第137話 最後の巡り
文禄三年、九月。
決心をした。もう一度、諸将に会う。
利三は、猛反対した。
「殿ッ! それは無理でござる! 北陸まで、幾日かかると思うておられる」
「十日だ」
「殿の体では、二十日かかり申す」
「ならば、二十日かける」
「殿。なにゆえ、でござる」
「顔を、見ておきたい。――最後になる」
利三は、しばらく黙っていた。
「お供いたし申す」
◇
十月。北陸へ向かった。輿だった。一日に三里しか進まなかった。北ノ庄に着いたのは、二十二日目だった。
柴田勝家は、門で待っていた。七十三になっていた。だが、まだ、大きい。
「日向守ッ!」
俺は、輿から降りられなかった。
「そのままでよい。――日向守。老けたな」
「修理亮様は、お変わりございませぬ」
「変わっておる。去年、馬に乗れなくなった。七十二だ。当たり前だ」
その夜、勝家が飲んだ。俺は、飲めない。
「日向守。飲まぬのか。つまらぬな」
「修理亮様。加賀は、落ちましたか」
「落ちた。三年前だ」
(知らなかった)
報せは、来ていたはずだ。だが、覚えていない。
「修理亮様。申し訳ございませぬ。覚えておりませなんだ」
勝家は、笑った。
「ははっ! そうか! 日向守。それでよい。加賀が落ちたのは、大きなことではない。二十年かけて、落ちた。そして、落ちたとき、誰も騒がなんだ。日向守。それが、良いことだ。大きく騒がずに終わるのが、良い戦だ。――そして、それは、おぬしのおかげだ。おぬしが、雪のことを聞いた。そして、わしは、雪を数えるようになった。そして、雪が浅い年に、攻めた。二十年、待った。そして、三年前、いちばん雪の浅い年が来た。ゆえに、攻めた」
(待った)
この人は、二十年待った。そして、数字が揃った年に、動いた。二十年前、「北陸は遠い。伺いを立てていれば戦が終わる」と書いてきた人が、二十年、待った。
「修理亮様。それは、書き残されましたか」
「書いた」
二十年分の、雪の記録だった。
(上様の鷹と、同じだ)
「修理亮様。これを、写させてくださいませ」
「写せ。そして、次の者に渡せ。わしの跡は、佐久間玄蕃だ。甥だ。雪は、数えさせておる。五年前から。――日向守。わしも、学んだ。一人でやっておっては、消える」
「修理亮様。かたじけのうございます」
◇
その夜、奥から人が来た。
お市だった。
四十八になっておられる。北ノ庄に嫁いで、八年になる。
「日向守どの。お久しゅうございます」
「――市どの」
俺は、床から起き上がろうとした。できなかった。
「そのままで」
この方は、そう言って、座った。
「日向守どの。痩せられました」
「市どのは、お変わりございませぬ」
「変わりました」
少し笑われた。
「――太りました。北陸は、寒うございますゆえ。よく食べます」
俺は、少し笑った。
◇
「日向守どの。一つ、お伝えしたきことがございます。――取次役のことにございます」
「使われましたか」
「使いました。二度」
俺は、身を起こそうとした。利三が、背に手を添えた。
「どのようなことで、でございましょうか」
「一度目は、五年前にございます。安土から、兄の使者が参りました。北陸の兵を出せ、と。夫は、出せぬと申しました。冬でございましたゆえ」
この方は、続けた。
「そのとき、わたくしは取次役に文を出しました。『冬は動けぬ。それは怠りではなく、雪ゆえである』と」
「――上様は、何と」
「『雪の数を寄越せ』と」
俺は、思わず笑った。
(――修理亮様の帳面だ)
二十年、この人が数えてきた雪が、そこで使われた。
「二度目は」
「去年にございます。夫が、癇癪を起こしました。家中の者を、斬りかけました」
俺は、動きを止めた。
「わたくしは、間に入りました。そして、こう申しました。『半刻、外へお出になってくださいませ』と」
俺は、しばらく答えられなかった。
(――玉と、同じことを)
「市どの。それは、どちらでお聞きに」
「覚書に、書いてございました。娘御の書かれた分にございます」
この方は、少し笑った。
「『嫁ぐ者の覚』にございます。日向守どのが、写しをくださいました」
◇
「日向守どの。もう一つ、お伝えせねばなりませぬ。――娘のことにございます」
