第143話 中将様、来る
文禄五年、七月。
俺は、まだ生きていた。
だが、もう起き上がれない。声も小さくなった。利三が耳を寄せないと、聞き取れないことがある。
◇
七月十日。
「殿。中将様が、来られ申す」
「――止めよ」
「止められませぬ。既に、湖を渡っておられる」
俺は、少し笑った。
「利三。何日おられる」
「三日と伺っており申す」
(三日か)
二十年前、俺が坂本に来た信忠に言った期限が、三月だった。あのとき、三月は半年になり、八月になった。今度は、三日だ。それでも、この人は来る。
◇
信忠は、その日の夕に着いた。
部屋に入ってきたこの人は、三十九になっていた。二十年前、坂本に来たときは十九だった。父の顔色を窺い、評定で発言せず、「もし違うておれば」と何度も書付に書いていた若者だ。今は、もうそういう顔をしない。
「日向守」
俺は、平伏しようとした。腕に力が入らない。
「――よい」
信忠は、そう言って座った。そして、しばらく黙って俺を見ていた。
「日向守。二十年だ」
「二十年にございます」
「一つ、報告がある」
俺は、その言葉に驚いた。
(報告)
この人が、俺に。
「今年の試しの、結果だ」
「いかがでございましたか」
「全員、四半刻を切った」
俺は、黙った。
「試し」というのは、御不慮の折の覚を、毎年一度、本当に動かしてみることだ。上様が倒れたという偽の報せを流し、六人の方面軍がどれだけ早く動き、どれだけ正しく止まるかを測る。四年前、柴田様は報せを受けてから軍議を開くまで半日かかった。
(今は、四半刻だ)
「中将様。お見事にございます」
「わしの手柄ではない。皆が、備えたゆえだ」
俺は、深く頷いた。この人は、二十年前、自分の落ち度を家臣の前で平伏して認めた。今は、自分の手柄を、皆のものだと言う。窓と鏡。二十年で、両方が揃った。
「そして、もう一つ。今年の試しで、新しく分かったことが、二つある」
俺は身を乗り出そうとして、できなかった。
「一つ。報せは、速くなった。だが、その後が、決まっておらぬ」
「――と、申されますと」
「報せを受けた後、二十日、動かぬことになっておる。だが、二十日の間、何をするかが、書いておらぬ」
俺は、しばらく黙った。
(そうだ)
「動くな」とは書いた。動けば、二十年前の秀吉の大返しになる。だから、止めた。だが、「何をせよ」とは書いていない。二十日、何もしないでいられる武将はいない。何もするなと言われた者は、必ず何かをする。そして、その何かは、書いていないから、ばらばらになる。
「中将様。それは、大きな穴にございます」
「そうだ。ゆえに、書いた」
信忠が、書付を出した。俺は見ようとしたが、字が滲んで読めない。
「中将様。読み上げていただけませぬか」
信忠は、少し黙って、それから言った。
「――読む」
――報せを受けたる者は、二十日の間、次のことをすべし。
――一、己の領国の兵の数、荷の量を数え、他の五名に知らせること。
俺は、その一行で唸った。
(上手い)
二十日、何もしないのは耐えられない。ならば、無害なことをさせる。しかも、数えて、知らせる。諸将が互いの数を知る。それだけで、誰も一人で動けなくなる。
――二、己の領国にて、噂が立ちておらぬかを確かめ、立ちておれば高札を立てること。
――三、右の二つを終えたる後、他の五名の返事を待つこと。
「中将様。お見事にございます」
「日向守。褒めるな」
俺は、少し笑った。
「上様と、同じことを申されます」
信忠は、しばらく黙った。
「――似てきたか」
「似ておられませぬ。ですが、言葉だけは」
信忠が、少し笑った。二十年前、この人は「わしは、まだ父上のようにはできぬ。評定で父上なら三分で決められる。わしは半刻かかる」と言った。俺は「追いつけませぬ」と答えた。あのとき、慰めではないな、とこの人は言った。今、この人は、半刻かけて決めたことを、六人に守らせている。
「日向守。もう一つ、分かったことがある」
「伺いとうございます」
信忠は、少し間を置いた。
「――そなたが、おらぬ」
俺は、黙った。
