第124話 十三年の帳面(煕子の死)
天正十七年、十一月。
煕子が、床に伏せた。
俺は、亀山にいた。報せは、その日の夜に来た。
「殿ッ。坂本より、火急の報せにござる」
――お方様、血を吐かれました。
「馬を」
その夜のうちに、坂本へ向かった。着いたのは、翌朝だった。
城に入ると、家中の者が並んでいた。誰も、何も言わなかった。
部屋の前で、薬師の老人が待っていた。八十五になる。
「日向守様。お入りくださいませ」
俺は、身を固くした。
(入れと言われた)
十三年、この部屋に入っていない。決まりを、守ってきた。入れと言われるのは。
「先生。それは」
「――もう、移り申さぬ」
その言葉の意味を、しばらく掴めなかった。
老人は、俺の顔を見て、少し眉を寄せた。
「日向守様。お顔の色が、お方様より悪うござる」
「――先生」
「まことにござる。どちらを診ればよいか、迷い申した」
俺は、笑いそうになった。笑いそうになって、笑えなかった。
「先生。それは、冗談でございますか」
「半分にござる」
老人は、薬箱を持ち直した。
「残り半分は、診立てにござる。――日向守様。中で倒れられますな。それがしは、八十五にござる。二人は運べ申さぬ」
俺は、頷いた。
「――努めまする」
「努めるでは、足り申さぬ」
老人は、そう言って、廊下の端へ下がった。
下がりながら、こう付け足した。
「日向守様。十三年にござる」
「――は」
「それがしは、六十年医をしており申すが。労咳を十三年抑えた家を、他に知り申さぬ」
俺は、動きを止めた。
「――だから、胸を張ってお入りなされ」そして、理解した。
◇
部屋に入った。
煕子は、床にいた。痩せていた。だが、目は、開いていた。俺を見て、少し笑った。
「あなた様」
俺は、座った。そして、手を取った。十三年ぶりだった。この人の手に、触れるのは。障子の外から、十三年、この手を見ていた。帳面を繰る手を。
「煕子。遅くなった」
「いつものことでございます」
俺は、少し笑った。そして、涙が出た。
「まあ。泣かれるのですね」
「泣かぬ」
「泣いておられます」
しばらく、二人とも黙っていた。
「あなた様。十三年でございます。本来なら、十三年前に死んでおりました」
「煕子。知っていたのか」
「存じておりました。あなた様が、必死でございましたゆえ。言わずとも、分かります。十三年、障子の外に座っておられました」
「あなた様。一つ、伺ってもよろしゅうございますか。あなた様は、なにゆえ、わたくしを助けられました」
「死なせたくなかったゆえだ」
「それだけでございますか」
俺は、しばらく黙っていた。
(それだけか)
正直に言った。
「煕子。もう一つ、ある。――試したかった。俺は、先が見えると思うていた。そして、それを変えられるかを、試したかった。煕子。すまぬ」
「謝られますな。嬉しゅうございます。わたくしは、あなた様の最初の証でございます。あなた様が、先を変えられるという証でございます。そして、十三年、生きました。充分でございます」
「煕子。まだだ。もっと、生きてくれ」
「あなた様。それは、無理でございます。ですが、一つ、頼みがございます。――帳面を、続けてくださいませ。あなた様が。そして、いつか、次の者に渡してくださいませ」
「誰に渡す」
「誰でも。見る方に」
「煕子。俺は、見ておらぬ」
「近ごろは、見ておられます。台所に、座られましたでしょう。およしが、喜んでおりました。およしは、今も、おります。そして、字を書きます。帳面も、つけております。わたくしが、教えました。五年前から」
「知らなかった」
「申しませなんだゆえ。あなた様が、お聞きになりませなんだゆえ」
(同じだ)
村井様のときと、同じだ。知っていると思えば、聞かなくなる。
「煕子。聞かせてくれ。俺の知らぬことを、全部」
「全部は、一日では終わりませぬ」
「ならば、幾日でもかける」
◇
その日から、毎日、煕子の部屋にいた。そして、聞いた。この十三年、何を見てきたかを。煕子は、話した。少しずつ、途切れながら。城の中のこと。誰が誰と仲が悪いか。誰が誰を助けているか。誰の子が生まれたか。
俺は、全部書き取った。
三日目、煕子が言った。
「あなた様。書いておられますね。あなた様らしゅうございます」
「煕子。忘れたくないゆえだ」
「忘れられて、よろしゅうございます。人は、忘れるものでございますゆえ。そして、忘れることは、悪いことではございませぬ」
「煕子。俺は、忘れるのが怖い。忘れれば、その者がおらぬのと同じになるゆえだ」
「あなた様。それは、違います。忘れても、残るものがございます。――やり方でございます。わたくしが死んでも、およしは帳面をつけます。そして、およしは、わたくしの名を忘れるでしょう。ですが、帳面は、続きます。あなた様。それで、よろしゅうございます」
◇
十二月三日。
煕子は、朝、言った。
「あなた様。今日は、よく見えます。障子が。光が、当たっております。開けてくださいませ」
立ち上がり、障子を開けた。湖が、見えた。冬の湖だ。
「きれいでございますね。十三年、見ておりました。毎日、この障子から」
俺は、動けなかった。
(知らなかった)
この人が、毎日、この景色を見ていたことを。俺は、外から座っていた。障子の同じ一枚を、この人は内から見ていた。
「あなた様。ありがとうございました」
「煕子。それは、俺が言うことだ」
「では、両方で」
◇
最後の朝、俺は一つだけ思い出していた。
六十四年前、俺は二歳で母を見送った。何も言えなかった。喋れなかったからだ。
あのとき、俺は思った。次は、言おうと。
(――言えたか)
三日、話した。この人が見てきたものを、全部聞いた。
言うべきことは、たぶん一つも言えていない。
だが、聞いた。
――二歳の俺には、それができなかった。
◇
その日の夕。煕子は、静かに息を引き取った。五十五だった。
俺は、手を握っていた。最後の言葉は、こうだった。
「あなた様。帳面を」
◇
その日から、三日、部屋を出なかった。利三が来た。会わなかった。
四日目の朝。部屋を出て、書院へ行った。机の上に、帳面が置いてあった。煕子の帳面だ。
最後のページに、こう書いてあった。
――十一月二十九日。およし、子を産む。男子。祝いの品を、出すこと。
(最後まで)
血を吐いた日の、前日だ。そして、書いている。
筆を取り、その下に書いた。
――十二月三日。明智煕子、死す。
手が止まった。そして、書き足した。
――祝いの品は、出したか。




