は言った。

「日向守」

「は」

「――金平糖は、好きか」

 俺は、黙った。二十年前の安土で、俺が倒れる前に、この人が食べていたのが、それだった。

「好きにございます」

「置いていく」

 襖が、閉まった。

 紙に包まれた小さな塊が、枕元に残っていた。利三が、それを、鷹の帳面の横に置いた。

 (今日、誰が来たか)

 書いておかねばならない。字は書けない。利三が書く。それでよい。

 ――九月十五日。上様、来られる。金平糖を、置いてゆかれる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。