第125話 誰も、止めぬ
天正十八年、正月。
坂本にいた。年賀には、出なかった。喪に服す、と届けた。だが、本当は、動けなかった。
毎日、書院にいた。そして、帳面をつけた。煕子の帳面を、続けている。誰が、どうしたかを。
だが、書けなかった。
(知らない)
城中の誰が、何をしているか。俺は、知らない。
(聞くしかない)
◇
その日から、城中を歩いた。台所へ行った。およしがいた。二十六になっていた。子を抱いていた。
板が、浮かんだ。この十年、下働きの者に板が出たことはない。
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およし 二十六歳
坂本城 台所
【総評】毎日、同じ顔を見ている者。
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◆特記事項
変化の察知 九十五
己の功への自覚 三
字 四十二
桶の重さの記憶 百
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(――変化の察知、九十五)
諸将の誰よりも高い。上様でさえ、この項目は九十を超えていない。
そして、己の功への自覚、三。
(――この者は、自分が何をしているか、分かっておらぬ)
「お、お殿様ッ」
「よい。子は、元気か」
「元気にございます。与一と申します」
「およし。一つ、聞きたい。煕子は、何を書いておった」
「人のことにございます」
「どうやって、知っておった」
「聞いておられました。毎日、お一人ずつ。『変わったことはないか』と。そして、『困っておることはないか』と」
二つを、書き取った。
「およし。答えたか」
「最初は、答えませなんだ。言うても、仕方がないと思うておりましたゆえ」
(同じだ)
家中が言わなかった理由と、同じだ。
「いつから、答えるようになった」
「半年ほど後にございます。お方様が、直してくださったゆえ。――桶にございます。台所の桶が、重うございました。女子が持つには、大きすぎたのでございます。言いました。そして、三日で、小さい桶が来ました」
(三日)
小さなことだ。だが、三日で直った。
「およし。それで、答えるようになったか」
「さようでございます。言えば、直ると分かりましたゆえ」
――言うても仕方がないと思う者は、言わぬ。一つでも直れば、言うようになる。ゆえに、小さなことを、早く直せ。
(煕子は、これをやっていた)
十三年、毎日、一人ずつ聞いて。そして、小さなことを直していた。俺が「報告には必ず返事を書く」と決めた家で、この人は、返事の代わりに、桶を替えていた。
その日から、同じことを始めた。毎日、一人。城中の者に、聞く。最初は、誰も答えなかった。当然だ。俺は、城主だ。
一月ほど経って、変わってきた。
「お殿様。門の閂が、固うございます」
その場で、直させた。二日で、直った。
その次の日から、言う者が増えた。三月には、日に三つ、四つと出るようになった。全部書き取った。そして、直せるものは、直した。
◇
だが、四月。俺は、倒れた。
書院で、書付を書いている最中だった。突然、前が見えなくなった。気づくと、床にいた。利三が、隣にいた。顔が、真っ赤だった。泣いている。
「泣くな」
「泣いており申さぬ。殿。三日にござる」
(三日)
十四年前と、同じだ。あのときは、四日だった。
薬師が来た。八十六の老人だ。脈を取り、言った。
「日向守様。お疲れにござる。それだけにござる。ですが、今度は、深うござる。――お方様が、亡くなられ申した。そして、日向守様は、止める者を失われ申した」
俺は、動けなかった。
(止める者)
煕子は、俺を止めていた。「休め」と、言っていた。「たまには、今日終わることを」と。
「先生。利三がおります」
「斎藤様は、家臣にござる。家臣は、止めきれ申さぬ」
(そうか)
利三は、止めようとする。だが、最後には、従う。花押の覚でも、俺はそう言った。
「先生。ならば、いかがすれば」
「ご自分で、止まるしかござらぬ」
「それは、できましょうか」
「難しゅうござる。六十年、医をしており申すが、己で止まれた者を、見たことがござらぬ」
「先生。ならば、決まりにいたします」
老人は、少し笑った。
「日向守様らしゅうござる」
◇
書付を作った。
――日向守、休みの覚。一、月に三日、書付を持たざる日を設く。二、右の日は、亀山・坂本のいずれにもおらざること。三、右を守らざるときは、斎藤利三、明智秀満、三沢の三名にて、これを止むること。
三条目で、手が止まった。家臣に止めさせる。だが、家臣は止めきれない。
――四、右を止めたる者を、咎めざること。むしろ、功とす。『功の書』の『止めたる功』に記すこと。
(これなら)
止めることが、手柄になる。ならば、止めやすくなる。中将様が作った項目が、俺を止める道具になった。
家中に配り、信忠にも送った。返事は、五日で来た。
――書付、読んだ。そして、足りぬと思うた。家臣が主を止めるのは、難しい。ゆえに、わしが止める。月に三日、そなたを呼ぶ。そして、その三日は、書付の話をせぬ。日向守。これは、命令だ。そなたは、命令には従うであろう。
(上手い)
俺は、自分では止まれない。だが、命じられれば、従う。
◇
五月から、始まった。月に三日、岐阜へ行った。いや、岐阜ではない。
「日向守。城では、話をしてしまう。ゆえに、外へ行く」
最初に行ったのは、鷹狩だった。俺は、鷹狩をしたことがなかった。この体はしている。だが、俺は覚えていない。
「日向守。鷹を持て」
腕に鷹を乗せた。重い。そして、しばらく歩いた。何も、喋らなかった。
「日向守。鷹は、腹が減っておらねば、飛ばぬ。だが、減りすぎておっても、飛ばぬ。力が出ぬゆえだ。ゆえに、毎日、量を測る。鷹を、量る。そして、毎日、書き記す」
(帳面だ)
「中将様。それは、いつからなさっておられます」
「十のときからだ。父上に、教わった。『鷹は、毎日量れ』と。『そして、書き留めよ』と」
俺は、動けなかった。
(上様が)
「中将様。上様は、ご自身では書かれませぬな」
「書かぬ。だが、鷹だけは、書いておられた。今も、書いておられるはずだ」
「なにゆえ、鷹だけ」
信忠は、しばらく黙っていた。
「分からぬ。だが、一度、聞いたことがある。『鷹は、わしに何も言わぬゆえ』と」
俺は、動けなかった。
(そうか)
人は、言う。だが、鷹は、言わない。言わないものは、測るしかない。そして、測ったものは、書き留めるしかない。
しばらく歩いていた。
(上様は、知っていた)
言わないものを、どう扱うかを。そして、家臣は、言わない。
その日、書いた。
――人は、言わぬ。ゆえに、量らねばならぬ。そして、量ったものを、書き留めねばならぬ。上様は、それを、鷹で知っておられた。だが、人には、使われなんだ。
(なぜだ)
――なぜならば、人は、言うと思うておられたゆえ。




