第139話 利三
文禄四年、六月。
床から出られなくなった。だが、頭は、まだ動いた。毎日、利三を呼び、話した。利三は、書き留めた。
六月の初め。
「利三。一つ、頼みがある。俺が死んだ後、書付を守ってくれ」
「守り申す。蔵に、入れ申す」
「それでは、守れぬ。蔵に入れれば、読まれぬ。そして、読まれぬものは、失われる。――使え。毎日、使え。そして、直せ」
「殿。直してよろしいので」
「直せ。直さねば、古びる。そして、古びたものは、誰も使わぬ」
「殿。ですが、直せば、殿の書付ではなくなり申す」
「利三。それでよい。俺の書付である必要は、ない。使えるものであれば、よい」
「殿。それは、寂しゅうござらぬか」
俺は、少し笑った。皆、同じことを聞く。
「寂しい。だが、それでよい」
◇
六月の半ば。
「利三。一つ、聞きたい。おぬしは、俺に仕えて、良かったか」
利三は、しばらく黙っていた。
「良かったとは、思うており申さぬ」
俺は、少し笑った。正直だ。
「なぜだ」
「苦労いたし申した。書付、書付で、十九年にござる。そして、槍を取ったのは、数えるほどにござる」
「すまぬ」
「謝られますな。良かったとは思わぬが――悔いてもおり申さぬ。名が、残り申した。『功の書』に。あれを、母に見せ申した。そして、母は、泣き申した。『よう勤めた』と申され申した。七十五になる母が、にござる」
「母上は、今も」
「一昨年、亡くなり申した」
「知らなんだ」
「申しませなんだゆえ。殿が、お忙しかったゆえ」
(同じだ)
煕子も、そう言った。およしも。
「利三。すまぬ」
「謝られますな。それがしが、申さなんだゆえにござる」
「違う。俺が、聞かなかったゆえだ」
「殿。それは、同じことにござる」
「違う。言わぬ者を責めるのは、易い。だが、聞かぬ者が、悪い」
「殿。それは、書き留めてよろしゅうござるか」
俺は、少し笑った。
「書け」
◇
六月の終わり。
「利三。もう一つ、頼みがある。光慶を、頼む。だが、甘やかすな。そして、止めろ。あの子が、無理をしたら、止めろ。俺を止めたように」
「殿。それがしは、殿を止められ申さなんだ」
「止めた。二度、止めた」
「ですが、三度目は、止められ申さなんだ」
(三度目。去年の、諸将巡りだ)
「利三。あれは、俺が決めた。そして、悔いておらぬ。行ってよかった。修理亮様に、会えた。そして、筑前殿にも。利三。人は、いつか死ぬ。そして、死ぬ前に、会っておくべき者がおる」
「殿。それも、書き留めまする」
◇
七月。
「利三。最後の頼みだ」
「『最後』は、おやめくださいませ」
「ならば、次の頼みだ。俺が死んだら、書き留めてくれ。俺が、何をしたかだ。そして、何をしなかったかだ。噂が、立つゆえだ。そして、噂は、事実より速い」
「殿。どのような噂が立つと、お思いで」
「分からぬ。だが、たぶん、こうだ。『明智日向守は、上様を恨んでおった』と」
「殿ッ。そのような」
「立つ。なぜなら、面白いゆえだ。『よく仕えた家臣』より、『恨みを抱えた家臣』のほうが、面白い」
俺の知っている「歴史」が、四百年、そうだった。動機を、誰も知らない。だから、誰かが作った。
「殿。ならば、書き留め申す。そして、皆に配り申す」
「配っても、読まれぬ。だが、それでよい。百年後、一人でも読めば、それでよい。そのころには、噂のほうが、大きくなっておる。そして、誰も、事実を知らぬ。だが、紙が、残っておる」
「殿。一つ、伺ってよろしいか。殿は、なにゆえ、そこまで先を見られる」
「利三。俺は、先を見ておるのではない。後ろを、見ておる。俺は、一度、死んだ。そして、誰も、俺を覚えておらなんだ。前の世でだ。俺は、十七年、働いた。そして、何も残さずに、死んだ。紙は、全部、捨てられた。ゆえに、今度は、残す。それだけだ」
三十七ページの資料は、たぶん、机の引き出しごと処分された。読んだ者はいない。それだけのことが、二十年、俺を動かしている。
「殿。残り申す。それがしが、残し申す」
「利三。おぬしも、いずれ死ぬ」
「知っており申す。ゆえに、それがしも、次に渡し申す」
利三は、書付を閉じた。二十年分の、俺の言葉を書き取ってきた男だ。この男の字で、俺の考えは、全部残っている。俺の字は、震えて読めない。それでいい。書く者と、残す者は、別でよい。
俺は、しばらく黙っていた。
「利三。――ありがとう」
利三は、しばらく黙っていた。
「殿。それは、初めて、伺い申した」
「そうか。遅かったな」
利三は、しばらく黙っていた。そして――
「――で、いつやりますので」
俺は、しばらく黙って、それから笑った。久しぶりに、声を出して笑った。そして、咳き込んだ。
「殿ッ」
手を上げた。
「利三。今、やっておる」




