第126話 鷹の帳面(信長の三十一年)
天正十八年、六月。
安土にいた。久しぶりの登城だった。煕子の喪が明けてから、初めてだ。
半年、坂本を出なかった。城中の者に、毎日一人ずつ聞き、桶と閂を直し、帳面をつけた。半年で、帳面は一冊埋まった。誰が困っているかを書いた帳面だ。俺の名は、一度も出てこない。書いた者は、書かれない。あの人が二十年やっていたことの、意味が少し分かった。
舟が安土に近づいたとき、天守を見上げた。あの人は、寂しいのか。今は、その問いに、少しだけ答えられる気がした。俺も、半年、寂しかった。
信長は、小座敷にいた。
「日向守。痩せたな。――妻が、死んだそうだな」
「さようにございます」
「幾年、連れ添うた」
俺は、この体の記憶を探った。
「四十年ほどかと」
「長いな」
「長うございます。ですが、それがしが覚えておりますのは、十四年にございます。病で倒れる前のことは、薄うございますゆえ」
「日向守。まだ、思い出さぬか。十四年、経つぞ」
「さようにございます」
信長は、しばらく黙っていた。
「日向守。一つ、聞く。――おぬしは、誰だ」
(来た)
十四年、避けてきた問いだ。
「明智日向守にございます」
「そうではない。十四年前、おぬしは変わった。そして、それは、病で変わったのではない」
俺は、答えられなかった。長い沈黙があった。
「日向守。答えずともよい。わしは、十四年、おぬしを使うた。そして、役に立った。ゆえに、それでよい。――だが、一つだけ、言うておく。おぬしは、いずれ、誰かに言うたほうがよい」
「なにゆえ、でございましょうか」
「一人で抱えるものは、腐るゆえだ」
俺は、腹の底で受けた。
(そうだ)
十四年、これを抱えている。誰にも、言っていない。
「日向守。おぬしは、家臣に『言え』と言うてきたな。ならば、おぬしも言え。誰でもよい。――だが、生きておる者に」
(生きている者に)
煕子には、言えなかった。そして、あの人は、死んだ。
「承知いたしました」
◇
「日向守。九州へ行く。来年の春だ」
(春。六月ではない)
「上様。京へは、お入りになりますか」
「入る。二月だ」
(二月。形が、崩れた)
「九州へ行かれる折、中将様は、どちらに」
「安土だ。京には、入らぬ」
俺は、深く平伏した。
「日向守。おぬしは、どうする。――九州へ、来い」
(九州。遠い。そして、長い)
「上様。それがしは、六十二にございます。九州までの道は、耐えられませぬかもしれませぬ」
「日向守。ゆえに、来い。最後になるゆえだ。わしの戦だ。九州で、終いだ。日向守。おぬしは、十四年、わしの戦を見てきた。ゆえに、最後も、見よ」
「承知いたしました」
◇
退がろうとしたとき、信長が言った。
「日向守。これを、見よ」
厚い書付だった。開いた。数字が並んでいた。日付と、数字だけだ。
「上様。これは」
「鷹だ」
俺は、動けなかった。
(鷹の帳面だ)
めくった。永禄三年。永禄四年。永禄五年。
(三十年)
「上様。これは、三十年分にございますか」
「三十一年だ」
この人は、三十一年、鷹の重さを書き続けている。毎日。俺が「書け」と言い続けた十四年より、ずっと前から。
「上様。なにゆえ、これをお見せくださいます」
「日向守。おぬしは、わしが書かぬと思うておるな」
「思うておりました」
「書いておる。だが、これだけだ」
「なにゆえ、これだけなのでございましょうか」
「他は、覚えられるゆえだ。鷹は、覚えられぬ。毎日、少しずつ違う。そして、その少しの違いが、大事だ」
(そうか)
大きな違いは、覚えられる。だが、小さな違いは、覚えられない。
「上様。それは、人も同じにございます。人も、毎日、少しずつ違いまする。そして、その少しの違いが、大事にございます。ですが、覚えられませぬ」
「日向守。おぬし、わしを責めておるな」
「責めておりませぬ。ただ、惜しゅうございます。上様は、三十一年、鷹を量ってこられました。同じことを、家臣にもなさっておれば――佐久間様は、追われずに済んだかもしれませぬ」
長い沈黙があった。額を畳につけたまま、待った。
「日向守。顔を上げよ。――その通りだ。日向守。わしは、佐久間を三十年、見ておった。だが、量っておらなんだ。ゆえに、いつから落ちたかが、分からなんだ。そして、気づいたときには、遅かった。ゆえに、十九か条を書いた。あれは、三十年分を、一度に書いたものだ」
(そうか)
毎年書いていれば、あんなものにはならなかった。少しずつ、直せた。十九か条は、書かなかった三十年の請求書だった。
「上様。一つ、お願いがございます。この鷹の帳面を、写させてくださいませ」
「鷹の重さを、写してどうする」
「重さは、要りませぬ。量り方を、写しとうございます。上様が、どう量っておられるかを」
「日向守。それは、書いてはおらぬ」
「ゆえに、伺いとうございます」
「面倒だな」
「面倒にございます。ですが、上様がおられなくなれば、消えまする」
長い沈黙があった。
「日向守。九州へ来い。道は、長い。ゆえに、その間、話す」




