第141話 最後の冬
――家督は渡した。詫び状は配った。
――六十八。もう、坂本から出られない。
――あとは、六月二日を越えるだけだ。
文禄五年、正月。
俺は、六十八になった。
年賀には出られなかった。安土まで湖を渡る体力が、もうない。去年の秋から、坂本の書院と寝所のあいだを往復するだけの暮らしになっている。往復、と言っても十歩ほどだ。それを、日に二度。
だが、人のほうが来た。
正月三日、光慶が戻ってきた。二十一になる。安土の年賀に、明智の名代として出した。俺が出られないのなら誰かが出ねばならず、そして誰かとは、この子しかいない。
「――父上。年賀に、行って参りました」
廊下の雪を払い、部屋に入るなり平伏する。息が白い。
「どうであった」
「末席にございました」
「そうだろうな。二十一だ」
二十一で末席なのは当たり前だ。座る場所は、家の格と当人の齢で決まる。父が誰であるかは、その次だ。
光慶は顔を上げた。少し、迷っている顔だった。
「ですが、上様が、お声をかけてくださいました」
俺は、布団の上で少し身を起こした。利三が慌てて背に手を添える。
「――何と」
「『日向守は、生きておるか』と」
その一言で、俺はしばらく、何も言えなくなった。
(二十年前と、同じだ)
天正四年。丹波で倒れ、安土で倒れ、坂本に運び戻された俺のところへ、あの人は使者を寄越した。使者が口にした言葉が、それだった。日向守は、生きておるか。あのときの俺は、その問いを、確認だと思った。使えるか使えぬかを確かめる、見積もりの問いだと。
二十年経って、同じ言葉が、同じ人から来た。
今度は、そうは思わなかった。
「――何と答えた」
「『生きております』と」
俺は、少し笑った。喉が引き攣れて、笑いは咳に変わりかけた。
「光慶。それでよい」
「は」
「そして――こう付け加えればよかった」
光慶が、俺の顔を見る。
「『二十年では、治りませなんだ』と」
光慶は、意味が分からぬ顔で、少し首を傾げた。当たり前だ。この子は、二十年前の「三日で治せ」を知らない。知らなくてよい。
「――昔話だ」
俺はそう言って、目を閉じた。
瞼の裏で、安土の大広間が見えた。天井が高く、汗が板の間に落ちて音もなく散る、あの広間だ。
◇
二月。
雪が降った。坂本では珍しい。湖の風が雪を横に流し、庭の松に白い筋が付いた。
俺は、障子を開けさせた。
冷気が、一気に部屋へ入ってくる。火鉢の炭が、ぱち、と鳴った。
湖は、白かった。向こう岸が消えて、水と空の境がなくなっている。
「――殿。お寒うござる」
利三が、障子に手をかけた。
「閉めるな」
「されど」
「煕子は、これを見ておった」
利三の手が、止まった。
この部屋は、煕子が最後の冬を過ごした部屋だ。あの人はここで、障子を開けて、雪の湖を見ていた。「白うございますね」と言った。俺は帳面から顔も上げずに「そうだな」と答えた。あのとき、俺は何を書いていたのだったか。思い出せない。思い出せないということは、大事なことではなかったのだ。
利三は、黙って手を離した。障子は、開いたままになった。
しばらく、二人で湖を見ていた。
「利三」
「は」
「俺は、いつまで生きると思う」
利三は、すぐには答えなかった。この男が答えを探すときの、眉のあいだに縦の皺が寄る。
「――分かり申さぬ」
「正直だな」
「殿が、そう教えられ申した」
俺は、少し笑った。二十年前、面談で「困っていることを言え」と言って誰も言わなかったとき、この男だけが「分かり申さぬ」と言った。あれから、この男の返事はずっと、そうだ。分からぬことは分からぬと言う。それだけのことが、どれほど貴重かを、俺は前世の会社で嫌というほど知っていた。
「利三。一つ、決めたことがある」
「伺い申す」
「――夏まで、生きる」
利三が、少し首を傾げた。
「そして、六月を越える」
沈黙があった。火鉢の炭が、また鳴った。
「殿。六月に、何かござるか」
俺は、考えた。本当に、考えた。
「――何もない」
「は」
「だが、越えたい」
利三はしばらく黙っていた。そして、いつもの、命じられたことをその日のうちに終える男の顔になった。
「承知いたし申した」
少し間を置いて、続けた。
「――越えていただき申す」
その言い方が、まるで自分の仕事であるかのようだったので、俺は声を出して笑い、そして咳き込んだ。
◇
三月。
俺は、書付の束を見直していた。
百八十七枚。二十年分の「覚」だ。丹波の御仕置き、役目書、決めてはならぬ事の覚、荷の覚、御不慮の折の覚、動けぬときの覚――それぞれに目録が付き、写しが三か所に分けて置いてある。
だが、束を最初から繰っていくうちに、妙な物足りなさが残った。
(一つ、足りぬ)
何が足りないのか、しばらく分からなかった。項目は揃っている。写しもある。理由の欄も、全部埋めた。
夕方になって、ようやく気づいた。
(――全体が、ない)
百八十七枚は、それぞれの話だ。丹波には丹波の、荷には荷の理由が書いてある。だが、なぜこの百八十七枚が一つの束になっているのか。それを貫くものが、どこにも書いていない。
前世で、俺は三十七ページの資料を作った。あの資料にも、これがなかった。「意思決定プロセスの再設計に関する提言」。手続きは全部書いた。なぜそれをやるのかを、一行も書かなかった。書かなくても分かるだろうと思っていた。分からなかったのだ、誰にも。