俺は、顔を上げた。
「茶々が、嫁ぎまする」
(――茶々)
十七年前、安土で会った。八つか、九つだった。何も言わずに、こちらを見ていた娘だ。
「おいくつになられました」
「二十六にございます」
「――遅うございますな」
「遅うございます」
この方は、頷いた。
「兄が、決めかねておりました。あの子は、浅井の娘でございますゆえ」
俺は、その言葉の重さを、理解した。
滅ぼされた家の娘だ。どこへ嫁がせても、政の意味がついてくる。だから、決められなかった。
「お相手は」
「――京の公家にございます。武家ではございませぬ」
俺は、しばらく黙っていた。
(――上手い)
武家に嫁がせれば、浅井の血が兵と結びつく。公家なら、結びつかない。そして、格は落ちない。
「市どの。それは、上様がお決めになりましたか」
「いいえ」
この方は、首を振った。
「――茶々が、選びました」
俺は、動けなかった。
「日向守どの。あの子は、覚書を読んでおりました。わたくしの分と、玉どのの分と、両方にございます。そして、こう申しました。『母上。わたくしは、橋になりとうございませぬ』と」
俺は、答えられなかった。
「そして、こうも申しました。『ですが、どうしても橋になるのなら、渡る者を選びとうございます』と」
◇
俺は、しばらく天井を見ていた。
(――十七年)
八つの娘が、二十六になって、自分で決めた。
俺が二十年やってきたことのうち、いちばん見えにくいものが、そこにあった。制度は、決めさせない仕組みではない。決められるようにする仕組みだ。
「市どの。一つ、お願いがございます」
「なんでございましょう」
「茶々どのに、お伝えくださいませ。――『それでよい』と」
この方は、少し笑われた。
「日向守どの。それだけでございますか」
「それだけにございます」
俺は、続けた。
「それがしは、十七年前、あの方に何も申しませなんだ。八つの娘に、申すことがございませなんだ。――今も、それだけにございます」
お市は、しばらく黙っていた。
そして、立ち上がる前に、こう言った。
「日向守どの。十七年前、あなた様はわたくしに、こう伺われました。『橋になりたかったか』と」
「――覚えております」
「あのとき、わたくしは答えられませんでした」
この方は、俺を見た。
「今なら、答えられます」
「――伺いとうございます」
「――なりとうございませんでした」
俺は、深く頭を下げた。
「ですが」
この方は、続けた。
「娘は、選びました。それで、充分にございます」
◇
「日向守。まだ飲まぬのか。つまらぬな」
勝家が、部屋に戻ってきた。
お市は、少し笑って、下がられた。
「日向守。おぬし、市と何を話しておった」
「――橋の話にございます」
「橋」
「さようにございます」
勝家は、しばらく怪訝な顔をしていた。それから、盃を呷った。
「――わしは、市に礼を言うたことがない」
「修理亮様」
「言うておらぬ。八年、言うておらぬ」
この人は、そう言って、また盃を呷った。
「日向守。おぬし、書付にせよ。――『妻に礼を言うべし』と」
俺は、少し笑った。
「修理亮様。それは、書付にはなりませぬ」
「なぜだ」
「――ご自分で仰せられねば、意味がございませぬゆえ」
勝家は、しばらく黙っていた。
そして、酒を置いて、立ち上がった。
――部屋を出る前に、こちらを振り返った。
「日向守」
「は」
「――かたじけない」
俺は、平伏した。
この人が礼を言ったのは、二十年で初めてだった。そして、たぶん、俺に言ったのではない。
◇
翌朝、発つ前に、勝家がもう一度来た。
「日向守。昨夜のことだが」
「――は」
「わしは、市に言うた」
俺は、顔を上げた。
「――何と」
「『八年、大儀であった』と」
「――市どのは」
勝家は、しばらく黙っていた。それから、渋い顔をした。
「――泣きおった」
「修理亮様」
「――女子は、分からぬ」
俺は、笑った。笑って、咳き込んだ。
この人は、慌てて背を叩いた。強すぎた。
◇
「日向守。礼を言うな。わしは、おぬしが嫌いであった。南蛮かぶれの、書付ばかり作る男だと思うておった。そして、今も、少し思うておる。――だが、日向守。おぬしは、わしに雪のことを聞いた。二十年、誰も聞かなんだことをな。ゆえに、わしは、おぬしを認める」