「今年の試しで、そなたは動かなんだ。動けなんだゆえだ」
「申し訳ございませぬ」
「謝るな。――そして、それでも、回った」
俺は、その言葉を、腹の底で受けた。
(回った)
「日向守。そなたがおらずとも、回る。それを、確かめた」
俺は、しばらく黙っていた。それから、言った。
「中将様。ありがとうございます」
「なぜ、礼を言う」
「それが、それがしの仕事にございましたゆえ。――そして、終わりましたゆえ」
十一年前、俺は「俺を消す」と言った。今、消えても回った。それを、この人が確かめに来た。
信忠は、しばらく黙っていた。
「日向守。終わっておらぬ」
「――は」
「そなたは、まだ生きておる。ゆえに、まだ、仕事がある」
「何でございましょうか」
「――話すことだ」
俺は、驚いた。
「日向守。そなたは、書いてきた。だが、書いておらぬことがある」
「何でございましょうか」
「そなたが、どう思うたかだ」
俺は、黙った。
「そなたの書付には、決めたことと、その理由が書いてある。だが、そのとき、そなたが何を思うたかは、書いておらぬ」
(そうだ)
俺は、感情を書かなかった。それが正しいと思っていた。前世の資料にも、蜀の詔にも、丹波の覚にも、俺は一度も、怖かった、とは書かなかった。書けば、読む者が判断を誤ると思っていた。
だが、書かなければ、後の者は、これを書いた者が怖くなかったのだと思う。怖くなかった者の書いたものは、怖い者には使えない。
「日向守。三日、話してくれ。そして、わしが、書き取る」
「――中将様が、でございますか」
「わしが書く。そのために、来た」
◇
三日、俺は話した。信忠が書き取った。
最初の日。
「二十年前、それがしは、恐ろしゅうございました。何が恐ろしかったかと申せば、間に合わぬことにございます。そして、二十年、恐ろしいままにございました」
信忠は、黙って書いた。
二日目。
「波多野右衛門大夫が死んだとき、それがしは、眠れませなんだ。そして、こう思いました。『俺が殺した』と」
俺は、息を整えた。
「妻が、こう申しました。『それは、思い上がりでございます』と。――そのとき、それがしは、救われました」
信忠の筆が、少しゆっくりになった。
三日目。
「妻が死んだとき、それがしは、書けなくなりました。三月ほど、書けませなんだ。そして、こう思いました。『書いても、あの人には届かぬ』と」
信忠は、筆を止めた。しばらく黙っていた。
「――日向守。今は」
「今も、届きませぬ。ですが、書いております」
「なぜだ」
「あの人が、そう言うたゆえにございます。――『帳面を』と」
信忠は、何も言わずに、書いた。
◇
三日目の夕。
「日向守。これで、三日だ。わしは、帰らねばならぬ」
「さようにございます」
「一つ、聞きたい」
「なんなりと」
「――そなたは、幸せであったか」
俺は、答えられなかった。
(幸せ)
二十年で、一度も考えなかった問いだ。前世でも、考えなかった。蜀でも、考えなかった。
「――分かりませぬ」
「正直だな」
「ですが、一つだけ、申せることがございます」
「申せ」
「――退屈では、ございませなんだ」
信忠は、しばらく黙り、それから少し笑った。
「父上と、同じことを言うな」
「上様が、でございますか」
「去年、父上に聞いた。『幸せでしたか』と。父上は、『分からぬ』と。『だが、退屈ではなかった』と」
俺は、少し笑った。
「中将様。それは、良い答えにございます」
「なぜだ」
「幸せは、他人が決めまする。ですが、退屈かどうかは、己が決めまする」
「――それも、書いておく」
信忠は立ち上がり、部屋を出ようとした。
「中将様」
振り返る。
「一つ、お願いがございます。上様に、お伝えくださいませ」
「何と」
「――『鷹の帳面は、続けております』と」
信忠は、少し首を傾げた。
「日向守。そなた、鷹を飼うておるのか」
「飼うておりませぬ。ですが、続けております。毎日、書いております。今日、誰が来たか。何を話したか。――それが、それがしの鷹にございます」
信忠は、しばらく黙っていた。
「――伝える」




