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天才創業者・織田信長の下で潰れる前に、本能寺が起きない組織を作ります~MBAホルダー明智光秀の事業承継計画  作者: 東雲 諒杏
第十三章 鷹の帳面

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第128話 帰り道


 天正十九年、九月。

 九州から戻る道にいた。行きより、遅かった。俺の体が、保たなかった。八月の終わり、熱を出した。三日、輿に乗った。九月に入って、少し戻った。だが、馬には乗れなかった。

 輿の中で、書付を書いていた。

「殿。書いておられるので。お休みくださいませ」

「休んでおる」

「書きながら、休んでおられると申されますか。――で、いつやりますので」

「何をだ」

「お休みを」

 俺は、少し笑った。

「利三。分かった」

 筆を置いた。外を見た。瀬戸内の海だった。島が、いくつも見える。

「利三。きれいだな」

 利三は、驚いた顔をした。

「殿が、そのようなことを申されるとは」

「煕子に、言われた。『たまには、今日終わることを』と」

「お方様は、良いことを申されまする」

 しばらく海を見ていた。

「利三。一つ、話したいことがある」

 (言うか)

 上様に言われた。誰かに言うたほうがよい。生きておる者に。

「利三。信じられぬ話だ。――十五年前、俺は死んだ」

「死にかけられた、と」

「違う。俺は、一度、死んだ。そして、別の場所で、別の男として、生きていた」

 利三は、しばらく黙っていた。

「殿。それは――信じ申す」

「信じるか。なぜだ」

「殿は、嘘を申されぬゆえ。もう一つ、ござる。十五年前、殿は変わられ申した。そして、それは、病では説明がつき申さぬ」

「利三。おぬしは、いつから、そう思うていた」

「最初からにござる。殿が、『棚卸しだ』と申された折」

 俺は、少し笑った。

「なぜ、聞かなかった」

「聞いても、詮なきゆえ。殿が、殿であることに、変わりはござらぬ」

「利三。俺は、明智光秀ではない。俺は、この体を借りているだけだ」

「殿。一つ、伺ってよろしいか。殿は、この十五年、明智の家のために働かれ申したか」

「働いた」

「家中の者を、大事になさったか」

「大事にした」

「お方様を、大事になさったか」

 俺は、しばらく黙っていた。

「――足りなかった」

 利三は、少し笑った。

「ならば、明智光秀にござる。殿。人は、名で決まるものではござらぬ。やったことで、決まり申す」

 俺は、腹の底で受けた。

「利三。もう一つ、ある。俺は、未来を知っていた。十五年前、こう知っていた。『明智光秀は、六年後に、上様を討つ』と」

 利三は、しばらく黙っていた。

「殿。それは」

「起きなかった。そして、十五年経った」

「殿。この十五年、それを一人で抱えておられたのでござるか」

「抱えていた」

「殿。――重うござったな」

 俺は、答えられなかった。そして、涙が出た。輿の中で、しばらく泣いた。利三は、何も言わなかった。輿の外に立っていた。

「利三。すまぬ」

「謝られますな。十五年でござる」

「利三。一つ、頼みがある。この話を、書き留めてくれ。誰にも、渡さぬ。だが、書いておいてくれ。俺が死んだ後、誰かが問うゆえだ。『日向守は、なぜあれをやったのか』と。そのとき、答えがなければ、人は作る」

「承知いたし申した」

 丹波で、俺の母を人質に出した噂を作った者がいる。答えがなければ、人は作る。俺は、その噂を消せなかった。今度は、先に書いておく。


    ◇


 九州からの帰り、船で瀬戸内を渡った。姫路で、秀吉がもう一度、迎えに出た。輿の中の俺を見て、この男は、いつもの大声を出さなかった。

「日向守様。――お書きになっておられる」

「書いておりまする」

「それがしも、書き申した」

 差し出されたのは、一枚の書付だった。

 ――暇を出したる者、天正十九年分。三人。理由、右に記す。

 三人。八十七人の男が、一年で三人になった。理由が、三行、書いてあった。

「筑前殿。これは」

「日向守様が、数えよと申された。数えたら、減り申した。――減るとは、思うており申さなんだ」

 俺は、その紙を、心覚えの書に入れた。輿の中で、初めて、少し眠った。


    ◇


 十月。安土に戻り、坂本へ帰った。

 城に着いたとき、輿から降りられなかった。家中の者が、運んだ。そのまま床に伏せた。

 薬師が来た。八十七になる老人だ。

「日向守様。正直に、申し上げてよろしゅうござるか。――もう、無理はきき申さぬ」

「先生。あと、幾年でございましょうか」

「養生なされば、幾年でも。ですが、これまでのように働かれれば、二、三年にござる」

 (二、三年。足りるか)

「先生。養生とは」

「動かぬことにござる。そして、書かぬことにござる」

 (書かない。それは、俺にとって、死んでいるのと同じだ)

