第120話 二度目の六月
天正十六年、六月。
俺は、また京の西にいた。去年と、同じ寺だ。兵は、二千。去年と、同じ。
だが、一つだけ違うことがあった。信忠が、京にいる。
――第二条。上様と中将様は、同じ国に同時に入る場合、別の宿所に泊まること。
上様は、本能寺。信忠様は、妙覚寺。地図を広げた。十町ほど、離れている。
「利三。これで、よいか」
「離れており申す。ですが、殿。十町は、近うござる」
(そうだ)
十町。一里に満たない。兵なら、四半刻で行ける。史実の六月二日、二条御新御所と本能寺は、この程度の距離だった。同じ朝に、両方が燃えた。
「利三。だが、これ以上は、離せぬ。京は、狭い」
「ならば、片方を京の外に」
「それは、書付に反する」
第二条は、「別の宿所」としか書いていない。距離を、書いていない。
(甘い)
――第二条、補い。『別の宿所』とは、一里以上離れたる場所を申す。
(今年は、間に合わぬ)
既に、二人は京にいる。来年から、だ。
信忠に送った。返事は、その日のうちに来た。京にいるから、速い。
――書付、読んだ。そして、動く。妙覚寺は、近すぎる。ゆえに、二条の御所へ移る。
(動く)
地図を確かめた。二条。少し遠い。だが、一里には届かない。十五町ほどだ。
――二条の御所は、まだ近うございます。京の外へ、お移りいただきとうございます。
――京の外へは、出られぬ。父上が、京におられるゆえだ。そなたの言うことは、正しい。だが、わしが京の外に出れば、家中はこう思う。『中将様は、父上を避けておられる』と。
(そうだ)
制度と、人の目は、違う。制度上は、正しい。だが、そう見られない。
――ゆえに、二条とする。そして、もう一つ、決めた。二条の御所には、兵を置く。五百だ。なぜならば、二条の御所は、守れる作りだからだ。塀があり、堀もある。
(そうだ)
二条の御所は、元は将軍の御所だ。城に近い作りをしている。本能寺とは、違う。
(待て)
守れる場所に、信忠様がいる。守れない場所に、上様がいる。逆ではないか。
――中将様へ。一つ、お願いがございます。上様に、二条へお移りいただけませぬか。二条は、守れる作りにございます。本能寺は、寺にございます。
返事は、二日で来た。
――申し上げた。だが、断られた。父上は、こう申された。『わしが守りに入れば、天下が守りに入る』と。そして、こうも申された。『日向守が守っておる』と。
俺は、拳を握った。
(信じられている)
そして、それが、重い。
◇
六月十日。京の西で、日々の書付を書いていた。弥助が、日に三度、来る。
朝。「お変わりございませぬ」。昼。「お変わりございませぬ」。夕。「お変わりございませぬ」。
十一日。異変なし。十二日。異変なし。十三日。異変なし。
同じ四文字を、繰り返し書いた。何もない日を、何もないと書く。それが、鷹の帳面になっていくことを、このときの俺は、まだ知らない。
◇
六月十四日。朝、弥助が来なかった。
(また、か)
書付を確かめた。四半刻に及びしとき。まず、武具を着けざる者一人を遣わし、様子を見ること。
四半刻を数えた。
「利三。人を出せ」
俺は、待った。今度は、落ち着いていた。去年、学んだ。まず、確かめる。兵は、動かさない。
半刻。戻ってきた。
「申し上げますッ。弥助様は、おられませぬ。安土へ、使いに出られたとのこと」
(安土)
「誰が、代わりに来る」
「分かり申さぬ」
拳を握った。
(決めていない)
代わりの者を、決めていない。俺の書付に、それがない。去年、「来られぬときは来られぬと報せよ」と書いた。「来られぬときは誰が来るか」は、書いていない。
その日のうちに、本能寺へ使者を出した。代わりの者を、決めていただきたい、と。
返事は、夕に来た。使者は、若い小姓だった。二十三、四か。美しい顔立ちをしている。
「明智日向守様にございますか。森乱丸にございます」
記憶が動いた。
(ああ)
本能寺で、上様と共に死んだ小姓。
「日向守様。上様よりのお言葉にございます。『弥助の代わりは、乱丸とする』と」
「承知いたした。――乱丸どの。一つ、お願いがある。あなたが来られぬときは、誰が来るかを、決めておいていただきたい。病むこともある。用ができることもある」
「日向守様。それは、上様にお伺いいたします」
「いや。あなたが、決めてくだされ。これは、小さなことだ。小さなことまで上様に伺えば、上様のお手が塞がる」
「日向守様。それがしは、上様の小姓にございます。己で決めることは、ございませぬ」
俺は、しばらく黙っていた。
(そうか)
この男は、決めたことがない。上様の言葉を、運ぶだけだ。
「乱丸どの。一つ、伺ってよろしいか。上様に上げる報せの順は、誰が決めておられる」
「それは、それがしが」
「決めておられるな」
「――それは、決めておるのではございませぬ。急ぐものから、上げておるだけにございます」
「何が急ぐかは、誰が決める」
乱丸は、しばらく黙っていた。そして――
(気づいた)
その顔を見て、そう思った。
「――それがしが、決めております」
「さようだ。乱丸どの。あなたは、既に決めておられる。そして、そのことに、気づいておられなかった」
「日向守様。それは、恐ろしいことにございます」
「さようだ。だが、あなたが決めねば、誰も決められぬ。ゆえに、決めてくだされ。そして、決めたことを、書き留めてくだされ」
「それがし、何を書き留めればよろしゅうございましょうか」
「上様に上げた報せと、上げなかった報せを」
乱丸は、動けなかった。
「上げなかった報せも、でございますか」
「さようだ。――そちらのほうが、大事だ」
乱丸は、平伏した。そして、立ち上がるとき、一度だけ、俺を見た。決めることを命じられた者の、最初の顔だった。俺は、その顔を、八年前の信忠に見たことがある。




