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天才創業者・織田信長の下で潰れる前に、本能寺が起きない組織を作ります~MBAホルダー明智光秀の事業承継計画  作者: 東雲 諒杏
第十三章 鷹の帳面

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第121話 上げなかった報せ


 ――六月は、二度過ぎた。何も起きなかった。

 ――上様は、三十一年、鷹の重さを書き続けておられた。

 ――そして、妻の咳が、また戻ってきている。


 天正十六年、七月。

 信長は、安土へ戻った。京での逗留は、二十日で終わった。二度目の六月も、過ぎた。

 俺は、亀山へ戻り、しばらく休んだ。三日だけだ。

 四日目、書状が来た。森乱丸からだった。

 ――先般のお教え、心に留めており候。そして、書き始め申した。『上げたる報せ』と『上げざる報せ』を、分けて記し候。そして、二十日で、驚き申した。上げたる報せ、百四十二。上げざる報せ、二百七十八。

 (二百七十八)

 上げた報せより、上げなかった報せのほうが多い。二倍近い。そして、誰も、それを知らない。上様の頭に入るものは、乱丸の手で、既に三分の一に減っていた。

 ――日向守様。それがしは、これを恐ろしいと思い申した。上げざる報せの中に、上げるべきものがあったのではないかと。

 (そうだ)

 返事を書いた。

 ――上げざる報せの中に、上げるべきものは、必ずございます。それは、避けられませぬ。なぜならば、上げるべきかどうかは、後になって分かることゆえにございます。ゆえに、大事なのは、誤らぬことではございませぬ。誤ったと分かったとき、直せることにございます。乱丸どのが書き留めておられれば、後で見返せまする。『あのとき、上げるべきであった』と分かりまする。そして、次から、同じものを上げるようになりまする。

 村井様の、誤りの印と同じだ。消さずに、残す。

 返事は、十日で来た。

 ――上げざる報せを、上様にお見せしてよろしゅうござるか。

 (難しい)

 見せれば、「なぜ上げなかった」と問われる。咎められる。だが、見せねば、意味がない。

 三日考えて、書いた。

 ――お見せなさいませ。ただし、二つ、お願いがございます。一つ。全部をお見せにならず、月に一度、まとめてお見せくださいませ。二つ。『上げざる理由』を、書き添えてくださいませ。理由を書けば、それは判断にございます。理由がなければ、それは怠りにございます。


    ◇


 八月。安土に呼ばれた。

 信長は、厚い書付を持っていた。

「日向守。これを見よ」

 ――上げざる報せ、覚。七月分。

 (もう、出したのか)

 ――七月三日。近江某村より、水争いの訴え。上げず。理由。中将様の裁きに属するゆえ。

 ――七月五日。堺の商人より、鉄砲の値の報せ。上げず。理由。急ぎにあらざるゆえ。

 ――七月八日。丹波の国衆より、年貢の願い。上げず。理由。日向守様に回したるゆえ。

 (丁寧だ)

 全部に、理由が書いてある。どこへ回したかも。

「上様。これは、良い書付にございます」

「日向守。おぬしが教えたか」

「教えました」

「これを読んで、わしは驚いた。二百七十八だ。わしは、二百七十八のことを、知らなんだ。――そして、そのほとんどが、要らぬものだった。二百七十八のうち、わしが見たかったものは、四つだ」

「四つ」

 信長は、書付をめくった。

 ――七月十一日。安土の町にて、火事。家十軒。上げず。理由。町奉行の役に属するゆえ。

「上様。これは、なにゆえ」

「安土は、わしの町だ。そして、火事は、町の作りに関わる」

 (そうか)

 町奉行にとっては、火事は日常だ。だが、上様にとっては、町の設計の問題だ。見る高さが、違う。

 残りの三つ。堺に南蛮の船が入った。北陸に雪の予兆。中将様が二条で評定を開き、諸将十二名が集まった。

 俺は、その三つを読み終えて、書付をもう一度繰った。

 四つ目の少し後に、短い一行があった。信長が印をつけていない行である。

 ――七月十九日。三河守どのの使者、安土に参る。献上の品を置き、二日逗留して帰る。上げず。理由。例年の通りゆえ。

「上様。この一行は、お目に留まりませなんだか」

 信長は、紙に目を落とした。

「――三河か」

「例年の通り、と書いてございます」

「そうであろう。あれは、毎年来る」

 俺は、その言葉に引っかかった。

 毎年来る、ということは、一度も欠かしていないということだ。

 二十年、一度もである。

「上様。二日逗留して帰る、とございます」

「それが、どうした」

「――二日では、何もできませぬ」

 献上なら半日で済む。商いなら五日は要る。二日というのは、挨拶をして、安土の様子を見て、帰るのにちょうどよい長さである。

 信長は、少し目を細めた。

「日向守。おぬし、それを疑うか」

「疑うておりませぬ。感心しております」

 俺は、正直に言った。

「二十年、同じ長さで、同じ季節に来るものは、誰も記録いたしませぬ。例年の通り、の五文字で済みますゆえ」

 信長は、しばらく黙っていた。

 それから、その行に、墨で小さく丸をつけた。

「――五つ目だ」


    ◇


 (共通するものがある)

