第138話 わしが歩けば
文禄四年、三月。
坂本にいた。もう、遠出はできない。だが、安土からは、報せが来る。信長は、回復していた。だが、以前のようには動けない。
四月。信長が、坂本に来た。
「利三ッ。まことか」
「まことにござる。既に、湖を渡っておられる。『日向守は、動けぬ。ゆえに、わしが行く』と」
◇
信長は、夕に着いた。部屋に入ってきた。
(杖を、ついておられる)
六十二になっていた。そして、痩せていた。
「日向守」
平伏しようとした。できなかった。
「よい。――痩せたな」
「上様も」
「そうだな。二人とも、痩せた」
しばらく、二人とも黙っていた。
「日向守。十九年か。長かったな」
「長うございました」
「日向守。一つ、聞く。おぬしは、何をした」
俺は、しばらく考えた。
「――書きました。それだけにございます」
「日向守。わしは、違うと思う。おぬしは、聞いた。そして、書いた。だが、いちばん大きいのは、それではない。――待った、ということだ。日向守。おぬしは、十九年、待った。わしが、変わるのを。そして、勘九郎が、育つのを。そして、猿が、止まるのを」
「上様。それは、待っていたのではございませぬ。間に合わなんだだけにございます。それがしは、いつも、急いでおりました。ですが、事は、遅うございました。ゆえに、待ったように見えるだけにございます」
「日向守。それは、同じことだ。急いでおって、間に合わぬ。そして、それでも、続ける。それを、待つと言う。――日向守。わしは、待てなんだ。わしは、いつも、こう思うておった。『わしが歩けば、そこが道になる』と」
十九年前、この人はそう言った。
「そして、それは、正しかった。わしが歩いて、道になった。――だが。誰も、その道を歩けなんだ」
俺は、動けなかった。
(言われた)
十九年前、俺が言おうとして、言えなかったことだ。
「日向守。おぬしは、あのとき、こう言おうとしたな」
「申そうといたしました。『殿が通った後、誰も歩けぬ道では、天下は続きませぬ』と」
「言えばよかった」
「言えば、斬られておりました」
信長は、少し笑った。
「斬っておったな。――日向守。おぬしは、言わなんだ。代わりに、道を直した。わしの通った道を、後ろから、歩けるように直した。十九年、それをやった」
「上様。それは」
「気づいておらなんだと思うたか。日向守。わしは、速い。だが、馬鹿ではない」
俺は、少し笑った。
「日向守。一つ、詫びておく。――四国のことだ。あのとき、わしは方針を変えた。そして、おぬしの面目を潰した。あれは、必要であった。ゆえに、変えた。だが、伝え方が、悪かった。おぬしに、先に言うべきであった。そして、理由も」
「上様。理由は、伺いました」
「おぬしが、聞いたゆえだ。聞かねば、言わなんだ。――日向守。あのとき、おぬしは、『来年までは兵を進めてよい、とは申せませぬ』と言うた。わしは、腹が立った。だが、同時に、安堵した。『この男は、わしの言葉を、そのままは伝えぬ』と。日向守。わしの言葉は、鋭い。そして、そのまま伝われば、人が死ぬ。ゆえに、間に、誰かが要る。おぬしは、それをやった。十九年、やった」
「上様。それがしは、いなくなりまする」
「知っておる」
「ゆえに、上様。お言葉を、和らげてくださいませ。それがしがおらねば、間に立つ者がおりませぬ。ゆえに、上様ご自身で、和らげてくださいませ」
「日向守。それは、難しい」
「難しゅうございます。ゆえに、一つ、法をお教えいたします。――一晩、置いてくださいませ。腹が立たれたとき、その場で仰せられませぬよう。一晩、置いてくださいませ。そして、翌朝、まだ同じことをお思いなら、仰せくださいませ」
「日向守。それは、遅い」
「遅うございます。ですが、上様。一晩置いても、変わらぬことは、幾つございましょうか」
「――少ないな」
「さようにございます。そして、一晩で変わることは、その場で仰せられずともよいことにございます」
「日向守。おぬし、それをやっておったか」
「やっておりました。十九年」
嘘だ。十九年ではない。四十年だ。前の会社で、社長に「仕組みで動く会社なんぞ遅い」と言われた夜、俺は十二の反論を、一晩置いた。翌朝、まだ十二あった。そして、一つも言わなかった。一晩置く法は、あの夜、失敗から覚えた。
忠興に教えた「半刻、庭に出る」の、上様向けの形だ。癇は直らぬ。だが、逃げ方は覚えられる。
「ならば、やる」
◇
信長は、坂本に泊まった。翌朝、帰る前に、言った。
「日向守。一つ、渡すものがある」
書付だった。開いた。鷹の帳面だった。
「上様。これは」
「やる。――おぬしが、いちばん喜ぶゆえだ」
俺は、動けなかった。そして、涙が出た。
「泣くな」
「泣いておりませぬ」
「泣いておる。――日向守。礼を言う」
(初めてだ)
十九年で、初めてだ。
信長は、杖をついて、立ち上がった。
「日向守。まだ、死ぬな」
「努めまする」
部屋を出ようとして、振り返った。
「日向守。一つ、言い忘れた。――勘九郎は、わしには似ておらぬな」
「似ておられませぬ」
信長は、しばらく黙っていた。
「――だから、よい」




