第142話 六月二日
文禄五年、六月。
俺は、生きていた。
◇
六月一日の朝、目が覚めて、最初に思ったのは、これだった。
(明日だ)
そして、少し笑った。
(もう、何もない日だ)
本能寺は、十四年前に燃えなかった。上様は生きている。中将様は岐阜にいる。京は静かだ。六月二日は、暦の上の一日にすぎない。
だが、俺は二十年、この日を数えてきた。天正四年の坂本の床で「六年後」と思ったその日から、毎年、六月が近づくと、腹の底が冷えた。十四年前に過ぎた日を、そのあとも毎年、恐れていた。
「利三」
「は」
「明日、何かあるか」
利三は書付を確かめた。荷の予定、来客、村の裁き。
「――何もござらぬ」
「そうか」
利三は、しばらく黙っていた。それから、遠慮がちに聞いた。
「殿。明日は、何の日でござる」
俺は、すぐには答えなかった。
「――何でもない日だ。だが、二十年前、俺は、明日を恐れておった」
「殿。それは、あの話にござるな。『六年後の六月二日』にござるな」
この男には、一度だけ話した。天正八年の、あの夜だ。俺を止めた夜だ。
「そうだ。そして、それは十四年前に過ぎた」
「さようで」
「だが、俺は、毎年、数えておった」
「今年も、でござるか」
「今年もだ。――二十年、数えた」
◇
六月二日。
朝、目が覚めた。障子を開けさせると、夏の湖があった。青くて、平らで、向こう岸に安土の山が霞んでいる。二月の白い湖とは、別の湖のようだった。
利三が入ってきた。
「殿。おはようございます」
「利三。今日は、何日だ」
「六月二日にござる」
「――そうか。何も、起きておらぬな」
「起きており申さぬ」
俺は、しばらく湖を見ていた。
「利三。書き取ってくれ」
利三が筆を取る。
「文禄五年、六月二日。何も、起きず」
筆の音。
「上様、安土にて息災。中将様、岐阜にて息災。京、静かなり」
俺は息を整えた。
「――右、二十年目の記録なり」
「殿。他には」
「ある。――この日を、恐れておった者がおった。二十年、恐れておった。そして、何も起きなかった」
利三が書く。
「もう一行、足してくれ。――何も起きなかったのは、誰かが何かをしたゆえではない」
利三が、筆を止めて顔を上げた。
「多くの者が、少しずつ、何かをしたゆえである」
利三は、書いた。そして、書き終えてから言った。
「殿。それは、殿のことにござる」
「違う。俺は、多くの者の、一人だ」
「――謙遜にござるか」
「違う。事実だ」
俺は、湖から目を離さずに言った。
「利三。数えてみよ」
そして、数えた。
「中将様が、岐阜に留まられた。村井様が、三十年近く、京の記録を取り続けられた。柴田様が、雪を数えられた。滝川様が、東国の道を測られた。丹羽様が、有岡で町人に聞かれた。佐久間様が、退き口を教えられた。半兵衛様が、目を渡された。官兵衛どのが、噂を運んでくださった。筑前殿が、八十七人を数えられた。宗易どのが、約束の帳面を見せてくださった」
一人ずつ、顔が浮かぶ。俺は、続けた。
「煕子が、二十年、人を見ておった。玉が、書付を直した。およしが、桶が重いと言うた。三沢が、荷を数え続けた。与三郎が、三百枚を写した。たきが、町の話を拾うた。弥助どのが、日に三度、来られた。乱丸どのが、上げなかった報せを書かれた」
俺は、そこで息を整えた。
「――そして、おぬしが、俺を止めた」
利三の筆が、止まっていた。
「殿」
「書け」
利三は、書いた。
「利三。これで、分かるか」
「分かり申す」
利三は筆を置かずに、続けた。
「ですが、殿。――その全部を、繋いだ者がおり申す」
俺は、黙った。
「そして、それは、殿にござる」
