↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天才創業者・織田信長の下で潰れる前に、本能寺が起きない組織を作ります~MBAホルダー明智光秀の事業承継計画  作者: 東雲 諒杏
第十五章 敵は本能寺にあらず

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
141/151

第141話 最後の冬


 ――家督は渡した。詫び状は配った。

 ――六十八。もう、坂本から出られない。

 ――あとは、六月二日を越えるだけだ。


 文禄五年、正月。

 俺は、六十八になった。

 年賀には出られなかった。安土まで湖を渡る体力が、もうない。去年の秋から、坂本の書院と寝所のあいだを往復するだけの暮らしになっている。往復、と言っても十歩ほどだ。それを、日に二度。

 だが、人のほうが来た。

 正月三日、光慶が戻ってきた。二十一になる。安土の年賀に、明智の名代として出した。俺が出られないのなら誰かが出ねばならず、そして誰かとは、この子しかいない。

「――父上。年賀に、行って参りました」

 廊下の雪を払い、部屋に入るなり平伏する。息が白い。

「どうであった」

「末席にございました」

「そうだろうな。二十一だ」

 二十一で末席なのは当たり前だ。座る場所は、家の格と当人の齢で決まる。父が誰であるかは、その次だ。

 光慶は顔を上げた。少し、迷っている顔だった。

「ですが、上様が、お声をかけてくださいました」

 俺は、布団の上で少し身を起こした。利三が慌てて背に手を添える。

「――何と」

「『日向守は、生きておるか』と」

 その一言で、俺はしばらく、何も言えなくなった。

 (二十年前と、同じだ)

 天正四年。丹波で倒れ、安土で倒れ、坂本に運び戻された俺のところへ、あの人は使者を寄越した。使者が口にした言葉が、それだった。日向守は、生きておるか。あのときの俺は、その問いを、確認だと思った。使えるか使えぬかを確かめる、見積もりの問いだと。

 二十年経って、同じ言葉が、同じ人から来た。

 今度は、そうは思わなかった。

「――何と答えた」

「『生きております』と」

 俺は、少し笑った。喉が引き攣れて、笑いは咳に変わりかけた。

「光慶。それでよい」

「は」

「そして――こう付け加えればよかった」

 光慶が、俺の顔を見る。

「『二十年では、治りませなんだ』と」

 光慶は、意味が分からぬ顔で、少し首を傾げた。当たり前だ。この子は、二十年前の「三日で治せ」を知らない。知らなくてよい。

「――昔話だ」

 俺はそう言って、目を閉じた。

 瞼の裏で、安土の大広間が見えた。天井が高く、汗が板の間に落ちて音もなく散る、あの広間だ。


    ◇


 二月。

 雪が降った。坂本では珍しい。湖の風が雪を横に流し、庭の松に白い筋が付いた。

 俺は、障子を開けさせた。

 冷気が、一気に部屋へ入ってくる。火鉢の炭が、ぱち、と鳴った。

 湖は、白かった。向こう岸が消えて、水と空の境がなくなっている。

「――殿。お寒うござる」

 利三が、障子に手をかけた。

「閉めるな」

「されど」

「煕子は、これを見ておった」

 利三の手が、止まった。

 この部屋は、煕子が最後の冬を過ごした部屋だ。あの人はここで、障子を開けて、雪の湖を見ていた。「白うございますね」と言った。俺は帳面から顔も上げずに「そうだな」と答えた。あのとき、俺は何を書いていたのだったか。思い出せない。思い出せないということは、大事なことではなかったのだ。

 利三は、黙って手を離した。障子は、開いたままになった。

 しばらく、二人で湖を見ていた。

「利三」

「は」

「俺は、いつまで生きると思う」

 利三は、すぐには答えなかった。この男が答えを探すときの、眉のあいだに縦の皺が寄る。

「――分かり申さぬ」

「正直だな」

「殿が、そう教えられ申した」

 俺は、少し笑った。二十年前、面談で「困っていることを言え」と言って誰も言わなかったとき、この男だけが「分かり申さぬ」と言った。あれから、この男の返事はずっと、そうだ。分からぬことは分からぬと言う。それだけのことが、どれほど貴重かを、俺は前世の会社で嫌というほど知っていた。

