第145話 最後の拝謁
文禄五年、九月。
俺は、ほとんど眠っている。起きているのは、日に一刻ほどだ。
◇
九月十五日。
目が覚めると、妙な音がしていた。門のほうで、人の声と、馬の足音が重なっている。
(騒がしい)
「利三」
返事がない。
しばらくして、襖が開いた。利三が入ってきた。青い顔をしていた。
「殿ッ」
「どうした」
「上様が」
俺は、身を固くした。安土で、何かあったか。
だが、利三は続けた。
「――来られ申した」
俺は、動けなかった。
(来られた)
「利三。支度を」
「殿。動かれますな。上様が、そう仰せられており申す」
だが、利三のほうが、明らかに支度をしていなかった。
袴の紐が、片方だけ結ばれていない。
「利三」
「は」
「――紐だ」
利三は、自分の腰を見た。そして、固まった。
「……」
「二十年、おぬしの袴が乱れておるのを見たことがない」
「殿。それは、それがしも同じにござる」
利三は、後ろを向いて紐を結び直した。手が震えているのが、後ろからでも分かった。
「利三」
「は」
「落ち着け」
「落ち着いており申す」
「――紐を、二度結んでおるぞ」
利三は、動きを止めた。しばらくして、掠れた声で言った。
「……殿。それがし、二十年、上様のお顔を三度しか見ており申さぬ」
「そうか」
「四度目が、今日にござる」
俺は、天井を見た。
「利三。安心せよ。俺も、寝間着だ」
◇
信長は、部屋に入ってきた。
杖をついていた。六十三になっている。黒の小袖は、二十年前と同じだ。姿勢が整っていないのも、同じだ。それでも部屋の空気が、この人の一点に吸い寄せられるのも、同じだった。
「日向守」
俺は、平伏しようとした。できなかった。声も、出にくい。
「――上様」
やっと、それだけ言った。
信長は、座った。
供は、いなかった。廊下に小姓が一人いるだけである。
「上様。お供は」
「――一人で来た」
俺は、しばらく黙っていた。
(――一人で)
六十三の男が、湖を渡って、供も連れずに来た。
その一言で、十九年前のことを思い出した。
坂本の蔵の前で、この人は独り言のように言った。
――わしの奥には、決める者がおらぬ。
あのとき、聞き返せなかった。
今なら、聞ける。
「上様。一つ、お伺いしてよろしゅうございますか。――御台様は」
御台様。正室への敬称である。だが俺が問うたのは、夫婦のことではなかった。
上様がかつて『わしの奥には、決める者がおらぬ』とこぼした、その孤独についてであった。
信長は、しばらくこちらを見ていた。
そして、こう言った。
「――おらぬ」
それだけであった。
いつ、どこで、とは仰せられなかった。
俺も、聞かなかった。
「上様。それがしは、二十年、伺いませなんだ」
「うむ」
「――なにゆえ伺わなかったのかと、今、考えております」
信長は、少し目を細めた。
「日向守。おぬしは、聞かぬのが上手い」
「――は」
「わしが答えぬことは、聞かなんだ。二十年、一度もな」
俺は、平伏した。
「上様。それは、それがしの落ち度にございます」
「違う」
信長は、はっきり言った。
「――わしが、答えぬようにしておったのだ」
◇
「勘九郎から、聞いた。『鷹の帳面を、続けておる』とな。そして、『今日、誰が来たかを、書いておる』と」
「さようにございます」
「日向守。今日、誰が来た」
俺は、少し笑った。
「――上様が、来られました」
「書け」
「書きまする」
信長は、しばらく黙っていた。
「日向守。二十年だ」
「二十年にございます」
「長かったか」
俺は、考えた。
「――短うございました。やり残したことが、ございます」
「何だ」
「名を、数えておりませぬ」
信長は、すぐに分かった顔をした。
「詫び状の、十一番か」
「さようにございます」
去年の冬に配った、あの書付だ。一は、波多野右衛門大夫どのへ。丹波の行く末を語らず、家中に説けぬまま離れさせた落ち度。二から十までは、それぞれ名のある相手に、何を落としたかを書いた。十一だけが、相手の名を書けなかった。――名を知らぬ者たちへ。丹波で、八上で、道普請で、俺の決めたことのために死んだ者たち。その名を、俺は数えていない。
「日向守。それは、わしがやる」
俺は、動けなかった。
「上様が、でございますか」
「そうだ。わしが、いちばん多く殺した。比叡山。長島。伊勢。――そして、名を知らぬ」
俺は、黙った。
「上様。数えて、いかがなさいます」
「分からぬ。だが、数える」
「上様。それで、充分にございます」
「なぜだ」
「数えれば、書けまする。書けば、残りまする。残れば、いつか、誰かが読みまする」
「日向守。おぬしは、最後まで、それだな」
「さようにございます」
◇
「日向守。一つ、聞く」
「は」
「――おぬしは、何者だ」
俺は、黙った。
(また、聞かれた)
六年前、鷹の帳面を渡した夜、この人は同じことを聞いた。俺は、答えなかった。答えられなかった。