しばらく、湖を見ていた。
(繋いだ、か)
転生前の俺は、繋がなかった。資料を作って、突き返されて、また作った。誰にも見せず、誰にも聞かず、一人で三十七ページを書いて、一人で死んだ。この二十年、俺がやったことで、転生前と最も違うのは、たぶんそこだ。
「利三。それも、書け」
「――殿。よろしいので」
「よい。嘘ではないゆえだ」
利三は、書いた。
◇
午後、少し眠った。
目が覚めると、日が傾いていた。障子の外の湖が、赤い。
(終わった)
二十年目の六月二日が、終わる。
「利三」
「は」
「日が、暮れる」
「暮れ申す」
「利三。二十年、長かった」
「長うござった」
「だが、終わった」
利三は、すぐには答えなかった。それから、いつもの調子で言った。
「殿。終わっており申さぬ」
俺は、顔を上げた。
「――明日も、六月三日にござる」
俺は、しばらく黙って、それから笑った。この男は、二十年、こうだった。俺が「終わった」と言うたびに、次の日の段取りを持ってくる。
「そうだな。明日も、来る」
「さようで。そして、明後日も」
「利三。書き取ってくれ」
利三が筆を取る。
「六月二日は、終わった。だが、六月三日が来る。そして、また、六月二日が来る。毎年、来る。ゆえに、備えは、終わらぬ」
利三が書く。
「――だが、備えておる者が、代わってゆく。それでよい」
利三は書き終え、顔を上げた。
「殿。これで、終わりでござるか」
「いや。最後に、一行」
俺は、赤い湖を見ながら、言った。
「――その夜、本能寺は、燃えなかった」
利三が、少し首を傾げた。
「殿。本能寺、と申されますと」
「京の寺だ」
「何かござったので」
「何もない。――何もないことを、書いておく」
利三は、分からぬ顔のまま、書いた。
俺は、その紙を、しばらく見ていた。字は読めない。だが、そこに何が書いてあるかは、知っている。
(これで、よい)
◇
夜、三沢が来た。
五十を過ぎた。荷の役を二十年続け、今は明智家の荷全部と、諸将の荷の覚の突き合わせを一人で見ている。この男が毎月配る「荷の覚」は、いつの間にか織田家の他の家中でも写されるようになった。
「殿。今月の覚にございます」
「読め」
三沢が読んだ。坂本から丹波、丹波から亀山、亀山から京。何日で着き、どこで遅れ、なぜ遅れたか。今月は、遅れが一つもなかった。
「三沢。今月は、どこも遅れておらぬな」
「遅れており申さぬ」
少し間があって、三沢が付け加えた。
「――殿。それは、誰にも見え申さぬ」
俺は、笑った。二十年前、この男が言った言葉だ。あのとき俺は「ならば、見えるようにする」と言った。毎月書け、と。数が並べば、良くなったかどうかが見える、と。
「三沢。見えておる」
「は」
「二十年分、並んでおる。遅れなかった月が、増えておる。――それが、おぬしの手柄だ」
三沢は、しばらく黙っていた。それから、平伏した。
「殿。もう一つ、お伝えいたしたきことが」
「言え」
「今月の覚を、光慶様に読んでいただき申した。そして、光慶様が、一か所、直されました」
「どこだ」
「亀山からの荷は、雨の月は山道を避けて湖を使え、と。理由も、書き足されました」
俺は、目を閉じた。
(直した者は、理由を書き足せ)
あの子は、総論を読んでいる。読んで、使っている。
「三沢。それでよい」
「は」
「――その直しを、消すな」
「消しませぬ。誰が、いつ、なにゆえ直したかを、残しており申す」
三沢が出ていった後、俺は暗い天井を見ていた。
六月二日が、終わる。何も起きなかった。だが、荷の覚が一枚増え、直しが一つ入った。
備えは、そういう形で、続く。