「利三。一つ、決めたことがある」

「伺い申す」

「――夏まで、生きる」

 利三が、少し首を傾げた。

「そして、六月を越える」

 沈黙があった。火鉢の炭が、また鳴った。

「殿。六月に、何かござるか」

 俺は、考えた。本当に、考えた。

「――何もない」

「は」

「だが、越えたい」

 利三はしばらく黙っていた。そして、いつもの、命じられたことをその日のうちに終える男の顔になった。

「承知いたし申した」

 少し間を置いて、続けた。

「――越えていただき申す」

 その言い方が、まるで自分の仕事であるかのようだったので、俺は声を出して笑い、そして咳き込んだ。


    ◇


 三月。

 俺は、書付の束を見直していた。

 百八十七枚。二十年分の「覚」だ。丹波の御仕置き、役目書、決めてはならぬ事の覚、荷の覚、御不慮の折の覚、動けぬときの覚――それぞれに目録が付き、写しが三か所に分けて置いてある。

 だが、束を最初から繰っていくうちに、妙な物足りなさが残った。

 (一つ、足りぬ)

 何が足りないのか、しばらく分からなかった。項目は揃っている。写しもある。理由の欄も、全部埋めた。

 夕方になって、ようやく気づいた。

 (――全体が、ない)

 百八十七枚は、それぞれの話だ。丹波には丹波の、荷には荷の理由が書いてある。だが、なぜこの百八十七枚が一つの束になっているのか。それを貫くものが、どこにも書いていない。

 前世で、俺は三十七ページの資料を作った。あの資料にも、これがなかった。「意思決定プロセスの再設計に関する提言」。手続きは全部書いた。なぜそれをやるのかを、一行も書かなかった。書かなくても分かるだろうと思っていた。分からなかったのだ、誰にも。

「利三。書き取ってくれ」

 利三が、筆を取る。俺はもう、自分では長く書けない。

「題を、こうする。――『総論』だ」

 利三が書いた。

「一、人は、忘れる。ゆえに、書く」

 利三の筆が動く。

「二、人は、言わぬ。ゆえに、聞く」

 俺は、しばらく黙った。次の一行は、言いにくかった。

「三、人は、死ぬ。ゆえに、渡す」

 利三の筆が、一瞬止まり、そして動いた。

「四、人は、変わる。ゆえに、縛る。――ただし、己をも縛らねばならぬ」

 これは、十二条の覚の最後の一条だ。信忠が「父上を縛る」と見抜いた、あれだ。

「五、人は、疲れる。ゆえに、量る。そして、量ったものを、書き留める」

 部下の可処分体力への配慮、一。二十年前の、あの査定の一行から、全部が始まった。

「――利三。これで、五つだ」

「五つにござる」

「足りるか」

 利三は、書いたものを読み返した。長いこと、読んでいた。

「――足り申さぬ」

 俺は、少し笑った。

「何が、足りぬ」

「殿。『なにゆえ、そこまでするか』が、ござらぬ」

 俺は、黙った。

 (そうだ)

 方法は書いた。だが、なぜやるかを書いていない。またか、と思った。三十七ページのときと、同じ抜け方だ。

「書き取ってくれ」

「は」

「六、なにゆえ、右のことをするか。――一人の者に、頼らぬためである」

 利三が書く。

「なにゆえ、一人に頼ってはならぬか。――その一人が、必ず死ぬゆえである」

 筆の音だけが、部屋にある。

「そして、その一人が死ぬとき、そこに繋がっておる全部が、共に死ぬ。家が割れる。戦が起きる。人が死ぬ。――そして、それは、誰の咎でもない」

 俺は、息を整えた。

「ゆえに、仕組みを作る」

 利三が書き終え、顔を上げた。

「殿。これで、終わりでござるか」

「――もう一つ、ある」

 これは、決めていた。この一行がなければ、百八十七枚は、いつか人を縛るだけの紙になる。

「七、右の全部を、疑うべし。これを書いたる者は、一つの世を生きたるのみである。そして、その世は、いずれ変わる。変われば、右のことは、使えなくなる。ゆえに、疑え。合わぬところは、直せ。直したる者は、その理由を書き足せ」

