第134話 上様が、倒れられた
文禄二年、六月。
その報せは、突然だった。
「殿ッ。安土より、火急の報せにござる」
――上様、御不例。
(病か)
――昨夜より、熱高し。医師、二名を呼ぶ。右、試しにあらず。
拳を握った。試しではない。本物だ。
「利三。書付を出せ」
上様、御不慮の折の覚。開いた。そして、手が止まった。
(これは、御不慮ではない)
「御不例」だ。病だ。
(書いていない)
「死んだとき」は、書いてある。「病んだとき」は、書いていない。
(穴だ)
十六年、備えてきた。そして、いちばん起こりそうなことを、書いていない。最悪だけを想定した備えは、平凡な事態で穴を見せる。
「利三。安土へ行く。輿でよい」
「殿。お体が」
「知っている」
俺は、書付を畳んだ。
「利三。一つ、聞く。俺が今、動けなくなったら、明智の家はどうなる」
「止まり申さぬ」
利三は、即答した。
「荷も、村の裁きも、丹波の書付も、止まり申さぬ」
「そうだ。――ならば、行ける」
十六年かけて作ったのは、このためだ。当主が輿で三日城を空けても、家が止まらない。
(――だが、織田家は違う)
上様が動けなくなれば、止まる。何が止まるのかさえ、誰も数えていない。
◇
輿の中で、俺は数えた。
上様が三日動けぬと、何が止まるか。
――諸国からの伺いが、溜まる。一日に百。三日で三百。
――方面軍の兵の動きが、決まらぬ。柴田様が加賀へ出るかどうか、誰も決められぬ。
――他家との約定が、進まぬ。毛利も、上杉も、返事を待っている。
――そして、この三つが止まったことを、外の家が知る。
(――四つ目が、いちばん怖い)
上様が倒れたという話は、必ず漏れる。堺には、明日には届く。堺に届けば、毛利にも届く。
俺は、輿の揺れの中で、書付の題を決めた。
――上様、御不例の折の覚。
(――題だけは、決まった)
中身は、まだ一行もない。
◇
安土に着いたのは、翌日の夕だった。城は、静かだった。静かすぎる。
(――静かすぎる、というのは)
誰も動いていない、ということだ。
廊下を、小姓が一人通った。手ぶらだった。書付を運んでいない。
(――伺いが、上がっておらぬ)
止まっているのではない。誰も、上げようとしていない。上げる先がないからだ。
俺は、輿から降りながら、それを頭に刻んだ。
――主が動けぬとき、家臣は「待つ」のではない。「止める」のだ。
村井貞勝を探した。この人は、京から来ていた。
「村井様。上様は」
「生きておられる。だが、意識が、ござらぬ。昨夜からにござる」
「中将様は」
「岐阜におられる。だが、来られる。既に、発たれたとの報せがござる」
(来られる。父が倒れた。当然だ)
「村井様。それは、止められませぬな」
「止められ申さぬ。そして、止めるべきでもござらぬ」
(そうだ)
病んだ父のところへ、子が行く。それを、制度で止めてはならぬ。
「村井様。ただし、一つだけ。中将様のご滞在を、短くしていただきとうございます。三日で、お戻りいただきとうございます」
「日向守どの。それは、酷にござる」
「酷にございます。ですが、必要にございます」
「誰が、申される」
「――それがしが、申します」
◇
三日後、信忠が着いた。顔が青かった。目が赤い。岐阜から安土まで、この人は一日で来た。御動座之覚の第一条を書いたのは俺だ。第一条には、「父が病んだとき」が書いていない。書いていない条は、守りようがない。
「日向守。来ておったか。父上は」
「お目覚めになりませぬ」
「会う」
「お待ちくださいませ。――中将様。三日でお戻りくださいませ」
空気が変わった。
「日向守。それは、命令か」
「願いにございます。中将様と上様が、同じ場所におられるゆえにございます」
「日向守。父上は、倒れておられる。そして、わしは、子だ」
「さようにございます。ですから、三日は、おられませ。三日は、子として、おそばにおられませ。ですが、四日目からは、当主にお戻りくださいませ」
「日向守。そなたは、鬼だな」
「さようにございます」
◇
信忠は、部屋に入った。俺は、廊下で待った。半刻。一刻。
襖が開いた。
「日向守。入れ」
信長は、床にいた。
(小さい)
この人が、小さく見える。目を閉じている。だが、呼吸はある。
「日向守。父上は、目を覚まされるか」
「分かりませぬ」
「日向守。わしは、怖い。父上が、死なれることではない。死なれることは、覚悟しておる。――安堵しておる、己がだ。父上が倒れられたと聞いて、わしは、こう思うた。『これで、わしの天下だ』と。一瞬だ。だが、思うた」
俺は、しばらく黙っていた。
「中将様。それがしも、思いました。『これで、備えが試される』と。そして、少し、楽しみでございました」
「日向守。そなたも、鬼だな」
「さようにございます。ですが、中将様。それを、口に出されました。口に出せる者は、それに飲まれませぬ。飲まれるのは、隠す者にございます」
「日向守。そなたは、いつもそう言うな」
そのとき、床から声がした。
「――うるさい」
二人で、そちらを見た。信長が、目を開けていた。
「父上ッ」
「勘九郎。日向守。枕元で、何を話しておる。――全部、聞こえておった」
俺は、動けなかった。
「勘九郎。『これで、わしの天下だ』と思うたか」
「思いました」
「当たり前だ。わしも、思うた。父が死んだ折にな。そして、そう思わぬ者は、継げぬ。――日向守。『楽しみだ』と申したな」
「申しました」
「試せ。わしは、まだ死なぬ。だが、しばらく、動けぬ。ゆえに、その間を、試しとせよ」
(そういうことか。「死んだとき」ではない。「動けないとき」の試しだ)
「上様。承知いたしました。ですが、一つ、お願いがございます。『動けぬとき』の覚を、作らせてくださいませ」
「日向守。書いておらなんだのか」
「書いておりませなんだ。『死なれたとき』は、書いております。ですが、『動けぬとき』は、書いておりませぬ」
信長は、少し笑ったようだった。
「日向守。おぬしも、穴だらけだな」
「さようにございます」
「日向守。一つ、聞く。――なにゆえ、書かなんだ」
俺は、しばらく考えた。そして、正直に言った。
「――上様が病まれるところを、思い描けませなんだゆえにございます」
部屋が、静かになった。
「上様が倒れられるとしたら、それは戦の場か、道の途中か、いずれにせよ突然であろうと。――そう思うておりました」
「日向守。それは、わしを買いかぶっておる」
「さようにございます」
「わしは、人だ」
俺は、深く平伏した。
(――中将様に、同じことを言われた)
九年前だ。そなたは父上を仕組みとして見ておる、人だと思うておらぬ、と。
九年経って、同じ穴に落ちた。仕組みは倒れるか壊れるかの二つしかない。人は、その間に「弱る」がある。
「上様。書きまする」
「うむ」
「そして、書き終えましたら――上様に、お読みいただきとうございます」
「なぜだ」
「上様が、どこまで動けぬかは、上様にしか分かりませぬゆえ」
信長は、しばらく黙っていた。
それから、目を閉じたまま言った。
「――粥が食えるうちは、書付は読める」
俺は、その一行を、そのまま覚えた。
後で、覚の第一条になった。




