第131話 元号が、変わる
天正二十年、十二月。
改元があった。天正から、文禄へ。
「利三。年号が変わる」
「さようで」
俺は、しばらく黙っていた。
(変わった)
俺の知っている「歴史」では、この年号は、別のときに来た。そのときには――
思考を止めた。
(もう、意味がない)
照合率など、とうに数えていない。俺の知っている未来は、消えた。消えた未来を、二十年、恐れていた。
書院で、書付を広げた。十六年分だ。数えた。二千枚を超えていた。
役目書。荷の覚。功の書。取次の筋目。御動座之覚。御不慮の折の覚。御不例の折の覚。役目の量の覚。諸将直繋ぎの覚。心覚えの書。詫び状。目録だけで、三枚になった。三沢が「殿の書付は荷より正確にござる」と言った、その正確さが、二千枚の重さになって、机の上に載っている。
(二千枚。誰も、読まない)
半兵衛様の言葉だ。七十三枚を読む者は、おらぬ。
――やり残したこと、その二。書付を、減らす。
十六年、増やし続けた。そして、最後に、減らす。
◇
利三が、覗き込んだ。
「殿。何をなさっておられる」
「捨てる」
利三は、青くなった。
「捨てるッ。殿。それは、十六年分にござるぞ」
「知っている。ゆえに、捨てる。読まれぬゆえだ。二千枚を読む者は、おらぬ」
「ですが、要るものもござろう」
「ある。ゆえに、分ける」
三月かけて、分けた。基準は、半兵衛様に教わったものを使った。一つ、何度も使うもの。二つ、間違えると、人が死ぬもの。三つ目を足した。なぜそうしたかが、書いてあるもの。
(これが、大事だ)
決まりだけを残せば、後の者は、それを疑えない。理由が書いてあれば、疑える。
分け終わった。残すもの、百八十七枚。捨てるもの、千八百枚あまり。
(一割だ)
十六年で、残るのは一割だ。だが、それでよい。九割は、その場で役に立った。そして、役目を終えた。
――書付には、二つある。一つは、その場で使うもの。一つは、後の世に残るもの。そして、書くときには、どちらか分からぬ。ゆえに、全部書く。そして、後で分ける。
だが、捨てなかった。
「殿。捨てられませぬので」
「考えを、変えた。蔵に、入れる。いつか、誰かが要るかもしれぬゆえだ。ただし、蔵の書付は、読まれぬものとする。そして、百八十七枚だけを、渡す」
「殿。それは、良うござる。捨てれば、戻せませぬゆえ」
役目を三月止めたときと、同じだ。止めるのと、廃するのは、別だ。門前の掃除を止めて、諍いが増えたことを、俺はまだ覚えている。何が要るかは、止めてみないと分からない。そして、紙は、止めるだけでは戻せない。
◇
文禄元年、四月。百八十七枚を、書き写した。いや、写させた。俺は、もう、長くは書けない。手が震える。
写したのは、与三郎だった。あの、一日十枚書いていた男だ。三十を過ぎていた。
「与三郎。休みは、取っておるか」
与三郎は、少し笑った。
「取っております。――釣りにございます。七年前、殿に『探せ』と申されましたゆえ。三年かかりました」
(三年。休み方を、探すのに三年)
「なぜ、釣りだった」
「書かずに済むゆえにございます。釣りは、何も書けませぬ。ただ、座っております」
「退屈ではないか」
「退屈にございます。ですが、それが、良うございます」
(そうか。退屈が、休みか)
「与三郎。俺も、連れて行ってくれ。俺は、休み方を知らぬ」
◇
五月。湖に出た。与三郎と、二人だった。竿を垂れた。そして、何も起きなかった。
半刻。釣れない。一刻。釣れない。
「与三郎。釣れぬな」
「釣れませぬ。たいてい、こうにございます」
「それで、良いのか」
「良うございます。釣れれば、なお良うございますが」
俺は、少し笑った。しばらく、黙っていた。湖が、静かだった。
(静かだ。そして、何も考えていない)
少し驚いた。十六年ぶりか。何も考えていない時間は。九年前、舟の上で寝転がったときは、頭が備中へ行っていた。今日は、どこへも行かない。
「殿。一つ、伺ってよろしゅうございますか。殿は、なにゆえ、書かれるのですか」
俺は、しばらく考えた。
「忘れるのが、怖いゆえだ。――人だ。俺は、多くの者に会うた。そして、多くが、死んだ。波多野右衛門大夫。荒木村重。竹中半兵衛。そして、妻だ。俺は、その者どもを、忘れる。もう、顔も薄うなっておる。ゆえに、書く」
「殿。書けば、忘れませぬか」
「――忘れる。だが、書いたものは、残る。そして、俺が忘れても、紙は覚えておる」
「殿。それは、寂しゅうございませぬか」
俺は、少し笑った。皆、同じことを聞く。
「寂しい。だが、忘れたまま、何も残らぬより、よい」
そのとき、竿が動いた。
「殿ッ」
鮒が、上がった。小さい。手のひらほどだ。
「与三郎。釣れた」
「釣れました」
「逃がすか」
「殿がお決めくださいませ」
「持って帰る。釣れたことを、書きたいゆえだ」
与三郎は、少し笑った。
「殿らしゅうございます」
その夜、書付に書いた。
――文禄元年、五月某日。湖にて、釣りをす。一刻半にて、鮒一匹。何の役にも立たぬ。だが、書いておく。