 利三は、最後まで書いた。

「――殿。これで、終わりにござる」

「終わりだ。読み上げてくれ」

 利三が読み上げた。七つの条は、読み上げてみると、あまりにも短かった。

 (二十年で、これだけか)

 だが、すぐに思い直した。長ければ、読まれない。前世で三十七ページを書いた男が言うのだから、間違いない。読まれなければ、意味がない。

「これを、百八十七枚の最初に置け」

「承知いたし申した」


    ◇


 四月。

 俺は、まだ生きていた。

 薬師の老人が脈を取り、首を捻った。曲直瀬流を名乗る、あの老人だ。

「日向守様。妙にござる」

「先生。それは、去年も伺いました」

「去年より、妙にござる」

 老人は薬箱を閉じながら、こう言った。

「それがしは、九十二になり申した」

「――九十二、でございますか」

「さようで。そして、日向守様より、元気にござる」

 俺は声を出して笑い、案の定、咳き込んだ。

「笑われますな」

 老人はそう言って、部屋を出ていった。廊下を歩く足音が、俺より確かだった。


    ◇


 五月。

 ある朝、目が覚めて、こう思った。

 (誰かに、会っておきたい)

 誰に、と考えて、すぐに気づいた。もう、皆に会った。上様。中将様。柴田様。羽柴様。丹羽様。滝川様。村井様。玉と、りんと、光慶。この一年、会える者には、会っておいた。

 だが、一人いる。

「利三。文を出したい」

「どちらへ」

「土佐だ」

 利三が、少し驚いた顔をした。

「長宗我部様に、でござるか」

「そうだ。あの方には、まだ、詫びておらぬ」

「詫び状に、書いておられ申す」

「書いた。だが、直に言うておらぬ」

 文にするしかなかった。俺は、もう動けない。それも書いた。

 ――宮内少輔様へ。お会いしとうございます。ですが、それがしは動けませぬ。ゆえに、文にて申し上げます。

 ――あのとき、それがしは貴殿の兵を死なせました。四年伝えたことを、覆しました。そして、それを上様のせいにはいたしませぬ。伝えたのはそれがしにございます。ゆえに、責はそれがしにございます。

 利三の筆が止まるのを待って、俺は言った。

「もう一行、足す」

「は」

「――そして、それがしは、貴殿を得難き御方と思うておりました」

 利三は、何も言わずに、書いた。


    ◇


 返事は、二十日で来た。

 俺はもう、字が読めない。利三が読んだ。

 ――日向守どのへ。文、拝読いたし候。そして、こちらも申し上げたきことがござる。

 ――日向守どのは、あの折、上様の御意を曲げられ申した。そして、こちらの兵を止められ申した。あれで、幾人か、生き申した。

 俺は、目を閉じた。

 ――幾人かは、分かり申さぬ。だが、生きた者がおり申す。そして、その者どもは、日向守どのの名を知り申さぬ。ゆえに、それがしが伝え申す。『あのとき、兵を止めさせた者がおった』と。

 俺は、しばらく泣いた。

 防いだ事故は、記録に残らない。起きなかった飢えは、誰にも見えない。二十年前に三沢に言われた、あの言葉が、土佐から返ってきた。名を知らない者が、生きている。それを、名を知っている者が、伝えると言っている。

 利三は、最後の一行を読んだ。

 ――日向守どの。四国は、こちらの手にはござらぬ。だが、土佐は、飢えており申さぬ。それで、充分にござる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。