「上様。この四つは、全部、『誰かの役に属する』ゆえに、上げられておりませぬ。そして、上様がご覧になりたいのは――『誰かの役に属しておるが、繋がっておるもの』にございますな」

「日向守。うまく言うな」

 その場で書いた。

 ――上げざる報せの中にても、次のものは上ぐべし。一、二つ以上の役に関わるもの。二、町の作り、国の作りに関わるもの。三、他国、他家の動きに関わるもの。四、諸将が集まりたるもの。

 四つ目を書いて、手が止まった。

 (これは)

 「諸将が集まった」ことを報せる。それは、監視だ。

「上様。四つ目にございますが。これは、諸将を見張ることになりまする」

「そうだ」

「上様。それは、隠さぬほうがよろしゅうございます。この書付を、諸将にも配りまする。『諸将が集まりたるときは、上様に報せる』と、明らかにいたしまする」

「なぜだ」

「隠して見張れば、それは間者にございます。明らかにして見張れば、それは定めにございます」

「日向守。おぬしは、いつもそれを言うな。――だが、正しい。配れ」


    ◇


 九月。書付は、諸家に配られた。反応は、意外なものだった。

 柴田勝家。

 ――『諸将が集まりたるときは、報せる』とあった。これは、良い。わしは、これまで、他家の者と会うのを避けておった。疑われるゆえだ。だが、報せるのが定めなら、避けずともよい。

 (そうか)

 見張られることが、逆に自由を生む。報せれば、堂々と会える。諸将直繋ぎの覚で「隠すな」と書いたのと、同じことが、上様の側からも起きた。

 ――明らかなる見張りは、束縛にあらず。むしろ、自由を生む。なぜならば、隠さずともよくなるゆえ。


    ◇


 十月。坂本へ戻った。久しぶりだった。

 煕子が、門で待っていた。

「お帰りなさいませ」

 馬から降りた。

 (痩せた)

 去年より、明らかに。

「煕子。加減は」

「変わりございませぬ」

 (変わりない)

 その言葉を、十二年前から聞いている。そして、いつも、それは嘘だった。

 その夜、薬師を呼んだ。老人は、もう八十を超えていた。だが、まだ脈は取れる。診立ては、半刻かかった。

「日向守様。お方様は、よくお持ちになっておられます」

 (「持っている」。「治っている」ではない)

「先生。正直に、お聞かせくださいませ」

「労咳は、消えており申さぬ。抑え込んでおるだけにござる」

「抑え込んでおれば、生きられますか」

「生きられ申す。ですが、抑え込む力は、年と共に、落ち申す」

「先生。あと、幾年でございましょうか」

「分かり申さぬ。ですが、十二年、持ち申した」

 (十二年)

 本来なら、十二年前に死んでいた。十二年、生きた。

「先生。かたじけのうございます」

「日向守様。それがしは、来年で、八十五にござる。そろそろ、次の者を、お決めなされ」

 (そうだ)

 この人も、いなくなる。そして、この人の知識も。

「先生。一つ、お願いがございます。――書き残していただきとうございます。先生が、この十二年、煕子に何をなさったか」

 老人は、しばらく黙っていた。

「日向守様。それは、書けませぬ。それがしは、何もしており申さぬゆえ。薬を煎じ申した。脈を取り申した。だが、お方様が生きておられるのは、それがしのゆえではござらぬ。――日向守様の、決まりにござる。桶の水を、日に三度替える。部屋を分ける。看る者を四人に定める。日に当てる。魚と卵を食わせる。あれが、効き申した」

「先生。それは、先生に教わったことにございます」

 老人は、少し笑った。

「教え申した。だが、束ねたのは、日向守様にござる。日向守様。それがしは、六十年、医をしており申す。そして、同じことを、幾度も申し上げてきた。『水を替えなされ』『日に当てなされ』と。――だが、誰も、続け申さぬ」

「なにゆえ、でございましょうか」

「面倒ゆえにござる。そして、すぐには効かぬゆえにござる」

 (そうだ)

「先生。ゆえに、決まりにいたしました。決まりであれば、面倒でも、続きまする」

「日向守様。――それを、書き申そう」


    ◇


 その冬、老人は書付を書いた。

 ――長く病む者の看方。

 読んで、思った。これは、労咳だけの話ではない。長く病む者を、どう看るか。そして、どう生きさせるか。

 写した。十通。諸家に送った。柴田様。羽柴様。丹羽様。滝川様。中将様。上様。村井様。

 最後の一通を、玉に送った。文を添えた。

 ――玉へ。これは、母を十二年生かした書付だ。子が病んだとき、使え。

 筆を止め、書き足した。

 ――そして、おぬしが病んだときも、使え。


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