第132話 次の代
文禄元年、七月。
岐阜にいた。信忠が始めた「預かり」を見るためだ。三年目になる。
部屋に入って、驚いた。二十人ほどが座っていた。そして、その半分が、女子だった。
「日向守。これだ。今日は、講義がある。――佐久間だ」
佐久間信盛は、六十四になっていた。俺と、同い年だ。だが、背筋は、伸びていた。
「おお。日向守どの。痩せられたな」
「そちらは、お元気そうにございます」
「教えておると、老けぬ。若い者が、うるさいゆえ」
◇
「今日は、退き口の話だ。だが、戦の話ではない。――やめる話だ。物事を、いつやめるかという話だ」
(広がった)
「皆に、聞く。やめるのは、なぜ難しい」
一人の若者が、手を挙げた。
「これまでが、無駄になるゆえにございます」
「そうだ。五年やってきたことを、やめる。すると、その五年が、無駄になったように思える。ゆえに、やめられぬ。――わしは、本願寺を五年、囲んだ」
部屋が、静かになった。
「そして、落とせなんだ。なぜ、やめなんだと思う。五年、無駄にしたくなかったゆえだ。一年でやめれば、一年の無駄で済む。だが、五年やってしまえば、五年の無駄になる。ゆえに、六年目も続ける」
(前世でも、同じことがあった。損切りができない)
「ゆえに、先に決めておく。『三年で落ちねば、やめる』と。そして、三年経ったら、やめる。そのとき、迷うてはならぬ」
一人の女子が、手を挙げた。
「あと一年で落ちる、と分かった場合は、いかがいたしますか」
(良い問いだ)
佐久間は、しばらく黙っていた。
「難しい。そして、たいてい、その『あと一年』は、来ぬ。わしも、毎年、『あと一年』と思うておった。そして、五年経った」
「ならば、いかがすればよろしゅうございますか」
「延ばすなら、理由を書け。『なにゆえ、あと一年で落ちると思うか』を、書く。そして、一年後、その書付を読み返す。当たっておれば、続けてよい。外れておれば、やめる」
(良い)
延長を禁じるのではない。延長に、条件をつける。十九か条を受け取った人が、十九か条を受け取らずに済む方法を、教えている。
◇
講義の後、佐久間と話した。
「佐久間様。お見事にございました」
「日向守どの。やめられよ。褒められると、こそばゆい」
「佐久間様。今、幸せにございますか」
佐久間は、しばらく黙っていた。
「幸せにござる。だが、それは、十年前には思わなんだ。十九か条を頂いた折にござる。あのとき、わしは死のうと思うた。三十年仕えて、十九か条にござる。そして、高野へ行けと。――だが、日向守どのが、預かられた。そして、『退き口の話を、伺いたい』と申された。あのとき、わしは思うた。『まだ、要るものがあるのか』と。――日向守どの。人は、要らぬと言われて死ぬ。そして、要ると言われて、生きる」
「佐久間様。それは、書き留めさせていただきとうございます」
「日向守どの。相変わらずでござるな」
◇
その日の夕、信忠と話した。
「日向守。今日は、どうだった」
「驚きました。佐久間様の講義が、戦の話から、やめる話に広がっておりました」
「あれは、佐久間が自分でやった。わしは、何も言うておらぬ」
「もう一つ、驚いたことがございます。女子が、問うておりました」
「最初は、誰も問わなんだ。一年目の終わりに、一人が問うた。そして、皆が問うようになった」
「最初に問うたのは、誰でございますか」
信忠は、少し笑った。
「――そなたの娘だ。細川に嫁いだ娘ではない。もう一人の娘だ」
俺は、しばらく黙っていた。
(もう一人)
俺には、娘が何人かいる。そして、俺は、その顔を知らない。
戦国時代の武家では娘の数が多く、側室の子も含めると家族構成がかなり複雑であった。
また、娘は幼い頃から親族・有力家臣・他家へ養女や奉公として出されることが珍しくなかった。
「中将様。恥ずかしながら、それがしは、その娘を存じませぬ」
「日向守。会うてゆけ」
◇
その夜、その娘に会った。十七になるという。名を、りんといった。
(煕子に、似ている)
「父上」
「りん。すまぬ。顔を、知らなんだ」
「存じております。父上は、お忙しゅうございましたゆえ」
「言い訳にならぬ」
娘は、少し笑った。
「母上が、同じことを申しておりました。『あの人は、言い訳をせぬ』と。そして、『父上は、遠くを見ておられる。そして、近くも、見ようとしておられる』と」
俺は、動けなかった。
「りん。おぬしは、なぜ問うた。講義でだ」
りんは、少し赤くなった。
「分からなんだゆえにございます。皆、分からなんだでしょう。ですが、皆、問いませなんだ。――母上が、こう申しておりましたゆえ。『分からぬと言えるのは、良いことだ』と」
(煕子が)
俺が家中に言ってきたことを、煕子が、娘に伝えていた。玉のときも、光慶のときも、そうだった。この人は、俺の言葉を、俺の知らない場所に運んでいた。
「りん。一つ、渡したいものがある」
嫁ぐ者の覚。玉が書いたものだ。
「これは、姉が書いたものだ」
りんは、長いこと読んでいた。
「父上。一つ、足したいことがございます」
俺は、少し笑った。やはり、姉妹だ。
「言え」
「『嫁ぐ前に、婚家の者を知っておくこと』にございます。わたくしは、ここで、諸家の者を知りました。柴田の子も、丹羽の子も、滝川の子も。ゆえに、どこへ嫁いでも、知らぬ家ではございませぬ」
(これだ)
俺が信忠様にお願いしたことが、実になっている。
「りん。書け。そして、姉に送れ。姉が書いたものを、おぬしが直す。そして、姉が、また直す。そうして、書付は、良くなってゆく」