俺は、深く平伏した。心理的安全性を「具足が厚いことか」と聞き返した人が、雪を二十年数えた。
◇
十一月。播磨へ向かった。だが、姫路には着かなかった。途中で、倒れた。播磨の手前の宿で、三日、動けなかった。
四日目。羽柴秀吉が、来た。
(来られた)
「日向守様。無理をなさるな。そのままで。それがしが参り申した。それがしは、走るのが仕事にござる」
俺は、少し笑った。
「日向守様。何を、話しに来られた」
「筑前殿。一つ、お返ししたいものがございます」
懐から、書状を出した。七年前、この男から預かったものだ。
「お預かりしておりました。『それがしが変わりし折、これを見せてくれ』と」
「日向守様。それがしは、変わり申したか」
「分かりませぬ。ゆえに、お返しいたします。ご自分で、お読みくださいませ」
秀吉は、開いた。しばらく、読んでいた。
「日向守様。変わっており申す。七年前、それがしは、こう書いており申す。『それがしは、それがしを信じておるゆえ』。――今は、信じており申さぬ。八十七人にござる。あれから、また、幾人か暇を出し申した。だが、今度は、理由を書いており申す。そして、書いてみて、分かり申した。半分は、それがしの落ち度にござった。使い方を、誤っており申した。ゆえに、それがしは、それがしを信じており申さぬ」
「筑前殿。それは、良いことにございます。己を信じておらぬ者は、確かめまする。そして、確かめる者は、誤りませぬ」
「日向守様。日向守様は、あと幾年でござる」
「一年か、二年かと」
「日向守様。それがしは、五十八にござる。そして、上様は、六十一にござる。中将様は、三十七にござる。日向守様がおられなくなれば、上様と中将様の間に、誰もおらなくなり申す」
俺は、この男の顔を見た。
三年前、この男は「初めて、一人にござる」と書いてきた。半兵衛が死に、官兵衛が離れ、小一郎様が逝った。三人とも、いない。
(――この男も、間を失っている)
俺と上様と中将様の間の話をしているが、この男自身の周りには、もう誰も立っていない。
「筑前殿。一つ、伺ってよろしゅうございますか。――今、筑前殿を止められる方は」
秀吉は、しばらく黙っていた。
「――おり申さぬ」
「三年前と、同じにございますな」
「同じにござる。――増え申さなんだ」
この男は、少し笑った。
「日向守様。それがし、探し申した。まことに探し申した。若い者を集め、『わしに逆らえ』と申し付け申した。――一人も、逆らい申さなんだ」
「なにゆえ、でございましょうか」
「――それがしが、天下人に近すぎるゆえにござる」
俺は、答えられなかった。
(そうだ)
俺は、その間に立ってきた。そして、いなくなる。
「筑前殿。ゆえに、お願いがございます。間に、立ってくださいませ」
「日向守様。それは、それがしには務まり申さぬ。それがしは、力を持ちすぎており申す。間に立てば、押しつぶし申す」
(分かっている)
自分の力の大きさを、この男は正確に知っている。それを言えるようになったのが、変わったところだ。
「筑前殿。ならば、こういたしましょう。間に立たれるのではなく、外に立ってくださいませ。上様と中将様の間には、他の者を立てまする。村井様。丹羽様。滝川様。そして、筑前殿は、その外におられませ。見ておられませ。そして、間の者が誤ったとき、そう仰せくださいませ」
「日向守様。それは、面倒な役にござるな」
「さようにございます。ですが、筑前殿にしか、できませぬ。力をお持ちゆえにございます。力のない者が『誤っておる』と申しても、誰も聞きませぬ。ですが、筑前殿が申されれば、皆、聞きまする」
「日向守様。それは、うまいことを申されるな。――ですが、承知いたし申す。外に立ち申す。そして、見ており申す。ただし、日向守様。それがしが、いつまでそうしておるかは、分かり申さぬ」
「存じております。ですが、今、そう仰せられました。そして、それを、書き留めまする」
「日向守様。最後まで、そうにござるな」
「さようにございます」




