第136話 残すもの
文禄三年、二月。
六十六になった。そして、歩けなくなった。正確には、遠くへ行けなくなった。城の中なら、歩ける。だが、馬には乗れない。輿でも、一日が限度だ。
坂本の書院で、書付を整理していた。残す百八十七枚。もう一度見直した。そして、気づいた。
(順序が、悪い)
作った順に並んでいる。だが、読む者にとっては、それでは分かりにくい。
どう並べるか。
――困りごとの順に、並べる。
(そうだ)
書付を読む者は、困っているから読む。ならば、困りごとから引けるようにする。
目録を作り始めた。荷が遅れる。家臣が辞める。国衆が離れる。家中が疲れる。主が倒れる。決めごとが多すぎる。噂が立つ。項目を、四十作った。それぞれに、書付の番号を振った。三月かかった。
「利三。できた」
利三は、しばらく黙っていた。
「殿。これは、大きゅうござる。これまで、書付は、読まねば分かり申さなんだ。ですが、これがあれば、引けまする」
「利三。一つ、頼みがある。これを、使ってみてくれ。そして、引けぬものがあれば、言え」
◇
二月後、利三が書付を持ってきた。
「殿。引けぬものが、十四ござった。一つ。『家中の者が、死んだとき』」
(書いていない)
弔いのことを、書いていない。
「二つ。『子が生まれたとき』。三つ。『家中の者が、嫁を取るとき』」
(全部、人の一生だ)
生まれる。嫁を取る。子ができる。親が死ぬ。そして、死ぬ。俺は、それを、書いていない。
「利三。それは、煕子が書いていた」
「さようにござる。ですが、お方様は、亡くなられ申した」
(そうだ)
あの帳面は、書き方が書いていない。煕子が、頭でやっていた。半兵衛の策と、同じだ。
「利三。およしを呼べ」
およしは、三十になっていた。子が二人いる。
「およし。帳面を、続けておるか」
「続けております。お方様に、教わった通りに。『変わったことを、書け』と。昨日と、違うことにございます」
(昨日と、違うこと。上様の鷹と、同じだ)
「およし。どうやって、昨日と違うことを知る」
「顔にございます。毎日、顔を見ておれば、分かります。『今日は、元気がない』と」
「それを、どう書く」
「『元気がない』と書きます」
「そして、どうする」
「聞きます。『どうしたか』と。たいてい、答えませぬ。ならば、三日、待ちます。そして、三日続けば、また聞きます。そのときは、たいてい、答えます」
(これだ)
一度で聞き出そうとしない。そして、続いたら、また聞く。宗易が「減らして、様子を見る」と言ったのと、同じ段階がある。
「およし。それを、書いてくれ」
「お殿様。わたくしは、字が拙うございます」
「拙くてよい。そして、拙いほうがよい。拙い字なら、読む者が『自分にもできる』と思う。上手い字は、遠く見える」
◇
二月後、およしは書付を持ってきた。字は、拙い。だが、書いてあることが、具体的だ。
――『元気がない』を見つける法。一、朝、挨拶の声を聞く。小さければ、覚えておく。二、飯を食う量を見る。減っておれば、覚えておく。三、人と話しておるかを見る。話しておらねば、覚えておく。
(全部、測っている)
声の大きさ。飯の量。話す回数。全部、見れば分かるものだ。鷹の量り方を、人に使う法を、台所の女が書いた。
「およし。これは、良い書付だ。これは、煕子に教わったか」
「半分は。残り半分は、わたくしが、見つけました」
(育っている)
「およし。これを、目録に入れる。そして、名を書く」
「お殿様。それは、恐れ多うございます」
「およし。聞け。名がなければ、誰が書いたか分からぬ。そして、分からねば、後の者が問えぬ。十年後、誰かがこれを読む。そして、分からぬところがあれば、おぬしに聞く」
「わたくしは、そのころ、おりませぬかもしれませぬ」
「おるかもしれぬ。そして、おらずとも、『およしという者が書いた』と分かる。それが、大事だ」
およしは、しばらく黙っていた。