「利三。書き取ってくれ」
利三が、筆を取る。俺はもう、自分では長く書けない。
「題を、こうする。――『総論』だ」
利三が書いた。
「一、人は、忘れる。ゆえに、書く」
利三の筆が動く。
「二、人は、言わぬ。ゆえに、聞く」
俺は、しばらく黙った。次の一行は、言いにくかった。
「三、人は、死ぬ。ゆえに、渡す」
利三の筆が、一瞬止まり、そして動いた。
「四、人は、変わる。ゆえに、縛る。――ただし、己をも縛らねばならぬ」
これは、十二条の覚の最後の一条だ。信忠が「父上を縛る」と見抜いた、あれだ。
「五、人は、疲れる。ゆえに、量る。そして、量ったものを、書き留める」
部下の可処分体力への配慮、一。二十年前の、あの査定の一行から、全部が始まった。
「――利三。これで、五つだ」
「五つにござる」
「足りるか」
利三は、書いたものを読み返した。長いこと、読んでいた。
「――足り申さぬ」
俺は、少し笑った。
「何が、足りぬ」
「殿。『なにゆえ、そこまでするか』が、ござらぬ」
俺は、黙った。
(そうだ)
方法は書いた。だが、なぜやるかを書いていない。またか、と思った。三十七ページのときと、同じ抜け方だ。
「書き取ってくれ」
「は」
「六、なにゆえ、右のことをするか。――一人の者に、頼らぬためである」
利三が書く。
「なにゆえ、一人に頼ってはならぬか。――その一人が、必ず死ぬゆえである」
筆の音だけが、部屋にある。
「そして、その一人が死ぬとき、そこに繋がっておる全部が、共に死ぬ。家が割れる。戦が起きる。人が死ぬ。――そして、それは、誰の咎でもない」
俺は、息を整えた。
「ゆえに、仕組みを作る」
利三が書き終え、顔を上げた。
「殿。これで、終わりでござるか」
「――もう一つ、ある」
これは、決めていた。この一行がなければ、百八十七枚は、いつか人を縛るだけの紙になる。
「七、右の全部を、疑うべし。これを書いたる者は、一つの世を生きたるのみである。そして、その世は、いずれ変わる。変われば、右のことは、使えなくなる。ゆえに、疑え。合わぬところは、直せ。直したる者は、その理由を書き足せ」
利三は、最後まで書いた。
「――殿。これで、終わりにござる」
「終わりだ。読み上げてくれ」
利三が読み上げた。七つの条は、読み上げてみると、あまりにも短かった。
(二十年で、これだけか)
だが、すぐに思い直した。長ければ、読まれない。前世で三十七ページを書いた男が言うのだから、間違いない。読まれなければ、意味がない。
「これを、百八十七枚の最初に置け」
「承知いたし申した」
◇
四月。
俺は、まだ生きていた。
薬師の老人が脈を取り、首を捻った。曲直瀬流を名乗る、あの老人だ。
「日向守様。妙にござる」
「先生。それは、去年も伺いました」
「去年より、妙にござる」
老人は薬箱を閉じながら、こう言った。
「それがしは、九十二になり申した」
「――九十二、でございますか」
「さようで。そして、日向守様より、元気にござる」
俺は声を出して笑い、案の定、咳き込んだ。
「笑われますな」
老人はそう言って、部屋を出ていった。廊下を歩く足音が、俺より確かだった。
◇
五月。
ある朝、目が覚めて、こう思った。
(誰かに、会っておきたい)
誰に、と考えて、すぐに気づいた。もう、皆に会った。上様。中将様。柴田様。羽柴様。丹羽様。滝川様。村井様。玉と、りんと、光慶。この一年、会える者には、会っておいた。
だが、一人いる。
「利三。文を出したい」
「どちらへ」
「土佐だ」
利三が、少し驚いた顔をした。
「長宗我部様に、でござるか」
「そうだ。あの方には、まだ、詫びておらぬ」
「詫び状に、書いておられ申す」
「書いた。だが、直に言うておらぬ」
文にするしかなかった。俺は、もう動けない。それも書いた。
――宮内少輔様へ。お会いしとうございます。ですが、それがしは動けませぬ。ゆえに、文にて申し上げます。
――あのとき、それがしは貴殿の兵を死なせました。四年伝えたことを、覆しました。そして、それを上様のせいにはいたしませぬ。伝えたのはそれがしにございます。ゆえに、責はそれがしにございます。
利三の筆が止まるのを待って、俺は言った。
「もう一行、足す」
「は」
「――そして、それがしは、貴殿を得難き御方と思うておりました」
利三は、何も言わずに、書いた。
◇
返事は、二十日で来た。
俺はもう、字が読めない。利三が読んだ。
――日向守どのへ。文、拝読いたし候。そして、こちらも申し上げたきことがござる。
――日向守どのは、あの折、上様の御意を曲げられ申した。そして、こちらの兵を止められ申した。あれで、幾人か、生き申した。
俺は、目を閉じた。
――幾人かは、分かり申さぬ。だが、生きた者がおり申す。そして、その者どもは、日向守どのの名を知り申さぬ。ゆえに、それがしが伝え申す。『あのとき、兵を止めさせた者がおった』と。
俺は、しばらく泣いた。
防いだ事故は、記録に残らない。起きなかった飢えは、誰にも見えない。二十年前に三沢に言われた、あの言葉が、土佐から返ってきた。名を知らない者が、生きている。それを、名を知っている者が、伝えると言っている。
利三は、最後の一行を読んだ。
――日向守どの。四国は、こちらの手にはござらぬ。だが、土佐は、飢えており申さぬ。それで、充分にござる。




