第144話 玉、来る
文禄五年、八月。
俺は、まだ生きていた。だが、日に半分は眠っている。
◇
八月十日。
「殿。お嬢様が、来られ申した」
(玉)
「利三。呼んだか」
「呼び申した」
「勝手なことを」
「さようで。――叱られ申そう」
俺は、少し笑った。
「叱らぬ」
利三は、二十年、俺の決めたことを、俺より正確に守ってきた男だ。その男が、俺の決めたことを、勝手に破った。呼ぶな、と俺は言っていた。動けぬ姿を見せたくなかった。見せたくないというのは、決まりではなく、意地だ。利三は、それを見分けた。
◇
舟着き場のほうで、りんの声がした。
四年前に初めて顔を見た、もう一人の娘だ。あの子は今、坂本にいる。姉を迎えに出たのだろう。二十年、顔も知らなかった娘と、七年、顔を見なかった娘が、舟着き場で会っている。その二人を作ったのは、俺の忙しさだ。
やがて、足音が廊下を来た。ゆっくりと、だが迷いのない足音だった。
玉が、部屋に入ってきた。
三十二になっていた。
俺は、その顔を見て、しばらく動けなかった。
(煕子に、そっくりだ)
目のかたちと、口を結ぶときの角度が、同じだ。母の顔が薄くなっていく俺に、娘の顔が母の顔を返してくる。
「父上」
玉は、そう言って平伏した。
「玉。来たか」
「七年ぶりでございます」
(七年)
婚姻の覚に「年に一度は里帰りを許す」と書いた。書いたのは俺だ。そして、七年、会わなかった。決まりを作って、決まりを守らなかったのが、俺だ。
「玉。すまぬ」
「謝られませぬよう。文は、頂いておりました」
「文では、足りぬ」
玉は、少し黙った。
「――足りませぬ」
俺は、笑った。正直だ。この娘は、五つのときから、そうだった。
「子は、幾人になった」
「四人でございます」
「上の子は」
「十四になりました」
(十四)
俺がこの子に初めて会ったのは、五つのときだ。
「字は、書いておるか」
「書いております。そして、帳面をつけております」
「何の帳面だ」
「――人の帳面でございます」
俺は、動けなかった。
(三代目だ)
煕子は、家計簿の裏に、人のことを書いていた。誰が疲れているか。誰が言わないか。それを玉が継ぎ、玉の子が継いでいる。俺の百八十七枚より、たぶん、こちらのほうが長く残る。
「玉。良い」
「父上。一つ、伺ってよろしいですか」
「言え」
「父上は、なにゆえ、書けと仰せられたのですか」
俺は、考えた。
「――俺が、忘れるゆえだ」
「何を、でございますか」
「人だ。そして、俺は、母の顔も、薄うなっておる」
玉は、黙った。
「父上。それは、悲しゅうございます」
「悲しい。だが、仕方がない」
「――母上のことを、お話しくださいませ。何でも。父上が覚えておられることを」
俺は、考えた。覚えていることは、思ったより少なかった。そして、その少ないもののうち、最初に出てきたのは、これだった。
「怒られた」
玉が、少し目を丸くした。
「母上が、でございますか」
「一度だけだ。おぬしの縁組のときだ」
「何と、仰せられました」
「『この書付に、玉の名は幾つ出てまいりますか』と」
玉は、黙った。
「そして、こう言われた。『あなた様は、二十年後の玉を守っておられます。今の玉ではございませぬ』と」
「――母上らしゅうございます」
「そして、こうも言われた。『人を守るための決まりを作り、その決まりのために、人から離れられます。それは、優しさでございましょうか』と」
玉は、しばらく黙っていた。
「父上は、何と答えられました」
「『逃げていた』と。『決まりを作るのは易い。話すのは、難しい』と」
「父上。それは、今も、でございますか」
「――今もだ。だが、少し、良くなった」
「どのように、でございますか」
「今、話しておる」
玉は、しばらく黙って、それから、少し笑った。
「父上。それは、七年かかりましたね」
俺は笑い、咳き込んだ。
「父上。お休みくださいませ」
「まだだ。――玉。渡したいものがある」
利三に、書付を持ってこさせた。百八十七枚。総論の一枚が、いちばん上にある。