今なら、答えられる。答えて、どうなるものでもない。だから、答えられる。
「上様。申し上げます」
「申せ」
「それがしは、二十年前、死にました。そして、別の世におりました。――遠い、先の世にございます」
信長は、動かなかった。
「どれほど、先だ」
「四百年ほどかと」
信長は、しばらく黙った。そして、俺が思ってもいなかったことを聞いた。
「――そこに、この国はあるか」
(そこを、聞かれるか)
「ございます」
「戦は」
「ございませぬ」
「――そうか」
信長は、しばらく、何も言わなかった。杖の先が、畳の目に食い込んでいた。
「日向守。おぬしは、そこで何をしておった」
「書付を、作っておりました」
信長が、少し笑った。
「変わっておらぬな」
「さようにございます」
「そして、どうなった」
「――誰も、読みませなんだ。そして、それがしは、死にました。働きすぎて、でございます」
信長は、しばらく黙った。
「日向守。それは、こちらでも同じだな」
俺は笑い、咳き込んだ。信長は、待った。二十年前なら、待たなかった。
「日向守。もう一つ、聞く。――おぬしは、わしが死ぬ日を知っておったな」
「知っておりました」
「いつだ」
「十四年前の、六月二日にございます」
「どこでだ」
「京の、本能寺にございます」
「誰にだ」
俺は、黙った。
(言うか)
利三が、部屋の隅で、身を固くしたのが分かった。
「――それがしにございます」
部屋が、静かになった。
信長は、動かなかった。しばらくして、こう言った。
「――そうか」
(それだけか)
「日向守。なにゆえ、討つ」
「分かりませぬ。二十年、考えました。そして、分かりませなんだ」
「日向守。わしは、分かる」
俺は、動けなかった。
「上様。なにゆえ、でございましょうか」
「――わしが、そう仕向けたゆえだ」
信長は、杖を持ち直した。
「日向守。二十年前のわしを、思い出せ。速く、鋭く、そして、聞かなんだ。家臣を、道具として使うた。そして、役に立たねば、捨てた。――そのようなわしを、二十年仕えれば、誰でも、討ちたくなる」
俺は、しばらく黙っていた。
「上様。それは、違いまする。上様は、変わられました」
「変わったのは、おぬしが変えたゆえだ」
「違いまする。上様が、変わられたゆえにございます。それがしは、申し上げただけにございます。そして、上様は、お聞きになりました。――聞かぬこともできました」
「日向守。おぬしは、最後まで、そう言うな」
俺は、笑った。
◇
「日向守。一つ、詫びる」
俺は、黙った。
「二十年前、おぬしが安土で倒れた折。わしは、こう言うた。『三日で治せ』と。――あれが、始まりだ。ゆえに、詫びる」
覚えている。休め、三日でな。あの言葉で、俺は査定の「一」を確信した。
「上様。それは、違いまする。あれが、始まりにございます。ですが、悪い始まりではございませぬ」
信長は、黙って聞いていた。
「あの日、それがしは、上様の目を見ました。そして、こう思いました。――『この人は、一人だ』と。そして、二十年、それを直そうといたしました。ですが、直りませなんだ」
「日向守。直った」
俺は、動けなかった。
「今、わしは、ここにおる。そして、おぬしと話しておる。――二十年前なら、来なんだ」
涙が、出た。
「泣くな」
「泣いております」
「――そうか」
信長は、しばらく、座っていた。
◇
「日向守。もう一つ、聞く。おぬしの前の世に、わしはおるか」
(どう答える)
「おられます」
「どのように」
「皆が、知っております」
「何と、言われておる」
俺は、考えた。嘘は、この人には通じない。
「――『天下を、あと一歩で取り損ねた男』と」
信長は、しばらく黙った。それから、言った。
「――取ったぞ」
俺は、笑った。
「取られました」
「日向守。ならば、変わったな」
「変わりました」
「誰が、変えた」
「――皆にございます」
「そうか」
信長は、杖をついて立ち上がった。二十年前より、時間がかかった。
「日向守。もう、行く」
「は」
「二十年、大儀であった」
俺は、しばらく黙って、それから言った。
「上様。――お先に、失礼いたします」
信長は、振り返った。
「待っておれ。すぐに、行く」
「お待ちしております」
信長は、部屋を出た。襖が閉まる直前、この人は言った。
「日向守」
「は」
「――金平糖は、好きか」
俺は、黙った。二十年前の安土で、俺が倒れる前に、この人が食べていたのが、それだった。
「好きにございます」
「置いていく」
襖が、閉まった。
紙に包まれた小さな塊が、枕元に残っていた。利三が、それを、鷹の帳面の横に置いた。
(今日、誰が来たか)
書いておかねばならない。字は書けない。利三が書く。それでよい。
――九月十五日。上様、来られる。金平糖を、置いてゆかれる。