「先生。それは、できませぬ」

「さようでござろう。ゆえに、二、三年と申し上げ申した」

「先生。二、三年で、足ります。やり残したことにございます。そして、二、三年経てば、それがしは要らなくなりまする」

「日向守様。それは、寂しゅうござらぬか」

「寂しゅうございます。ですが、要らなくなることが、それがしの仕事にございます」

 老人は、少し笑った。

「日向守様。それがしも、同じにござる。医者は、患者が治れば、要らなくなり申す。そして、それが、いちばん良いことにござる」


    ◇


 十一月。

 播磨から、飛脚が来た。

 利三が、書状を持って入ってきた。開く前から、この男の顔で分かった。

 ――羽柴美濃守(みののかみ)秀長、死す。十一月二十二日。享年、五十二。

 俺は、床の上で、しばらく動けなかった。

 (小一郎様)

 初めて会ったのは、天正八年の播磨だった。あのとき、この人は四十一で、痩せていて、そして「大事ございませぬ」と言った。俺は信じなかった。

 あれから、十一年。

 この人がやってきたことを、数えられるだろうか。

 (数えられぬ)

 兵糧が切れなかったこと。荷が遅れなかったこと。九州まで三万の兵が行って、帰ってきたこと。全部、この人の仕事だ。そして、全部、誰にも見えない。

 三沢と、同じだ。防いだ飢えは、記録に残らない。

「利三。書いてくれ」

「――は」

「――『陣中、見様の覚』は、半兵衛様が口述された。だが、それを写して、諸家に配ったのは、小一郎様だ」

「――さようにござる」

「そして、『荷の覚』を最初に使ってくださったのも、小一郎様だ。近江と播磨と越前の書付が並んだのは、あの方が播磨の分を書いてくださったゆえだ」

 俺は、目を閉じた。

 (三つの方面軍が、初めて紙の上で繋がった日)

 あれは、天正九年の五月だった。あの日から、全部が始まった。


    ◇


 弔いの文を書いた。だが、返事は来なかった。

 三月経って、ようやく来た。文禄元年の二月だ。

 ――日向守様。返事が遅れ申した。書けなんだゆえにござる。

 俺は、その一行で、この男の三月を理解した。

 ――小一郎は、それがしの弟にござる。三つ下にござった。それがしが針を売っておった頃、あれは百姓をしており申した。それがしが侍になった折、あれを呼び申した。あれは、嫌がり申した。「わしは、百姓でよい」と。

 ――それがしは、無理に連れて参り申した。そして、四十年、使い申した。

 ――日向守様。それがしは、あれに一度も、礼を申しており申さぬ。

 俺は、書状を置いた。

 (――同じことを言っている)

 俺も、利三に礼を言っていない。二十年、言っていない。

 続きを読んだ。

 ――日向守様。数え申した。それがしを止めた者を。

 ――竹中半兵衛。五年前に、死に申した。

 ――黒田官兵衛。六年前に、中将様のもとへ参り申した。

 ――羽柴小一郎。此度、死に申した。

 ――三人にござった。そして、三人とも、おり申さぬ。

 俺は、その四行を、長いこと見ていた。


    ◇


 その夜、眠れなかった。

 (――誰も、止められぬ)

 五年前、半兵衛が死んだとき、あの男は「これで、それがしを止める者が、一人減り申した」と書いてきた。あのとき俺は、書付にこう書いた。止める者は、生きておるうちに増やしておかねばならぬ、と。

 増やせなかった。

 いや。増やしたのは、俺だ。官兵衛を、中将様のもとへ動かしたのは、俺の進言だ。あれは正しかった。中将様には分ける者が要った。だが、その結果、羽柴筑前守から、止める者が一人減った。

 (――俺が、抜いた)

 筆を取ろうとして、手が震えた。

「利三。書き取ってくれ」

「――は」

「――人を動かすとき、動かした先のことは考える。だが、動かした元のことを、考えておらぬ」

「――は」

「――抜けた穴を、誰が埋めるか。それを、書付に入れねばならぬ」

 利三が書き終えるのを待って、俺は続けた。

「もう一行。――そして、それは、間に合わぬことが多い」


    ◇


 文を書いた。長い文になった。

 ――筑前殿へ。官兵衛どのを中将様のもとへとお勧めしたのは、それがしにございます。あのとき、それがしは中将様のことしか考えておりませんでした。筑前殿から一人抜けることを、考えておりませんでした。お詫び申し上げます。

 ――そして、一つ、お願いがございます。止める者を、新しく作ってくださいませ。誰でもよろしゅうございます。ただし、二つの条件がございます。一つ、筑前殿が怒っても、辞めぬ者。二つ、筑前殿より、若い者。

 ――止める者は、こちらより長く生きねばなりませぬ。でなければ、また、こういう日が来まする。

 返事は、一月で来た。短かった。

 ――日向守様。お言葉、承り申した。ですが、一つ、申し上げたきことがござる。

 ――それがしを止められる者は、もう、おり申さぬ。若い者は、それがしを恐れ申す。恐れる者は、止め申さぬ。

 ――日向守様。それがしは、五十六にござる。そして、初めて、一人にござる。

 俺は、その三行を、書付の束に入れた。『諸将、心覚えの書』の、いちばん上だ。

 そして、その下に、自分の字で書き足した。

 ――右、天下にとって、いちばん危うき一行なり。


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