「玉。これを、持って行け。二十年分だ。そして、これが、全部だ」
「父上。なにゆえ、わたくしに」
「写しは、他にもある。だが、細川の家にも、置いておきたい。離れた場所に、置いておかねばならぬ」
玉は、束を見て、それから俺を見た。
「父上。それは、明智が滅んだ場合、でございますか」
「――そうだ」
「滅ぶと、お思いですか」
「思わぬ。だが、備える」
玉は、少し笑った。
「父上。最後まで、そうでございますね」
「そうだ」
玉は、束を受け取った。
「父上。一つ、お約束いたします。これを、使います。蔵には、入れませぬ。――そして、直します」
「直せ。そして、直した理由を、書き足せ」
「承知いたしました」
玉は、束のいちばん上の一枚を取り、読み始めた。総論だ。一から六まで、声に出さずに読み、七で、声に出した。
「『右の全部を、疑うべし』」
玉は、顔を上げた。
「父上。ご自分で書かれたものを、疑えと」
「そうだ」
「なにゆえ」
「俺は、一つの世しか生きておらぬ」
これは、嘘だ。俺は三つの世を生きた。だが、三つ生きても、同じことだった。一つの世で正しかったことが、次の世で正しいとは限らない。蜀で作った仕組みを、そのまま織田家に持ち込もうとして、丹波で人を死なせた。
「玉。書いた者が死んだあと、書付は、死んだ者の言葉になる。死んだ者には、逆らいにくい」
「――はい」
「だから、先に書いておく。逆らえ、と」
玉は、しばらく黙っていた。それから、一枚目を束の上に戻した。
「父上。母上の帳面には、それが書いてございませんでした」
「そうだろうな」
「ですが、母上は、毎年、前の年の分に線を引いて、書き直しておられました。『この人は、去年とは違う』と」
俺は、黙った。
煕子は、疑えと書かなかった。書かずに、毎年、疑っていた。
「――玉。それを、書き足せ」
「どこに、でございますか」
「七条の、隣だ。『母は、書かずにこれをしていた』と」
玉は、少し笑って、頷いた。
◇
その夜、玉はもう一度、部屋に来た。
「父上。まだ、起きておられますか」
「起きておる」
玉は座り、しばらく黙っていた。
「父上。一つ、お伝えしたいことがございます。夫が、こう申しておりました。『日向守どのに、礼を申したい』と」
「何の礼だ」
「『庭に出ることを、教わった』と。『あれで、幾人か、斬らずに済んだ』と」
俺は、黙った。
(幾人か)
玉の輿入れの前、俺は与一郎に一つだけ頼んだ。腹が立ったら、その場を離れてくださいませ。半刻でよい。庭に出るなり、馬を走らせるなり。癇は直らぬ、五十になっても直らぬ、それがしも直っておらぬ、と正直に言った。それだけのことだ。
名を知らない。だが、生きている。土佐からも、細川からも、同じ言葉が来る。
「玉。伝えてくれ。――『こちらこそ』と」
玉が、首を傾げた。
「あの方は、庭に出られた。それは、教えられたゆえではない。ご自分で、出られたゆえだ」
「――父上。伝えます」
◇
玉は三日、坂本にいた。
四日目の朝、発った。俺は見送れない。部屋から出られない。
だが、玉が部屋に来た。
「父上。行って参ります」
「行け」
「父上。また、参ります」
(「また」は、ない)
俺も知っている。玉も知っている。
「――待っておる」
玉は、しばらく黙っていた。それから、懐から紙を出した。
半分に裂かれた紙だ。十九のとき、輿入れの前に、俺が渡した半分。
「これを、お返しいたします」
「なぜだ」
「もう、要りませぬゆえ」
玉は、紙を開いて、読み上げた。
「『明智と細川が敵となりし場合、おぬしは父を捨ててもよい』。――そして、敵になりませなんだ。ゆえに、要りませぬ」
俺は、しばらく黙っていた。
「玉。持っておれ」
玉が、顔を上げる。
「要らぬ紙を、持っておることが、大事だ。――使わずに済んだ紙は、良い紙だ」
玉は、少し笑った。煕子の笑い方だった。
「父上。分かりました」
紙を懐に戻し、玉は言った。
「一生、持っております」