「お殿様。わたくしは、十六年前、字が読めませなんだ。そして、台所で、どこに立てばよいか分かりませなんだ。そのとき、お殿様が、絵図を描いてくださいました。そして、『字は、習いたいか』と。――あのとき、誰も、わたくしに何かを聞いてくださいませなんだ。『どこに立てばよいか分からぬ』とは、言えませなんだ。ですが、お殿様が、聞いてくださいました。ゆえに、わたくしは、今、聞く側におります。毎日、誰かに、『どうしたか』と聞いております」
(繋がった)
十六年前、俺がおよしに聞いた。そして、およしが、今、誰かに聞いている。
「およし。名を、書け」
およしは、深く平伏した。
「書かせていただきます」
◇
その月の終わり、家中の若い者が四人、書院に来た。
いちばん年若い者が、思い詰めた顔で言った。
「殿。伺いたきことがございます。――それがしどもは、書付に置き換わりまするか」
俺は、筆を止めた。
「どういう意味だ」
「役目書に、することが全部書いてございます。荷の覚に、いつ何が着くかが書いてございます。ならば、それがしどもは、書いてある通りに動くだけの者になりまする」
もう一人が、続けた。
「――そして、書いてある通りに動くだけならば、誰でもよろしゅうございます」
俺は、しばらく黙っていた。
(――良い問いだ)
そして、前の世でも同じ問いを聞いた。新しい道具が入るたびに、若い者がこれを聞く。そして、上の者はたいてい「そんなことはない」と言って済ませる。
済ませてはならない問いだ。
「三つ、道がある」
俺は、指を三本立てた。
「一つ目。書付に使われる者だ。書いてある通りに動く。それだけをする。――これは、確かに、誰でもよい」
若い者たちが、身を固くした。
「二つ目。書付を着る者だ。書付があるゆえに、一人で前の三人分を見られる。荷も、村も、人も、同時に見られる。――これは、書付がなければできぬ」
「三つ目」
俺は、指を一本残した。
「――書付を、どこに置くかを決める者だ。何を書き、何を書かぬかを決める。書いてよいことと、書いてはならぬことを分ける。――これは、書付には書けぬ」
若い者たちは、黙っていた。
「一つ目は、いずれ要らなくなる。二つ目と三つ目は、要らなくならぬ」
「殿。では、それがしどもは」
「――今は、一つ目だ」
俺は、はっきり言った。四人の顔が、強張った。
「だが、それは悪いことではない。俺も、一つ目から始めた」
俺は、続けた。
「そして、一つ目をやっておらぬ者は、三つ目になれぬ。荷を数えたことのない者に、荷の書付は作れぬ」
若い者の一人が、聞いた。
「殿。いつ、二つ目になれまするか」
「――書付の誤りを見つけたときだ」
俺は言った。
「書いてある通りにやって、うまくいかなんだとき。そこで『書付が悪い』と気づけたら、二つ目だ。『己が悪い』と思うておるうちは、まだ一つ目だ」
四人は、深く頭を下げて出ていった。
◇
その夜、俺は書付に一行足した。
――若き者を一つ目に置きすぎると、二つ目が育たぬ。
書きながら、少し寒くなった。
(――これは、大きな穴だ)
役目書を作った。荷の覚を作った。書いてある通りにやれば、間違えなくなった。
だが、間違えなくなった者は、なぜそう書いてあるかを知らない。
前の世でも、同じことが起きていた。手順書が完璧になるほど、若い者は手順の理由を知らずに育つ。そして十年後、手順を直せる者が一人もいなくなる。
(――俺は、二つ目と三つ目を、自分でやってしまった)
二十年、俺が全部書いた。だから、家中には一つ目しかいない。
俺は、目録の余白に、書き足した。
――一年に一度、若き者に、書付を一枚書かせること。
――拙くてよい。書いた者は、書付を疑えるようになるゆえ。
◇
その夜、目録の最後に、書き足した。
――右の書付は、四十年、幾人かが書き足したものなり。書いたる者の名は、それぞれに記す。読む者は、分からぬところあらば、書きたる者に問うべし。書きたる者、既に世になくば、その者を知る者に問うべし。
――そして、問うた答えを、また書き足すべし。
(これで、続く)
俺が死んでも。そして、およしが死んでも。




